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第12話:桜舞う春、私たちの共生関係は永遠に!

 3月。  日本人が最も感傷的になる季節がやってきた。  空は霞み、柔らかな日差しが降り注ぎ、枯れ木だった桜の枝には薄紅色の蕾が膨らみ始めている。


 しかし、私――菌田きんだきのこの視点は、世間の「お花見ムード」とは一線を画している。  桜? 美しいわね。でも、その華やかさは一瞬の幻。  私が注目するのは、桜の根元だ。  老木の根元には、弱った樹木を分解しようと『ナラタケ』の菌糸が忍び寄っているかもしれないし、桜の落ち葉は腐生菌たちにとって極上のフルコースとなる。  「散る」ということは「死」ではない。「分解」と「再生」の始まりなのだ。


 体育館で行われた終業式。  校長先生の長い話が終わり、生徒たちがざわめきながら退場していく。  1年生の終わり。  それは、クラス替えによる「コロニーの解散」を意味する。


「……はぁ」  私は教室に戻り、自分の荷物をまとめながら溜息をついた。  通知表の成績は、生物だけ「5」、他は「3」。平常運転だ。  問題は成績ではない。明日から始まる春休み、そして4月からの新学期だ。


 神木かみき先輩は、3年生になる。  受験生への進化。  それはつまり、私との接触時間が激減し、彼が「図書館」や「予備校」という名の隔離施設に閉じこもることを意味する。


「……寂しい、なんて言ってる場合じゃないわね」  私は机の中に残っていた乾燥エノキタケを回収した。  キノコは環境の変化に敏感だ。湿度や温度が変われば、成長を止めることもある。  でも、強い菌糸は、地下深くに根を張り、じっと耐え忍ぶことができる。  私も、強くならなきゃ。


「菌田さん」


 不意に、廊下から声がした。  ビクッとして振り返る。  そこには、少し背が伸びたような気がする、神木先輩が立っていた。  制服のボタンが一つ外れている。春の風のせいか、それとも急いで走ってきたのか。


「……神木、先輩」 「よかった、まだいた」  先輩が息を整えながら入ってくる。  教室には私一人。西日が差し込み、舞い上がるチリがキラキラと光っている。それはまるで微細な胞子のダンスのようだ。


「どうしたんですか? 先輩のクラスはもう解散したんじゃ?」 「うん。でも、君に渡したいものがあって」 「私に?」


 先輩がカバンから取り出したのは、一枚の封筒だった。  白い、しっかりとした厚紙の封筒。  まさか。  果たし状? 絶縁状? それとも……婚姻届?


「……これ」  先輩が封筒を差し出す。 「ホワイトデーのお返し。……倍返しするって、言ったでしょ?」


 心臓がドクンと跳ねた。  バレンタインにあげた「黒トリュフ冬虫夏草チョコ」。  あれへのお返し。  私は震える手で封筒を受け取った。重みはない。中に入っているのは紙だ。


「開けてみて」  促されて封を切る。  中から出てきたのは――旅行のパンフレットと、一枚の手作りの「しおり」だった。


 『春の原生林トレッキングツアー ~幻の光るキノコを探せ~ in 奥多摩』


「……えっ?」  私は目を丸くした。 「……先輩、これ……」 「春休み、一日だけ空いてる?」  先輩が照れくさそうに頬をかく。 「受験勉強が始まる前に、最後にもう一回だけ……君の『課外授業』に付き合おうかと思ってさ」 「!!」


 私の脳内で、シナプスが超高速で結合した。  デートだ。  これは、紛れもないデートのお誘いだ。  しかも、場所は遊園地でも映画館でもなく、「原生林」。私の最も愛するフィールド。  先輩は、私が一番喜ぶものを、ちゃんと理解してくれている。


「幻のキノコって……まさか、春先にしか出ないという『ハルノトモスビ』ですか?」 「そう。ネットで調べたんだ。奥多摩の山奥に、条件が揃った時だけ現れる珍しいキノコがあるって。……菌田さん、まだ見たことないでしょ?」 「ありません! 図鑑でしか見たことのない、伝説のキノコです!」 「じゃあ、探しに行こうよ。……二人で」


 先輩が、まっすぐに私を見た。  その瞳は、いつもの「困ったような目」ではなく、冒険に挑む少年のように輝いていた。


「……はい! 行きます! 這ってでも行きます!」  私は封筒を胸に抱きしめた。  倍返しどころじゃない。  これは、無限大インフィニティ返しだ。


 春休み初日。快晴。  私たちは早朝の電車に揺られていた。  都心から離れるにつれ、車窓の景色はビル群から住宅街へ、そして緑豊かな山並みへと変わっていく。


 私の装備は完璧だ。  迷彩柄のフィールドジャケット、防水のトレッキングシューズ、腰には熊よけの鈴と採集用のナイフ、そしてルーペ。リュックには図鑑と、乾燥キノコが詰まっている。  対する先輩も、新品の登山ウェアに身を包んでいた。 「似合ってますよ、先輩。森のレンジャーみたいです」 「形から入るタイプだからね。……それにしても、朝早かったなぁ」  先輩があくびをする。 「キノコ狩りは朝が勝負です。夜露に濡れたキノコたちが、朝日に照らされて胞子を飛ばす瞬間……それが一番美しいんですから」 「はいはい。今日は君が隊長だから、従うよ」


 電車が終着駅に到着した。  そこからはバスに乗り換え、さらに山奥へと進む。  バスを降りると、そこはもう別世界だった。  ひんやりとした清浄な空気。  湿った土の匂い。  杉や檜の香りに混じって、微かに漂う腐葉土の甘い香り。


「……くんくん。素晴らしい。湿度65%、気温18度。菌類の活性化には最適のコンディションです」  私は鼻をひくつかせた。 「すごい嗅覚だね……。僕には杉花粉の気配しか感じられないよ」  先輩がマスクの位置を直す。


「さあ、行きましょう先輩! 目指すは標高1200メートル、『ハルノトモスビ』の群生地です!」 「おー……」


 私たちは登山口へと足を踏み入れた。  登山道は、昨日の雨で少しぬかるんでいた。  普通なら「歩きにくい」と文句が出るところだが、私たちにとっては好都合だ。水分を含んだ地面からは、様々な春のキノコたちが顔を出している。


「あ! 先輩見てください! 『アミガサタケ』です!」  歩き始めて十分もしないうちに、私は道の脇を指差した。  網目状の傘を持つ、茶色い奇妙なキノコ。フランス料理ではモリーユと呼ばれる高級食材だ。 「へえ……これがアミガサタケか。脳みそみたいだね」 「先輩、成長しましたね! 以前なら『気持ち悪い』と叫んで逃げていたのに、今では冷静に形態模写まで……!」 「君に鍛えられたからね。これくらいじゃ驚かないよ」


 先輩はポケットからスマホを取り出し、写真を撮った。 「記念にね。……あとで図鑑で調べてみようと思って」  ドクン。  まただ。先輩のその「歩み寄り」が、私の心臓にクリティカルヒットする。  先輩はもう、私の趣味を否定しないどころか、共有しようとしてくれている。  これは「寄生」ではない。「共生」への進化だ。


 私たちは写真を撮り、スケッチをし、時にはルーペで苔の隙間を観察しながら、ゆっくりと山を登っていった。  先輩の足取りもしっかりしている。 「体力つきましたね、先輩」 「まあね。あの『特製ドリンク』のおかげか、部活引退しても全然疲れないんだ」 「ふふ、私の菌糸パワーが細胞に残っている証拠ですね」


 会話が弾む。  学校では周りの目を気にしてしまうけれど、誰もいない山の中なら、私たちはただの「男と女」……訂正、「キノコ好きの男女」になれる。


 正午を過ぎ、私たちはかなり深い森の中へと入っていた。  目的の『ハルノトモスビ』は、まだ見つからない。  このキノコは、春先の限られた時期、特定の倒木にのみ発生し、しかも数時間で溶けてしまうという幻の存在だ。


「……ないですね」  私は地図とコンパスを確認した。 「情報だと、この辺りの『ブナの原生林』に出るはずなんですが」 「ちょっと休憩しない? さすがに足がパンパンだよ」  先輩が大きな岩に腰を下ろした。  私たちは持参したおにぎりを食べた。具はもちろん、キノコの佃煮だ。


 その時。  ポツッ。  私の頬に、冷たいものが当たった。 「……雨?」  見上げると、さっきまで晴れていた空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。山の天気は変わりやすい。 「まずいですね。通り雨かもしれませんが、気温が下がります」 「木の下に入ろう!」


 雨足は急激に強まった。  ザーザーという音と共に、森全体が霧に包まれていく。  私たちは大きな杉の木の根元、雨宿りができそうな岩陰に滑り込んだ。


「……ふぅ、危なかった」  先輩が濡れた髪を拭う。 「すみません、先輩。私の天候予測が甘かったです。菌類的には『恵みの雨』なんですが、人間的には『遭難のリスク』でした」 「いいよ、謝らないで。……ほら、なんか秘密基地みたいで楽しくない?」  先輩が笑って見せた。  狭い岩陰。  二人の肩が触れ合う距離。  雨音だけが響く静寂。


 ……これ、あのときの『相合い傘』の時と似ている。でも、あの時とは違う。  先輩は逃げようとしていない。  私の隣に、落ち着いて座っている。


「……ねえ、菌田さん」  先輩が静かに口を開いた。 「はい?」 「僕ね、君と出会うまで、学校があんまり楽しくなかったんだ」 「えっ?」  意外な言葉だった。先輩はエースで、人気者で、光属性の住人に見えていたから。


「毎日部活して、勉強して、周りの期待に応えて……。それが当たり前だと思ってた。でも、なんか息苦しくて。自分が何をしたいのか、よくわからなかったんだ」  先輩が遠くの雨煙を見つめる。 「でも、君が現れて……全部めちゃくちゃになった」 「……すみません」 「褒めてるんだよ。君は、周りの目なんて気にせず、自分の好きなものに一直線でしょ? ドブ色のスープを作ったり、教室をカビだらけにしたり」 「粘菌です」 「あはは、そうだったね。……そういう君を見てると、なんか力が抜けるっていうか。『ああ、こんなに自由でいいんだ』って思えたんだ」


 先輩の手が、そっと私の手に重ねられた。  冷たくなっていた私の指先に、温もりが伝わる。


「ありがとう、菌田さん。君という『菌』に感染して、僕の世界は変わったよ。……色鮮やかで、ちょっと変な匂いがするけど、すごく面白い世界に」


 涙が出そうになった。  私はただ、自分の欲望を押し付けていただけなのに。  先輩はそれを、こんな風に受け取ってくれていたなんて。


「……先輩。私もです」  私は先輩の手を握り返した。 「私はずっと、日陰で胞子を飛ばすだけの存在でした。でも、先輩という『光』に出会って、初めて『誰かのためにキノコ料理を作りたい』とか『誰かと一緒に森を歩きたい』って思えたんです。先輩は私にとって、最高の……」


 最高の、宿主ホスト?  いいえ、違う。


「……最高の、パートナーです」


 言えた。  生物学用語じゃない、人間の言葉で。


 その瞬間。  雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。  雨が上がる。  森が、キラキラと輝き出した。


「あッ!!」  私が叫んだ。 「先輩、あれ!!」


 私が指差したのは、私たちの目の前にある倒木。  さっきまでは何もなかったその場所に、雨上がりの湿気と光に反応して、小さな、しかし鮮烈な光を放つものが現れていた。


 透き通るような薄緑色の傘。  儚げで、今にも溶けてしまいそうな繊細な姿。  そして、その傘の縁が、ぼんやりと燐光りんこうを放っている。


「……これって……」 「『ハルノトモスビ』です……!!」


 幻のキノコ。  春の雨上がりの、ほんの一瞬だけ姿を現す、森の宝石。  私たちは息を呑んで見つめた。  それは、言葉では言い表せないほど美しかった。 私が全身に塗ったスライムの光とは違う、生命本来が持つ、優しく神秘的な輝き。


「……綺麗だ」  先輩が呟いた。 「うん……本当に、綺麗だね、菌田さん」 「えっ?」  先輩はキノコではなく、私を見ていた。  雨に濡れた髪、泥だらけの服、そして感動で潤んだ瞳の私を。


「……!」  顔が熱くなる。  これはベニテングタケを食べたときの発汗作用?  いいえ、これは……恋だ。


 私は勢い余って、先輩に抱きついた。  ドサッ。  バランスを崩した私たちは、濡れた落ち葉の上に転がった。 「わっ、ちょ、菌田さん! 泥だらけになるよ!」 「いいんです! 泥こそが生命の源ですから! ああ、先輩の匂いと腐葉土の匂いが混ざり合って、最高のアロマです!」 「結局そこかよ!!」


 先輩のツッコミが森に響く。  幻のキノコ『ハルノトモスビ』は、そんな私たちを祝福するように、静かに光り続けていた。

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