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第16話:夏期講習、予備校への潜入ミッション!

8月上旬。

 太陽は容赦なく地上を焼き尽くし、アスファルトの上では陽炎がゆらめいている。

 世間は夏休み真っ只中。海へ、山へ、レジャーへと繰り出す人々で溢れかえっているが、私――菌田きんだきのこにとって、今年の夏は「大干ばつ」にも等しい過酷な季節だった。

 私の部屋の湿度は、危険水域まで低下していた。

 エアコンの効いた室内で、私はベッドの上に力なく横たわっていた。

 指先が震える。視界が霞む。

 これは熱中症ではない。もっと深刻な、生物としての欠落症状だ。

「……水……いえ、先輩……」

 カサカサに乾いた唇から、うわ言が漏れる。

 神木かみき先輩に会えない日が、もう3日も続いている。

 たった3日。しかし、成長の早い菌類にとっての3日は、人間でいう3年に匹敵する(当社比)。

 先輩は今、駅前の巨大な要塞――予備校『進学フォートレス・ゼミナール』に幽閉され、朝から晩まで無菌室のような教室に閉じ込められている。

 私の大切な宿主ホスト。私の心の湿り気。私の栄養源。

 その供給が断たれた今、私という菌体は、深刻な**「先輩欠乏症」**に陥っていた。

「……体が……乾く……」

 私は自分の腕を見た。

 心なしか、肌のツヤが失われ、ドライフラワーのようにカサついている気がする。

 頭につけたベニテングタケの髪飾りも、しょんぼりと項垂れているようだ。

 このままでは、私は「菌田きのこ」から「干田ほしだ干し椎茸」になってしまう。

 旨味は凝縮されるかもしれないが、生体としての機能は停止する。それは死だ。

「……うぅ……先輩の……困った顔が見たい……」

「……『やめてよ菌田さん』っていう……あのツッコミを浴びたい……」

 末期症状だ。

 幻聴さえ聞こえてくる。

 私は、最後の力を振り絞って、枕元にあった図鑑『世界のキノコ』を握りしめた。

「……ダメよ。ここで枯れたら、先輩が他の雑菌ライバルに汚染されてしまうかもしれない……」

 予備校には、他校の女子生徒という未知の胞子が舞っているはずだ。

 弱っている先輩は、免疫力が低下している。

 もし、魔が差して、可愛い女子の差し入れた「普通のクッキー」なんかを食べてしまったら?

 私の菌糸ネットワークが上書きされてしまう!

「……行かなきゃ……!」

 生存本能が、萎縮しかけた私の細胞を叩き起こした。

 ガバッ!

 私は跳ね起きた。

 待っているだけでは、雨は降らない。

 環境が適さないなら、自ら環境を変えに行く。それが菌類の、いや、恋する乙女の生存戦略サバイバルだ。

「待っていてください、先輩。今すぐ私が……貴方の元へ潤いと粘液を届けに行きます!」

 私はフラつく足取りでキッチンへと向かった。

 目的は一つ。

 最強の栄養価を持つ「特製弁当」を作り、予備校へ潜入すること。

 そして、先輩の姿を見て、私自身も光合成を行うことだ!

          ◇

 午前11時。

 私は駅前の予備校ビルの前に立っていた。

 見上げるような巨大なガラス張りのビル。

 ここが、先輩の戦場。そして、私の給水ポイントだ。

 当然、部外者は立ち入り禁止。

 入口には屈強な警備員が立ち、IDカードのない者はゲートを通れない。

 だが、今の私には「渇き」という最強の原動力がある。

「……ふふふ。生態系の隙間に入り込むのは、分解者の得意技よ」

 私は近くの公衆トイレで変装を済ませていた。

 地味なグレーの作業着。頭にはタオルを巻き、大きなマスクで顔を覆う。手にはモップとバケツ。

 完璧な**「清掃スタッフ」**スタイルだ。

 人間は、景色に溶け込んだ「裏方」を意識しない。

「おはようございまーす。空調フィルターの除菌清掃に参りましたー」

 私は野太い声を作り、堂々と正面ゲートを突破した。

 警備員は「ご苦労さん」と軽く手を挙げただけ。

 成功だ。

 建物の中に入ると、強力な冷房の風が私を包み込んだ。

 涼しい。

 そして何より……空気中に微かに漂う、先輩の残り香!

「……はぁ、生き返る……」

 私は深呼吸をした。

 肺の奥まで先輩と同じ空気が満たされる。

 干からびていた私の細胞が、水を得た魚のように――いや、雨を得たキクラゲのように、プルプルと蘇っていくのを感じる。

          ◇

 エレベーターで、先輩がいるはずの自習室フロアへ上がる。

 廊下をモップで拭くふりをしながら、ガラス越しに大教室の中を覗き込む。

 数百人の受験生たち。

 その中に――いた。

 窓際の後ろから二番目の席。

 神木先輩だ。

 Tシャツにパーカーを羽織り、真剣な表情でノートを取っている。

 少し痩せただろうか。頬のラインがシャープになり、いつもの優しい雰囲気の中に、悲壮な覚悟のようなものが漂っている。

 ドクン。

 心臓が大きく跳ねた。

 ああっ、先輩。動いてる。生きてる。

 ペンを回す癖も、時々首をコキッと鳴らす仕草も、全部そのままだ。

「……尊い……」

 マスクの下で、私はよだれならぬ粘液を垂らしそうになった。

 先輩を見るだけで、ビタミン剤を点滴されたような活力が湧いてくる。

 でも、先輩の方は限界そうに見える。

 背中から漂うオーラが薄い。栄養不足だ。

「待っててね。今、極上の燃料を注入してあげるから」

 チャイムが鳴った。

 ランチタイムだ。

 先輩がカバンから弁当箱を取り出し、ラウンジへと向かう。

 私はモップを握りしめ、その後を尾行ストーキングした。

          ◇

 ラウンジは混雑していたが、先輩は運良く隅のテーブル席を確保した。

 お茶を買いに、自販機へ立つ先輩。

 今だ!

 サッ。

 私は風のように先輩のテーブルに滑り込んだ。

 そこに置いてあるのは、お母様の手作りと思われる、可愛らしい紺色の弁当箱。

 私はそれを回収し、代わりに持参した**「特製・菌活重箱」**を置いた。

 サイズ、色、重さ。

 全てにおいて威圧感が違う、漆黒の弁当箱だ。

 私は素早く柱の陰に隠れた。

 先輩が戻ってくる。

 席に着き、箸を手に取る。

 そして、目の前の異変に気づいてフリーズした。

「……あれ?」

 先輩が首を傾げた。

「弁当箱……こんな色だったっけ? 母さん、間違えて父さんのを持たせたのかな……?」

 疑いながらも、空腹には勝てないのか、先輩は弁当箱の蓋に手をかけた。

「いただきます」

 パカッ。

 その瞬間。

 予備校の無機質なラウンジに、異質な「闇」が解き放たれた。

 弁当箱の中身。それは、徹底的に**「黒」だった。

 ご飯は、竹炭とイカ墨を混ぜ込んで炊き上げた『暗黒の炭化米』。

 おかずエリアを占拠するのは、黒い塊の山。

 『木耳キクラゲの佃煮』。

 『黒マイタケの焦がし醤油炒め』。

 『トリュフ風味の黒豆』。

 そしてメインディッシュは、真っ黒に煮込まれた『カバノアナタケの煮込みハンバーグ』**。

「うわあああああっ!!?」

 先輩が椅子から転げ落ちそうになった。

「な、なんだこれ!? 炭!? 焼け跡!? バイオハザード!?」

 周囲の生徒たちがギョッとして注目する。

「おい、あいつの弁当やべえぞ……」

「ダークマター食べてる……」

 先輩は震える手で蓋を持ったまま、呆然としている。

「母さん……僕のこと恨んでるのかな……。浪人は許さないっていう無言の圧力……?」

 違う。それは私が徹夜で煮込んだ「合格への執念」よ。

 先輩は恐る恐る、箸で黒いハンバーグをつついた。

 その時。

 私は我慢できずに、柱の陰から飛び出した。

 これ以上、隠れて見ているだけなんて無理。

 先輩の近くに行きたい。先輩の声を聞きたい!

「違います先輩! それは愛のエネルギー充填チャージです!」

「!!?」

 先輩が振り返る。

 そこには、怪しい清掃員姿の私が立っている。

「き、菌田さん!?」

 先輩は一瞬で私の正体を見破った。

「なんでここに!? その格好! ……まさか、この弁当も!?」

「先輩の栄養状態が心配で、居ても立ってもいられなくて潜入しました! さあ、食べてください! 脳細胞を活性化させる成分をフルコースで詰め込みました!」

 私はズカズカと先輩の席に座り込んだ。

 先輩の近くに来ると、私の乾いた肌がみるみる潤っていくのがわかる。

 これよ。この感覚。

 やっぱり私は、先輩のそばじゃないと生きていけない。

「これ……食べるの? 本気で?」

 先輩が泣きそうな顔で黒い物体を見る。

「もちろんです。テーマは『脳内革命・ブラックアウト』です。カバノアナタケには抗酸化作用があり、脳の酸化を防ぎます。キクラゲは血液をサラサラにし、酸素供給量を増やします!」

「情報量が多いよ! ……ていうか、菌田さん」

 先輩が、私の顔をジッと見た。

「君こそ、なんか……やつれてない?」

 え?

 私は自分の頬に手を当てた。

「目の下、クマできてるし。肌もカサカサだよ。……大丈夫?」

 先輩の心配そうな声。

 その優しさが、干からびた心に染み渡る。

「……うぅっ……」

 涙が出そうになった。

「……先輩不足だったんです」

「はい?」

「先輩に会えないから、光合成ができなくて……枯れそうだったんです。でも、今、復活しました!」

 私が鼻をすすると、先輩は呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。

「バカだなぁ。……わかったよ。食べるよ。君が元気出るなら」

 先輩は覚悟を決めて、黒いハンバーグを口に運んだ。

 パクッ。

「……ん?」

 咀嚼する先輩の目が、少し見開かれる。

「……あれ、美味しい」

「でしょう?」

「見た目は焦げたゴムみたいだけど……味は、すごい深いコクがある。キノコの出汁が効いてて、お肉も柔らかい……」

 先輩の箸が進み始める。

「炭ごはんも、意外と香ばしくていけるな。……なんか、体がポカポカしてきた」

 当然だ。

 隠し味に、代謝を上げる「ヒハツ」と、集中力を高める「ローズマリー」のエキスも注入してある。

 先輩の青白かった顔に、血色が戻っていく。

 それを見るだけで、私の方も満腹になったような気分だ。

「美味しいよ、菌田さん。……ありがとう」

 先輩が、完食して手を合わせた。

 その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥にあった「渇き」は完全に癒やされた。

「……でもさ」

 先輩が真顔に戻って、私を指差した。

「不法侵入だよね? 警備員さん、こっち見てるよ」

 え?

 振り返ると、ラウンジの入口で、警備員と教務スタッフが赤鬼のような形相でこちらを指差していた。

「おい! そこの清掃員! うちのスタッフじゃないな!?」

「あ、バレちゃいました」

 私は慌てて立ち上がった。

「先輩、逃げます! 弁当箱は洗って返してくださいね!」

「ちょっと! 置き去り!?」

「午後の授業、頑張ってください! 私の菌糸パワーで、E判定なんて吹き飛ばしてください!」

 私はモップを放り出し、脱兎のごとくラウンジを駆け抜けた。

 「待てー!!」

 警備員の怒号が響く。

 私は非常階段へと飛び込みながら、最後にチラリと振り返った。

 先輩は、苦笑いしながらも、元気そうに手を振ってくれていた。

          ◇

 ビルの外に出ると、真夏の太陽が眩しかった。

 でも、もう暑さは苦にならない。

 私の体の中には、先輩からチャージしたエネルギーが満ち溢れている。

 枯れかけていた菌糸は、今やジャックと豆の木のように天まで届く勢いだ。

 スマホが震えた。先輩からのLINEだ。

 『ごちそうさま。すごく元気出た。……でも、次は普通に会おうね。心臓に悪いから』

「任せてください、先輩。次はもっと驚くような、濃厚な差し入れを持ってきますから!」

 私の培養計画は、まだまだ終わらない。

 夏は長い。

 枯れている暇なんてないのだ。

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