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第14話:進路指導室は無菌室!? 未来の培養計画

5月。新緑が眩しい季節。植物たちは光合成を活発化させ、グングンと枝葉を伸ばしている。

 しかし、人間界――特に「高校3年生」という特殊な環境下においては、この時期は成長よりも「停滞」や「腐敗」が懸念されるシーズンだ。

 いわゆる、五月病。

 GWゴールデンウィークという休暇を経て、現実に引き戻された受験生たちの湿っぽい溜息が、校舎の湿度を上げている気がする。

 私――菌田きんだきのこは、2年生の教室の窓から、渡り廊下の向こうにある3年生の校舎を見つめていた。

 あちら側は、空気が違う。

 ピリピリとした緊張感と、どんよりとした閉塞感。まるで、密閉されたタッパーの中でカビが繁殖する直前のような、不穏な静けさだ。

「……心配ね。神木かみき先輩、ちゃんと『発酵』できているかしら。プレッシャーで『腐敗』していないといいけれど」

 先輩は、新学期早々、志望校選びという壁にぶつかっていた。

 先日、図書室で会った時も、真っ白な「進路調査票」を前に、干からびたシイタケのような目をしていたのだ。

『……決められないんだよ。親は「安定した経済学部に行け」って言うし、先生は「今の成績だと国立は厳しい」って言うし……僕は、何がしたいんだろう』

 弱りきった先輩の声が耳に残っている。

 これは由々しき事態だ。

 私の大切な宿主ホストが、進路という名の環境適応に失敗して枯れてしまっては、私の共生計画も破綻してしまう。

「待っていてください、先輩。貴方に最適な『培地』は、私が診断して差し上げます!」

 私はカバンの中に、独自の「適性検査キット」を詰め込み、3年生のフロアへと潜入を開始した。

          ◇

 放課後の3年A組。

 多くの生徒が予備校へ向かう中、神木先輩はまだ教室に残っていた。

 机に突っ伏し、進路調査票と睨めっこをしている。

「……はぁ。文系かなぁ、理系かなぁ……。どっちもパッとしないんだよなぁ……」

 独り言が漏れる。

 そこへ、私が忍び寄った。

 背後から、音もなく。菌類が忍び寄るように。

「……先輩。脳内のpH値が酸性に傾いていますよ」

「うわあッ!?」

 先輩が飛び上がった。椅子がガタッと音を立てる。

「き、菌田さん!? なんでいるの? ここ3年の教室だよ?」

「2年生には『立ち入り禁止区域』なんてありません。菌はどこへでも胞子を飛ばしますから」

 私は先輩の前の席に堂々と座り、机の上の調査票を覗き込んだ。

 第一志望:空欄。

 第二志望:空欄。

 見事な白紙だ。

「重症ですね。自分がどの土壌に適しているか、完全に見失っています」

「……うるさいな。自分でもわかってるよ。でも、特にやりたいこともないし、得意な科目もないし……」

 先輩が力なくペンを置く。

「僕なんて、特徴のない雑草みたいなもんだよ」

「雑草なんて植物はありません! ……それに、先輩は無個性なんかじゃありませんよ」

「え?」

「先輩には、他の人にはない『特殊な耐性』があります。この一年間、私の『菌ハラスメント』に耐え抜き、共存してきた実績があるじゃないですか」

 私はカバンから、怪しげな風呂敷包みを取り出した。

 ジャララ……。

 中から出てきたのは、試験管、リトマス紙、そしてタッパーに入った数種類の「謎の粘液」。

「……菌田さん、それ何?」

「『菌田式・生物学的進路適性診断キット』です。偏差値や世間体なんていう無機質な指標ではなく、先輩の生物としての『本能』と『耐性』をテストし、最適な進路を導き出します」

「嫌な予感しかしないんだけど……」

「さあ、まずは第一テスト。『粘り強さ』のチェックです!」

          ◇

 私は先輩を半ば強引に、人がいない特別教室棟の「空き教室」へと連れ込んだ。

 ここなら多少の異臭騒ぎが起きても大丈夫だ。

「いいですか先輩。社会に出るということは、理不尽な環境でも生き抜く『粘り強さ』が必要です。その象徴こそが納豆菌!」

 私はタッパーの蓋を開けた。

 強烈な発酵臭が教室に広がる。

 中に入っているのは、私が三日間培養して限界まで糸を引かせた、超強力・自家製納豆ペーストだ。

「うっ……くさっ! 何これ兵器!?」

「さあ、このペーストに指を入れて、糸が切れるまで引き伸ばしてください。その長さで、先輩の『根気』を測定します」

「嫌だよ! 指が腐る!」

「腐りません! 手肌がスベスベになります! やらないと、このまま口に突っ込みますよ?」

「やります!!」

 先輩は涙目で、ネバネバのペーストに人差し指を突っ込んだ。

 そして、恐る恐る引き上げる。

 ビヨーーーーーン。

 強力な納豆菌の糸は、切れることなく伸び続ける。

 先輩が腕を限界まで伸ばしても、まだ切れない。

「……すごい。まだ伸びる……」

「素晴らしい! 先輩、これだけの粘着力しつこさに耐えられるということは、どんなブラック企業……いえ、困難な研究課題にも食らいついていける才能があります!」

「次! 第2テスト。『環境適応能力』!」

 次に私が取り出したのは、数種類のカビ(アオカビ、コウジカビなど)を培養したシャーレだ。

「この中から、一番『落ち着く匂い』を選んでください」

「全部カビ臭いよ!? 落ち着くわけないだろ!」

「心を無にして! 本能で選ぶんです!」

 先輩はハンカチで鼻を押さえながら、渋々シャーレの匂いを嗅いだ。

「……うーん、強いて言えば、これかな。味噌っぽい匂いがする」

「お目が高い! それは『ニホンコウジカビ』。味噌や醤油を作る、日本の国菌です! 先輩には、伝統と格式を守る『醸造学』の才能があるかもしれません!」

 テストは続く。

 『変形菌迷路テスト』や、『冬虫夏草体力測定』など、意味不明な診断を繰り返すこと1時間。

 先輩はヘトヘトになって床に座り込んだ。

「……はぁ、はぁ。もう十分だよ……。僕の適性はわかったの?」

 私はノートに書き留めたデータを分析し、伊達眼鏡をクイッと上げた。

「出ました。先輩に最適な進路は……」

「ズバリ、**『農学部・応用微生物学科』にて、『納豆菌とカビのハイブリッド発酵食品』**を研究することです!」

「ピンポイントすぎるよ!!」

 先輩が叫んだ。

「しかもそれ、完全に菌田さんの趣味だよね!? 僕の意思ゼロだよね!?」

「何をおっしゃいます。先輩はこの一年で、私の作った数々の『発酵料理ゲテモノ』を完食し、私の『粘菌アート』とも共生しました。貴方の体はもう、微生物との親和性がマックスなんです。今さら綺麗なオフィスで事務仕事なんてできませんよ」

「呪いだよそれ!!」

 先輩は頭を抱えた。

「はぁ……。でも、ありがとう。なんか変なことばっかりやらされて、悩んでるのがバカバカしくなったよ」

 先輩が少しだけ笑った。

「農学部かぁ……。生き物を育てるのは、嫌いじゃないかもな」

 お?

 これは脈ありか?

 私が先輩を「菌類男子」に改造する計画が、一歩前進したかもしれない。

 その時。

 校内放送のチャイムが鳴った。

『3年A組の神木くん、神木くん。至急、進路指導室まで来てください』

「あッ! しまった!」

 先輩が青ざめた。

「今日、担任との面談だったんだ! すっぽかしてた!」

「えっ、大変! 行きましょう先輩!」

 私たちは慌てて片付けをし、進路指導室へと走った。

          ◇

 進路指導室。

 そこは、学校の中で最も「現実」が凝縮された空間だ。

 無機質なスチール棚には、大学の赤本や偏差値データがずらりと並び、空気清浄機が唸りを上げている。

 まさに「無菌室」。

 夢や希望といった有機的な曖昧さを排除し、数字という殺菌剤で消毒された場所。

 先輩は、担任の「鬼瓦おにがわら先生」の前に座らされていた。

 私は……廊下のドアの隙間から、こっそりと中の様子を伺っていた。

「神木。面談の時間に遅れるとは何事だ」

 鬼瓦先生の眼鏡が光る。この先生は、徹底したデータ至上主義で知られる堅物だ。

「す、すみません。ちょっと……適性検査をしてまして」

「適性検査? そんなものは1年の時に済んでいるはずだ。……まあいい。調査票を見せなさい」

 先輩がおずおずと、まだ白紙に近い調査票を差し出す。

 先生はそれを見て、大きく鼻を鳴らした。

「……白紙か。3年の5月でこれでは話にならん。お前の今の偏差値なら、ここの経済学部か、こっちの法学部が妥当だ。安定した就職実績がある」

 先生が赤ペンで、大学名を勝手に書き込んでいく。

「でも、先生……僕はまだ、何を学びたいか……」

「『学びたい』などという甘い考えは捨てろ。大学は就職予備校だ。潰しの効く学部に行け。お前のような『特徴のない生徒』は、レールに乗っておくのが一番安全なんだ」

 カチン。

 廊下で聞いていた私の脳内で、何かが切れる音がした。

 特徴のない生徒?

 レールに乗るのが安全?

 ふざけないで。

 神木先輩は、貴方の知らないところで、私という猛毒キノコと共生し、粘菌とダンスし、腐敗物を消化してきた、最高にタフで面白い素材なのよ!

 それを、ただの数字の羅列として扱うなんて……菌類学者として許せない!

 バンッ!!

 私は勢いよくドアを開け放った。

「失礼します!!」

「!!?」

 先生と先輩が同時に振り返る。

「き、菌田さん!?」

「なんだ君は! 2年生か? ここは進路指導室だぞ!」

 鬼瓦先生が立ち上がる。

 私はズカズカと部屋に入り込み、先輩の隣に立った。

 そして、机の上の「勝手に大学名を書かれた調査票」を奪い取った。

「先生。その指導方針には、生物学的観点から異議を申し立てます!」

「はあ? 生物学的……?」

「神木先輩は、先生がおっしゃるような『特徴のない生徒』ではありません! 彼は、極めて稀有な『受容体レセプター』を持つ、可能性の塊です!」

 私は熱弁を振るった。

「先輩は、どんなに過酷な環境にも適応し、未知の物質を取り込んでエネルギーに変えることができます! これは、変化の激しい現代社会を生き抜くための、最強の『サバイバル能力』です!」

「な、何を言っているんだ君は……」

「そんな彼を、無菌室のような安全なルートに押し込めるのは、種としての進化を止める行為です! 彼はもっと、泥臭く、発酵し、カビが生えるような混沌とした場所でこそ、輝くんです!!」

 部屋中がシーンと静まり返った。

 先輩が、顔を覆って俯いている。

「……菌田さん、かばってくれるのは嬉しいけど……例えが全部汚いよ……」

 先生はポカンとしていたが、やがて顔を真っ赤にして怒鳴った。

「わけのわからんことを言うな! カビだの発酵だの、神木を腐らせるつもりか!」

「腐敗と発酵は紙一重です! 人間に有益なら発酵、無益なら腐敗。先輩は、間違いなく世界を美味しくする『発酵人材』になります! 私が保証します!」

「出ていけぇぇぇ!!」

          ◇

 ……結局、私は先生に首根っこを掴まれて廊下に放り出され、先輩も「明日までにちゃんと書いてこい!」と怒られて解放された。

 夕暮れの帰り道。

 私たちは河川敷を歩いていた。

 川面がオレンジ色に染まり、長く伸びた二人の影が揺れている。

「……ごめんなさい、先輩」

 私はしょんぼりと肩を落とした。

「つい、カッとなって……。私のせいで、先生の心証を悪くしちゃいましたね」

「あはは。まあ、鬼瓦先生があんなに呆気にとられた顔、初めて見たよ」

 先輩は笑っていた。怒ってはいなかった。

「でも、びっくりしたよ。『発酵人材』って……」

「本心です。先輩には、菌類のような強さと、柔軟さがありますから」

「……そっか」

 先輩が立ち止まり、川を見つめる。

「ねえ、菌田さん」

「はい」

「さっき、先生に言われて腹が立ったけど……同時に、ちょっとスッキリしたんだ」

「え?」

「君が『先輩はすごい』って、変な理屈だけど本気で言ってくれたから。……僕にも、何かできることがあるのかなって思えた」

 先輩が私の方を向く。

 夕日を背負ったその表情は、少しだけ晴れやかに見えた。

「僕、決めたよ」

「何をですか?」

「農学部……受けてみる」

「!!」

 私の目が輝いた。

「本当ですか!?」

「うん。君が言う『納豆の研究』をするかはわからないけど……。生物とか、環境とか、そういう『生き物』に関わる勉強なら、飽きずに続けられそうな気がするんだ」

 先輩が少し照れくさそうに頬をかく。

「それに……君の話についていくためにも、もう少し専門知識が必要だしね」

 ドクン。

 心臓が跳ねた。

 それって、これからも私と一緒にいてくれるってこと?

 未来の設計図の中に、私も含まれているってこと?

「……先輩!!」

 私は感極まって、先輩の手を握りしめた。

「最高の選択です! 農学部に入れば、実習で泥だらけになれますし、牛の糞から堆肥を作る実習もあります! 菌まみれのパラダイスですよ!」

「うわ、もう撤回したくなってきた……」

 先輩は苦笑いしながらも、握られた手を振りほどこうとはしなかった。

 こうして、神木先輩の志望校は決定した。

 『無菌室』のような進路指導室での戦いを経て、先輩は自ら『泥沼』……いえ、『肥沃な大地』への道を選んだのだ。

 しかし、これはまだ始まりに過ぎない。

 受験という名の生存競争は、ここから本格化する。

 模試の判定、夏期講習、スランプ、そしてプレッシャー。

 数々の雑菌が、先輩の成長を阻もうと待ち構えているだろう。

 でも、大丈夫。

 先輩には、最強の共生菌がついている。

 どんな時でも、私の胞子エールで、先輩を腐らせないように守り抜いてみせる。

「帰りましょう、先輩。今日は記念に、お祝いの『赤飯』を炊きますから!」

「普通の小豆で頼むよ、本当に……」

 夕闇の中、二人の影が重なる

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