第11話:バレンタインは培養実験室! 愛の黒い塊を召し上がれ
2月14日。 一年で最も微生物の活動が停滞する厳冬期に、人間たちだけが発熱し、繁殖行動に勤しむ奇妙な日。 バレンタインデー。
校内は朝から、甘ったるい匂いと浮き足立った空気で満たされていた。 女子生徒たちは頬を染めてチョコレートの包みを隠し持ち、男子生徒たちは「俺、甘いの苦手なんだよな~」と虚勢を張りながらソワソワしている。
私――菌田きのこは、生物準備室の暗がりで、ビーカーに入った黒い液体をガラス棒でかき混ぜながら、その様子を冷ややかに分析していた。
「……愚かね。カカオマスという植物の種子に砂糖を混ぜただけの固形物に、愛を託そうなんて。愛とはもっと粘り強く、複雑で、発酵と熟成を要するものよ」
私の手元にあるのは、市販の可愛らしいチョコレートではない。 数日前から私が極秘裏に開発を進めていた、対・神木先輩用最終兵器。 名付けて**『菌類共生型・超高濃度ブラック・ガナッシュ ~永遠の愛を込めて~』**だ。
「見て……この美しい漆黒の輝き。カカオの香りに負けない、芳醇な土の香り……」
私がチョコに練り込んだのは、アーモンドでもマカダミアナッツでもない。 **『黒トリュフ(セイヨウショウロ)』だ。 「黒いダイヤ」と呼ばれる世界三大珍味の一つにして、地下生菌の王様。 私の全お小遣いを投入して取り寄せた最高級品を、惜しげもなくすり潰し、さらに滋養強壮効果のある『オオコウモリガの幼虫』**のエキスと共にチョコレートに融合させたのだ。
見た目は、泥団子……いや、隕石のようにゴツゴツとして黒光りしている。 匂いは、高級チョコレートの甘さと、雨上がりの森林の腐葉土、そしてわずかに獣のフェロモンが混じり合った、脳髄を痺れさせるような香り。
「これを食べれば、先輩の脳内物質は私のことで埋め尽くされる。他の女子のチョコなんて、味もしないただの粘土にしか感じなくなるはずよ」
私は完成した「愛の塊」を、滅菌済みのシャーレに入れ、厳重にラップをした。 リボン? そんなものは不要だ。代わりに「バイオハザード(生物学的危険物質)」の黄色いステッカーを貼っておく。これが私なりのラッピングだ。
◇
放課後。 決戦の時が来た。 私は神木先輩を下駄箱前で待ち伏せすることにした。 しかし、現場に到着した私は、厳しい現実に直面することになる。
「神木先輩! これ、よかったら食べてください!」 「あ、ありがとう。わざわざごめんね」 「神木くーん、私のも受け取ってー!」 「えっ、あ、うん。ありがとう」
神木先輩の周りには、すでに人だかりができていた。 先輩は野球部のエースで、優しくて、爽やかだ。当然、モテる。 彼の手には、すでに可愛らしいリボンのかかった紙袋がいくつも抱えられていた。
チッ。 私は舌打ちをした。 ライバルが多いことは予想していたが、ここまでとは。 あの紙袋の中身は、どうせ大量生産された「友チョコ」か、手作りと言いつつ溶かして固めただけの「物理変化チョコ」に過ぎない。 だが、数は脅威だ。 私の「黒トリュフ冬虫夏草チョコ」は、あまりに強力すぎるため、一粒しか用意していない。物量作戦で埋もれてしまっては、効果が薄れてしまう。
「……どうする? 出直す?」
いや、ダメだ。 バレンタインは今日しかない。明日になれば、それはただの「賞味期限の怪しい黒い物体」になってしまう。
その時。 人混みの中で、困ったように笑いながらお礼を言っていた先輩が、ふと視線を上げ、柱の陰に潜む私と目が合った。
「あ……」 先輩の動きが止まる。 女子たちに囲まれながら、彼は私をじっと見つめた。 そして、申し訳なさそうに眉を下げ、口パクで何かを伝えてきた。
『屋上で、待ってて』
……!! 私の菌糸センサーが反応した。 先輩は、私を待っていたのだ。この有象無象の糖分の山ではなく、私の劇薬を求めているのだ!
私は小さく頷き、その場を離れた。 背後で女子たちの「えっ、神木くん、どこ行くの?」という声が聞こえたが、私は勝利の笑みを浮かべて階段を駆け上がった。
◇
冬の屋上は寒い。 鉛色の空から、冷たい風が吹き下ろしてくる。 フェンス越しに見える街は、夕暮れに沈もうとしていた。
私はベンチに座り、シャーレに入った「黒い塊」を膝に乗せて待っていた。 寒さで指先がかじかむ。 でも、心臓だけが熱い。
ガチャリ。 重たい鉄の扉が開く音がした。 息を切らせて、神木先輩が現れた。
「……はぁ、はぁ。ごめん、待たせて」 先輩の手には、何も持っていない。 もらったチョコは全て教室か部室に置いてきたのだろう。 彼は私のためだけに、身一つでここに来てくれたのだ。
「いいえ。私も今、培養液の温度調整をしていたところですから」 私は強がって見せたが、声が少し震えた。 先輩が隣に座る。 ベンチがきしむ音。隣から伝わってくる体温。
「……すごい人気でしたね、先輩」 「やめてよ。ほとんど義理だよ」 先輩は苦笑いしながら、白い息を吐いた。 「部活の後輩とか、クラスの付き合いとかさ。……正直、お返しが大変だなーって頭抱えてるところ」 「大変ですね、リア充は」 「菌田さんこそ。……僕に、用事があったんじゃないの?」
先輩が私の膝の上にある「黄色いバイオハザードマーク」のついたシャーレを見た。 「それ……何? 新種のウイルス?」 「失礼な。愛の結晶ですよ」
私はシャーレを先輩に突き出した。 「ハッピーバレンタイン、先輩。私の全財産と、生物学的知識と、情熱を注ぎ込んだ最高傑作です」
先輩はおずおずとシャーレを受け取り、ラップを剥がした。 濃厚なトリュフの土臭い香りと、カカオの苦味、そして冬虫夏草の漢方のような匂いが、冬の澄んだ空気に拡散する。
「……うわ、すごい匂い。森の匂いがする」 「『黒トリュフ』と『冬虫夏草』を練り込みました。市販のチョコの数百倍の滋養強壮効果があります。これを食べれば、受験勉強の疲れなんて一発で吹き飛びますよ」 「トリュフ!? 冬虫夏草!? ……なんでそんな高いものを」 「先輩の体は、私の大切な研究対象(苗床)ですから。最高の栄養を与えないと」
先輩は、シャーレの中のゴツゴツした黒い塊(どう見てもアスファルトの破片か、未知の鉱石にしか見えない)をつまみ上げた。 「……重いな」 「愛の重さです」
先輩は、それをじっと見つめ、そして覚悟を決めたように口へと運んだ。 私は息を呑んで見守る。
ガリッ。 咀嚼音。 普通のチョコのような「パキッ」ではなく、何か繊維質や硬い粒子が砕ける音。
先輩の動きが止まる。 眉間に皺が寄り、目が見開かれる。 味覚中枢がパニックを起こしているのが手に取るようにわかる。 甘い。苦い。臭い。美味い。 全ての情報が同時に脳を殴りつける。
「……んぐッ」 先輩が飲み込んだ。 そして、深く、長く、息を吐いた。
「…………すごい」 先輩が呟いた。 「……美味しいの?」 「いや……正直、味はよくわからない。土とカカオが口の中で戦争してるみたいだ」 先輩は笑った。 「でも……なんか、力が湧いてくる気がする。胃の底から熱くなってくる」 「冬虫夏草の効果ですね。代謝が上がっているんです」 「そっか。……ありがとう、菌田さん」
先輩は、残りの欠片も口に放り込み、味わって食べてくれた。 他の女子からもらった綺麗なチョコではなく、私の作った、土臭くて歪な黒い塊を。
「……やっぱり、君のチョコが一番効くよ」 先輩の言葉に、私の視界が少し滲んだ。 ああ、これだ。 私が欲しかったのは、この言葉だ。 カビでも、粘菌でも、毒キノコでも。 先輩はいつだって、驚きながら、呆れながら、最後には受け入れてくれる。 それがどんなに幸せなことか。
しかし。 その幸せな時間は、先輩の次の言葉で、冷たい現実へと引き戻された。
「……これで、頑張れそうだよ」 先輩が遠い目をして、夕焼けに染まる街を見下ろした。 「明日から、部活も引退して、本格的に受験モードに入るんだ」
知っていたことだ。 2年生の3学期。それは実質的な「受験生」の始まりだ。 放課後の部活もなくなり、先輩は予備校へ通い、図書館に籠もる日々になる。 私たちがこうして会う時間は、激減する。
「……そう、ですよね。先輩は頭がいいから、志望校も高いところなんでしょうし」 「うん。……だから、しばらくは、こういう風に遊べなくなると思う」
「遊ぶ」。 先輩にとって、私との日々は「遊び」だったのか。 もちろん、悪気がないのはわかっている。 でも、胸がチクリと痛んだ。
「菌田さん」 先輩が私の方を向く。 その表情は、いつになく真剣だった。 「僕が受験終わるまで……待っててくれる?」
え? 時が止まった。 待っててくれる? それは、どういう意味? ただの後輩として? それとも……?
「……キノコの研究、続けててよ」 先輩は少し照れくさそうに視線を逸らした。 「僕が勉強で疲れた時、また君の変なスープとか、びっくりするような実験の話とか……聞きたいからさ。君が近くにいないと、僕、多分干からびちゃう気がするんだ」
ドクン、ドクン。 私の心臓が、早鐘を打つ。 これは……プロポーズ?いいえ、もっと重要な契約だ。 「共生関係」の維持契約だ。 先輩は、私を必要としている。栄養を求めている。
「……先輩」 私は立ち上がり、拳を握りしめた。 「任せてください! 先輩が受験という過酷な環境(乾燥地帯)で戦っている間、私は胞子を送り続けます!」 「うん、お手柔らかにね」 「そして、先輩が合格した暁には、お祝いに『学校中の壁を粘菌で埋め尽くすアート』をプレゼントします!」 「それは絶対やめて! 退学になる!」
先輩が笑った。 私も笑った。 冷たい風が吹いているのに、ちっとも寒くなかった。
チャイムが鳴る。 下校時刻だ。
「帰ろうか」 「はい」
私たちは屋上を後にした。 並んで歩く廊下。 先輩のポケットには、私が渡した空のシャーレが入っているはずだ。 そして先輩の胃の中には、私の愛(黒トリュフ)が溶けて、細胞の一つ一つに吸収されようとしている。
別れ際、昇降口で先輩が言った。 「あ、そうだ。ホワイトデー……倍返しするから。覚悟しててね」 「えっ? 倍返しって……まさか、マツタケでもくれるんですか?」 「ふふ、秘密。もっと凄いものかもよ」
先輩は悪戯っぽくウィンクして、手を振って去っていった。 もっと凄いもの? なんだろう。 私の想像力(妄想)は膨らむばかりだ。
でも、一つだけ確かなことがある。 私たちの関係は、ここで終わりじゃない。 春が来て、先輩が3年生になっても。 一時的に会えなくなっても、地下で繋がる菌糸のように、私たちは繋がっている。
私は夕暮れの空に向かって、大きく深呼吸をした。 冷たい空気の中に、かすかに春の匂いが――いや、スギ花粉とカビの匂いが混じっているのを感じた。
「ふふふ……季節は巡る。菌類も、恋も、休眠打破の時が近いのね」
私の青春は、まだまだキノコまみれで、胞子だらけだ。 次はいよいよ、進級、そして先輩のラストイヤーが始まる。 私のマイカツ(菌類活動&愛活動)も、集大成を迎える時が来たようだ。




