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第13話:新学期、3年生のフロアは「立ち入り禁止区域」!?

 4月。  それは、生物界において最も劇的な変化が訪れる季節だ。  休眠打破きゅうみんだは。  冬の間、硬い殻に閉じこもっていた種子や胞子が、気温の上昇と共に目覚め、爆発的なエネルギーを放出する。  桜は散り、新緑が萌え、人間たちは新しい環境へと強制的に移植される。


 私――菌田きんだきのこにとって、この4月はいつも以上に緊張感の漂う季節となっていた。  なぜなら、私が寄生……もとい、共生関係を築こうとしている宿主ホスト神木かみき先輩が、ついに「受験生」という特殊な生態系へと進化してしまったからだ。


 始業式の朝。  新しいクラス、2年B組の教室。  周りの生徒たちが「クラス替え誰と一緒かなー」と呑気に騒いでいる中、私は一人、窓際で鼻をひくつかせていた。


「……匂うわ。校舎の3階、最奥のエリアから漂ってくる、ピリピリとした殺菌臭……。まるで抗生物質を散布された直後のシャーレのような緊張感……」


 私の視線は、天井――つまり、3年生の教室がある上の階へと向けられていた。  神木先輩は、理系の選抜クラス「3年A組」に入ったという情報を、すでに菌糸ネットワークを通じて入手済みだ。  3年A組。通称「特進」。  そこは、青春という名の雑菌を徹底的に排除し、偏差値という純粋培養のみを目指す、無菌室のような隔離病棟だと聞く。


「先輩……大丈夫かしら。あんな無菌室に閉じ込められたら、先輩の常在菌バランスが崩れてしまうわ。私が定期的に『愛の胞子』を補充しに行かないと!」


 私は拳を握りしめた。  休み時間のチャイムが鳴る。  私は席を立ち、一目散に教室を飛び出した。  目指すは3階、3年A組の教室。  先輩に、新学期の挨拶をするために!


 一方その頃、3年A組の教室。  神木は、机に突っ伏して震えていた。


(……来る。絶対に来る……!)


 彼の野生の勘が警鐘を鳴らしていた。  始業式が終わり、ホームルームが終わった今、あの「緑色の嵐」がやってくるのは時間の問題だ。


 担任の教師――通称「鬼のかわら」先生は、朝のHRでこう言い放った。 『いいかお前ら。今日からお前たちは人間じゃない。受験生だ。恋愛? 部活? そんなものにうつつを抜かす暇があったら単語の一つでも覚えろ。特に、他学年の生徒を教室に招き入れるなど言語道断! このフロアは戦場だと思え!』


 戦場。  神木はその言葉を反芻していた。  彼は、菌田きのこのことが嫌いなわけではない。むしろ、この一年間のドタバタ劇を通じて、彼女のユニークさや、一直線な情熱に惹かれ始めている自分もいる。  だが、しかし。  彼女と一緒にいると、カロリー消費量が半端ではないのだ。  精神的にも、肉体的にも、そして社会的にも。


(菌田さんといると、僕は勉強どころか、生き残ることに必死になってしまう……! 今年の僕は受験生だ。このままじゃ落ちる!)


 神木は顔を上げ、悲壮な決意を目に宿した。


(ごめん、菌田さん。僕は君を避ける。嫌いになったわけじゃない。君との未来のために、今は心を鬼にして……君という『誘惑ハザード』を断ち切るんだ!)


 作戦名:『完全ステルス・スタディ』。  学校では気配を消し、休み時間は図書室の死角へ移動し、放課後は裏口から予備校へ直行する。  菌田きのこの視界に入らない。匂いをさせない。接触しない。


「……よし。移動だ」  神木は教科書とノートを抱え、忍びのように足音を殺して教室の裏扉を開けた。  廊下の向こうから、ドタドタという足音と、「せんぱーい!」という聞き慣れた声が聞こえてくる。


「来たッ!!」  神木は息を呑み、反対側の階段へとダッシュした。  彼の受験戦争は、偏差値との戦いであると同時に、菌類との逃走劇として幕を開けたのである。


「せんぱーい! 菌田です! 進級おめでとうございます!」


 私は3年A組の教室の前で、元気よく声を上げた。  しかし、返事はない。  教室の中を覗き込むと、眼鏡をかけた真面目そうな生徒たちが、静まり返った空気の中で参考書を開いている。  入り口には『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙。  そして、何より異様なのは――。


「……いない」


 先輩の姿がなかった。  彼の席と思われる場所は、綺麗に片付けられており、鞄もない。


「あら? トイレかしら?」  私は近くにいた男子生徒に声をかけた。 「あの、神木先輩はどこへ行かれましたか?」  男子生徒は、厚い眼鏡の奥から私を睨み、ボソッと言った。 「……神木なら、さっき『自習場所を探してくる』って出ていったぞ。邪魔するな」 「ヒッ……すみません」


 冷たい。絶対零度の視線だ。  これが受験生特有の排他性か。  私はすごすごと廊下へ戻った。


「……おかしいわね。先輩が私に挨拶もなしに移動するなんて」  私は廊下の空気をクンクンと嗅いだ。  微かに残る、シーブリーズと制汗スプレーの香り。先輩の匂いだ。  その香りの粒子トレイルは、東階段の方へと続いている。


「逃げた……?」  一瞬、そんな言葉が脳裏をよぎる。  まさか。先輩が私から逃げる理由なんてないはずだ。春休みのデートでは、あんなに楽しそうに幻のキノコを探していたじゃない。


 その時、私の脳内で一つの仮説が閃いた。


「ハッ! そういうことか!」  私はポンと手を叩いた。 「これは……『捕食・被食関係プレデター・プレイ』のシミュレーションごっこね!」


 自然界において、捕食者から逃げる被食者は、生存本能を最大限に発揮する。  先輩は今、受験という巨大なストレスに晒されている。そのストレスに対抗するため、あえて私という「天敵パートナー」から逃げることで、野生の勘を取り戻そうとしているのだわ!


「なるほど……深いわ、先輩。私をリトマス試験紙にして、自分の危機管理能力を高めようというのね」  私の口元がニヤリと歪む。 「いいでしょう。受けて立ちます。菌類の追跡能力、甘く見ないでくださいね!」


 昼休み。  神木は、校舎の隅にある「清掃用具入れ」の隣のデッドスペースに身を潜めていた。  ここなら、人は通らない。  彼は膝の上におにぎりを置き、英単語帳を開いていた。


「……target, target, 目標……。observe, observe, 観察する……」  ブツブツと呟きながら、単語を脳に刻み込む。  心臓がバクバクしている。  勉強の緊張感じゃない。さっき、廊下の向こうを菌田さんが通ったからだ。


(危なかった……。鼻歌交じりに『キノコの唄』を歌いながら歩いてた……。あの子、僕を探してる。完全にハンターの目をしてた……)


 神木はおにぎりを口に押し込んだ。  喉が詰まりそうになる。  こんな生活が、あと一年も続くのか?  いや、耐えろ。すべては合格のためだ。


 その時。  ピタリ、と廊下の足音が止まった。  壁一枚隔てた向こう側。


「……くんくん」  鼻をすする音が聞こえる。


(!!??)  神木は呼吸を止めた。  まさか、匂いでバレた?  いや、ここは風下だ。匂いは届かないはず。


「……おかしいな。この辺りから、急激に二酸化炭素濃度が高くなっている気がする」  壁の向こうで、菌田きのこが独り言を言っている。 「代謝の良い哺乳類が、息を殺して潜んでいる気配……。湿度も、ここだけ高い」


(なんで湿度計内蔵してるんだよ! 怖すぎるよ!)  神木は冷や汗をかいた。その冷や汗がさらに湿度を上げていることに気づき、絶望する。


「……出てきてください、先輩。そこにいるんでしょう?」  菌田さんの声が、楽しそうだ。  神木は動かない。石になれ。僕は石だ。ただの無機物だ。


 数秒の沈黙。  やがて、「……気のせいか。移動したみたい」という声と共に、足音が遠ざかっていった。


「……はぁっ、はぁっ……」  神木はその場に崩れ落ちた。  寿命が縮んだ。  英単語を覚えるどころか、トラウマが刻まれただけだった。


「……もう、学校にはいられない。放課後は予備校へ逃げよう」  彼は固く決意した。


 終礼のチャイムが鳴ると同時に、神木はダッシュした。  クラスメイトへの挨拶もそこそこに、鞄をひっつかみ、教室の後ろ扉から飛び出す。  目指すは、正門ではなく、体育館裏の通用門。  正門には、間違いなく「待ち伏せ(アンブッシュ)」がいるからだ。


 廊下を走り、階段を三段飛ばしで駆け下りる。  下駄箱で靴を履き替え、外へ出る。  夕日が眩しい。


「……ふぅ。セーフか……」  体育館裏は静かだった。  ここを抜ければ、駅まではすぐだ。  神木は早足で歩き出した。  背後の校舎を見上げる。2階の窓から、誰かがこちらを見ているような気配がしたが、振り返らなかった。  振り返ったら、石にされる気がしたからだ。


「ごめんね、菌田さん。今日は本当に大事な模試の申し込みがあるんだ……」  心の中で謝りながら、神木は駅へと向かう人混みに紛れ込んだ。


 駅前の雑居ビル。  その4階に、大手予備校の自習室はある。  入室カードをかざし、静寂の空間へと足を踏み入れる。


 ここには、キノコの匂いはない。  あるのは、エアコンの乾燥した空気と、紙の匂い、そして受験生たちの殺伐とした熱気だけだ。  神木にとって、これほど落ち着く空間はなかった。


「……よし」  指定席に座り、神木は大きく息を吐いた。  ここなら安全だ。  菌田さんは部外者だし、まさかここまで入ってくることはできない。  セキュリティは万全だ。


 神木は鞄を開けた。 今日は数学の数3を重点的にやる予定だ。  分厚い参考書を取り出して、開く。  やるぞ。今までの遅れを取り戻すんだ。


 ページをめくる。  ペラッ。  ペラッ。


「……ん?」


 違和感があった。  参考書の、ちょうど今日やろうとしていた「微積分」のページに、何かが挟まっていた。  しおり?  いや、僕は栞なんて挟んだ覚えはない。


 神木は、その物体を指でつまみ上げた。  それは、薄くて、茶色くて、少ししっとりとした感触の……。


 スライスされ、丁寧に押し花にされた、エリンギだった。


「……ッ!!??」


 神木は音にならない悲鳴を上げ、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。  自習室の静寂を乱さないよう、必死で声を飲み込む。


 なんだこれ。  なんでエリンギが。  しかも、ラミネート加工されている。  よく見ると、エリンギの傘の部分に、油性ペンで小さな文字が書かれていた。


 『 勉 強 お 疲 れ 様 で す ♡ 』  『 根 を 詰 め す ぎ な い で ね (菌糸だけに)』


「……ひぃぃぃ……」  神木の手が震える。  いつだ?  いつの間に仕込んだ?  この参考書は、今朝カバンに入れたはずだ。  ということは、登校中? 体育の時間? それとも、昼休みのあの「清掃用具入れ」の攻防の時……?


 神木の脳裏に、廊下で鼻歌を歌っていた菌田さんの姿が浮かぶ。  彼女は、僕を見つけていなかったんじゃない。  見つけた上で、あえて泳がせていたんだ。  そして、この「エリンギの栞」という時限爆弾サプライズを仕込んで、僕が予備校でこれを開く瞬間を想像して楽しんでいたんだ……!


「……勝てない……」  神木は机に突っ伏した。  エリンギからは、微かに、しかし確かに、あの独特のキノコ臭が漂ってくる。  無菌室であるはずの予備校に、菌田きのこの胞子はすでに侵入していたのだ。


 スマホが震えた。  画面を見ると、LIMEの通知。  送信者は『菌田さん』。


 『先輩、エリンギ見つけましたか? ビタミンB1が豊富なので、疲れたらかじってくださいね! 勉強ファイトです!』  添付されたスタンプは、元気に胞子を飛ばすキノコのキャラクター。


「……食べるかよ!!」  神木は心の中で叫び、しかしエリンギを捨てることもできず、そっと筆箱の中にしまった。  心なしか、微積分の難解な数式が、キノコのヒダの模様に見えてきた。


 夕暮れの帰り道。  神木は疲労困憊の体を引きずって歩いていた。  勉強の疲れではない。精神的な消耗だ。


「……前途多難だ……」  夜空を見上げる。  春の月が綺麗だ。  その月さえも、どこかキノコの断面図に見えてくる。


 彼の受験生活は始まったばかり。  偏差値を上げる戦いと、菌田きのこの侵入を防ぐ防衛戦。  二正面作戦ツー・フロント・ウォーを強いられた神木先輩の明日はどっちだ。


 一方、菌田きのこの部屋。  彼女は学習机に向かい、日記を書いていた。


『4月X日。晴れ。  先輩は「逃走」という新たな遊びを覚えたようだ。  野生動物のような警戒心。素晴らしい。  ストレスを与えることで、宿主の生命力は活性化する。  今日はエリンギのマーキングに成功。  明日は……上履きの中に、湿気を吸う「乾燥シイタケ」を仕込んでおこうかしら。  ふふふ、受験戦争? いいえ、これは愛の生存競争サバイバルよ!』


 ペンを置き、きのこは窓を開けた。  春の風が吹き込んでくる。  彼女の撒いた胞子は、風に乗って、確実に先輩のもとへと届いていた。

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