第15話:夏祭り、浴衣の袖は菌糸入り!
7月。
梅雨が明け、本格的な夏が到来した。
アスファルトが陽炎を上げ、セミたちが命の限り鳴き叫ぶこの季節。
世間では「夏休み」という開放的な響きに包まれているが、受験生にとっては地獄の釜の蓋が開いたも同然だ。
「夏を制する者は受験を制する」。
そんな呪いのようなスローガンに追い立てられ、神木先輩は日々、予備校の自習室という名の「乾燥室」に閉じこもっていた。
ある日の放課後。
私は、久しぶりに学校の図書室で先輩を捕獲した。
冷房の効いた室内にもかかわらず、先輩の顔色は悪かった。目の下のクマは濃くなり、肌はカサカサに乾燥している。
「……先輩。水分値が低下しています。まるで日照り続きで干からびたシイタケのようです」
「……あ、菌田さん。……うん、ちょっと寝不足でね」
先輩が力なく笑う。手には英単語帳が握りしめられたままだ。
「これはいけません。過度なストレス熱で、脳内の菌糸が死滅しかけています。適度な『ガス抜き』が必要です」
私はポケットから、一枚のチラシを取り出し、先輩の単語帳の上にバシッと叩きつけた。
「……何これ? 『七夕・納涼夏祭り』?」
「今夜です。行きましょう」
「えっ、無理だよ。今夜も予備校に行かないと……」
「ダメです! 煮詰まった状態での学習は、腐敗を招くだけです! 新鮮な空気を吸い、夜風に当たり、脳をリフレッシュさせてこそ、新たな養分を吸収できるのです!」
私は先輩の手を強引に引いた。
「たった数時間です。これは『サボり』ではありません。『環境調整』です!」
「ちょ、菌田さん! 待って、せめて荷物くらい置かせて!」
◇
夕暮れ時。
私たちは神社の参道にいた。
提灯の明かりが灯り、ソースの焦げる匂いと綿菓子の甘い香りが漂っている。
浴衣姿のカップルや家族連れが行き交う中、私と先輩もまた、浴衣に身を包んでいた。
「……ねえ、菌田さん」
紺色の浴衣を着た先輩が、袖を気にしながら言った。
「この浴衣、なんか……重くない?」
「気のせいですよ。男の浴衣は帯の位置が低いので、そう感じるだけです」
「いや、袖とか、背中とか、なんかズッシリくるんだけど。あと、微かにミントと……土の匂いがする」
鋭い。さすが私の宿主だ。
実は、この猛暑の中で先輩が熱中症にならないよう、私はこの浴衣に『特製冷却システム』を仕込んでおいたのだ。
「先輩、夏祭りの敵は『熱』です。人混みの熱気で脳が茹だってしまっては元も子もありません」
私は自分の浴衣(キノコ柄)の袖を捲ってみせた。
「だから、先輩の浴衣の裏地には、保水力抜群の**『シロキクラゲ』をたっぷりと縫い付け、そこに冷却ジェルとハッカ油を染み込ませておきました」
「えっ!?」
「シロキクラゲは自重の500倍の水分を保持できます。その気化熱を利用して、先輩の体温を常に快適な温度に保つのです。名付けて『着るクーラー・マッシュルームVer』**です!」
「キクラゲ縫い付けたの!? だから背中がゴワゴワするのか!」
「感謝してください。市販の冷却シートより長持ちしますよ」
「カビたりしないよね!? 終わったらすぐに脱ぐからね!?」
文句を言いながらも、先輩は「涼しい……かも」と満更でもなさそうだ。
ハッカのスーッとした清涼感と、キクラゲのひんやりとした感触が、受験勉強で火照った体を冷やしてくれているのだろう。
◇
私たちは人混みの中を歩き出した。
しかし、先輩の様子がおかしい。
右手には焼きそばを持っているが、左手にはまだ「英単語帳」が握られているのだ。
歩きながら、チラチラと単語帳を見ている。
「apple... application... appoint...」
「先輩! 今すぐその『紙の束』をしまってください!」
「えっ、でも、隙間時間も無駄にしちゃいけないって予備校の先生が……」
「ここは祭り会場です! 五感をフル活用して『生』を感じる場所です! 単語なんて死んだ知識より、目の前の焼きトウモロコシの焦げ目(メイラード反応)を見なさい!」
私は先輩の単語帳を奪い取り、自分の巾着袋に封印した。
「ああっ、僕の『単語帳』が!」
「今は、お祭りに集中してください。……迷子にならないように、ほら」
私は先輩の空いた手を掴んだ。
浴衣の袖越しではなく、直に。
先輩の手は、少し汗ばんでいて、熱かった。
「……菌田さん」
「はぐれたら大変ですから。人混みは菌糸が絡まり合うようなものです」
「……うん。そうだね」
先輩が握り返してくれる。
その力強さに、私の心臓がドクンと脈打った。
周りの雑踏が遠のく。
ただ、隣にいる先輩の体温と、下駄のカランコロンという音だけが響く。
「見てください先輩、金魚すくいです! 金魚は脊椎動物ですが、水カビ病に弱いので親近感が湧きますね」
「どんな親近感だよ……。あ、射的がある」
「やりましょう! 景品の『巨大キノコのぬいぐるみ』を狙ってください!」
「よし、やってみるよ……」
先輩は意外と射的が上手かった。
コルク銃を構える真剣な横顔は、数学の問題を解く時と同じくらい鋭くて、カッコいい。
見事にぬいぐるみを撃ち落とした時、先輩は少年のように笑った。
「やった! 取れたよ菌田さん!」
「すごいです先輩! 胞子を飛ばす勢いでした!」
笑い合い、食べ歩き、境内を巡る。
先輩の顔から、あの淀んだ「受験生の陰」が消えていた。
やっぱり、連れ出して正解だった。
私の診断に間違いはない。
◇
しかし。
私の計算には、一つだけ誤算があった。
それは「日本の夏の湿気」と「人混みの熱気」が、予想以上にキノコの活性化を促してしまったことだ。
祭りが最高潮に達し、花火の打ち上げ時刻が近づいた頃。
先輩が妙な動きをし始めた。
「……ん?」
背中や脇の下を、モゾモゾと気にしている。
「どうしました?」
「いや……なんか、急に冷たくなってきたっていうか……ヌルヌルするというか……」
ギクリ。
私は先輩の浴衣の背中を見た。
紺色の生地の一部が、ぐっしょりと濃い色に変色している。
汗? いいえ、違う。
あれは――。
「……あ」
私が仕込んだ『シロキクラゲ冷却パッド』。
これに含ませた冷却ジェルが、体温と外気の熱で予想以上に融解し、さらにキクラゲ自体が水分を放出して、ゲル状の液体となって染み出し始めたのだ!
「うわっ、なんか垂れてきた! 背中を冷たいスライムが這ってるみたいだ!」
「せ、先輩! 落ち着いてください! それはキクラゲの美容成分です!」
「美容成分とかどうでもいいよ! 気持ち悪い! 浴衣がベチョベチョだ!」
先輩がパニックになって襟元を引っ張る。
すると、袖口からも透明なネバネバした液体が糸を引いて垂れ落ちた。
周囲の客がギョッとして振り返る。
「えっ、何あれ? 汗?」
「いや、なんか光ってるぞ……」
「スライム人間?」
まずい。
このままでは先輩が「妖怪・ヌルヌル男」として通報されてしまう。
「先輩! こっちです! 人目のつかないところへ!」
「うわぁぁん! 涼しいけど気持ち悪いよぉぉ!」
私は先輩の手を引き、神社の裏手、人気の少ない木立の方へと走った。
◇
神社の裏手にある石段。
そこは鬱蒼とした木々に囲まれ、祭りの喧騒も遠くに聞こえる静かな場所だった。
街灯の明かりも届かない薄暗がりの中、先輩は手ぬぐいで必死に首筋を拭いていた。
「はぁ、はぁ……。酷い目にあった……」
「すみません……。保水力を過信していました。まさか決壊するとは」
私はハンカチで、先輩の背中に滲んだ粘液を拭き取った。
「でも見てください。熱中症の症状は全くありませんよ。体温は平熱です」
「精神的ダメージが熱中症以上だよ……」
先輩は脱力して、石段に座り込んだ。
浴衣は濡れてヨレヨレになり、ハッカと土の匂いが漂っている。
最悪のコンディションだ。
せっかくのデート(仮)が、また私のせいで台無しに……。
「……帰ろうか、先輩。風邪をひいてしまいます」
私がしょんぼりと提案すると、先輩は首を横に振った。
「ううん。……ここで見ようよ、花火」
「え?」
「もうすぐ始まるし。……それに、ここは涼しいしね」
先輩がポンと、隣のスペースを叩いた。
私はおずおずと、先輩の隣に座った。
浴衣の袖が触れ合う。
先輩からは、キクラゲの匂いに混じって、確かな体温が伝わってくる。
ヒュルルルル……。
空気を切り裂く音がして。
ドンッ!
夜空に大輪の花が咲いた。
「わあ……」
木々の隙間から、鮮やかな光の粒子が降り注ぐ。
赤、青、緑。
光が弾けるたびに、先輩の横顔が照らし出される。
その瞳は、子供のように輝いていた。
「……綺麗だね」
「はい。炎色反応の化学実験ですが、風情があります」
「ふふ、君らしい感想だ」
続けて、次々と花火が打ち上がる。
音がお腹に響く。
光が闇を切り裂き、そして一瞬で消えていく。
「……なんかさ」
先輩が、花火を見上げたまま呟いた。
「受験勉強してると、毎日が同じことの繰り返しで、自分が前に進んでるのかわからなくなるんだ」
「……」
「でも、こうやって花火を見てると、時間が動いてるんだなって感じる。……一瞬で消えちゃうから、綺麗なんだろうな」
儚さ。
先輩は今、その一瞬の輝きに、自分の青春を重ねているのかもしれない。
でも。
私は首を振った。
「違います、先輩」
「え?」
「花火は一瞬で消えますが、私たちは違います」
私は先輩の方を向いた。
暗がりの中で、私の瞳が怪しく光った。
「私たちは菌類と同じです。花火のように派手に咲くのは『子実体』の部分だけ。でも、本体である『菌糸』は、土の中で、目に見えないところで、ずっと生き続けているんです」
「菌糸……?」
「はい。受験勉強という地味で暗い時間も、菌糸を伸ばしている時間なんです。消えてなくなるわけじゃありません。確実に、先輩の中に根を張り、養分を蓄えているんです」
私は先輩の手の上に、自分の手を重ねた。
先輩の手は、冷却ジェルのせいで少しヌルッとしていたけれど、私は気にせずギュッと握った。
「だから、焦らないでください。この花火が終わっても、お祭りが終わっても、先輩の菌糸は絶対に枯れません。私が、毎日水やりしますから」
先輩は、驚いたように私を見た。
花火の光が、パッと二人の顔を照らす。
先輩の頬が、少し赤く見えたのは、花火のせいだけじゃないと思いたい。
「……そっか」
先輩が、握られた手を、握り返してくれた。
「菌糸か……。なんか、君に言われると、すごくしぶとく生き残れそうな気がしてきたよ」
「しぶといですよ。カビは宇宙空間でも生き延びますから」
「それは頼もしいな」
先輩が笑った。
ドンッ、バリバリバリ!
フィナーレのスターマインが、夜空を埋め尽くす。
その轟音に紛れて、私は小さく呟いた。
「……この粘液みたいに、私の愛も、しつこく絡みつきますからね……」
「え? 何か言った?」
「いいえ! 花火、綺麗ですね!」
◇
祭りの帰り道。
私たちは濡れた浴衣で家路についた。
先輩の背中はまだ少し濡れていたけれど、その足取りは来る時よりもずっと軽かった。
「あー、楽しかった。……でも、帰ったらすぐお風呂入らないと」
「シロキクラゲ風呂ですね。お肌ツルツルですよ」
「もうキクラゲはこりごりだよ!」
先輩がいつもの調子でツッコミを入れる。
その顔には、もう「五月病」のような陰りはなかった。
ガス抜きは成功だ。
過剰な発酵は解消され、適度な熟成へとプロセスが移行したようだ。
「先輩、明日からは夏期講習ですね」
「うん。……頑張るよ。菌糸を伸ばすためにね」
先輩がニカッと笑った。
別れ際。
先輩は、射的で取った「巨大キノコのぬいぐるみ」を私に渡してくれた。
「これ、あげるよ。僕の部屋にあると、君に見張られてるみたいで落ち着かないから」
「じゃあ、先輩の身代わりとして大事にしますね。毎晩抱きしめて寝ます」
「……やっぱ返して」
そんな軽口を叩き合いながら、私たちはそれぞれの家へと戻った。
私の手には、ぬいぐるみの感触と、先輩の手の温もりが残っていた。
夏はこれからが本番だ。
受験の天王山と呼ばれる夏休み。
会えない時間は増えるけれど、大丈夫。
今日の花火の光と、ヌルヌルとした感触は、きっと先輩の海馬に深く刻まれたはずだ。
恋の胞子は、夏の夜風に乗って、さらに遠くへ、深くへと拡散していく。
次は、あの予備校という要塞へ、どうやって侵入しようか。
私はカレンダーの「夏期講習」の日程を見つめながら、不敵に微笑んだ。




