第9話:文化祭クライマックス! 恋の火花は粘菌ネットワークと共に!
10月某日、早朝の校舎は、嵐の前の静けさに包まれていた。 ひんやりとした秋の空気が張り詰める中、私――菌田きのこは、2年A組の教室の前で深呼吸をした。
「ふふふ……感じるわ。扉の向こうから漂ってくる、濃厚な湿気と甘酸っぱい発酵臭。私の可愛い『モジホコリ』たちが、一晩でどれだけ成長したか……楽しみね」
隣に立つ神木先輩は、 「頼む……何も起きてないでくれ……。ただの黄色い絵の具が乾いただけであってくれ……」 「先輩、往生際が悪いですよ。生命の爆発を受け入れてください」 「開けるよ……せーの!」
ガララッ……!
教室の扉が開かれた瞬間。 ムワァッ……! 熱帯雨林の温室のような、生暖かく重たい空気が廊下へと溢れ出した。 そして、私たちの目に飛び込んできた光景。それは、もはや「高校の教室」ではなかった。
「……ひッ……!?」 先輩が息を呑み、腰を抜かした。
教室全体が、黄色い網目模様で埋め尽くされていたのだ。 壁を、天井を、黒板を、そして積み上げられた机の脚を。 鮮やかなレモンイエローの血管のような筋が、幾重にも重なり、分岐し、融合しながら部屋中を覆っている。 私が仕込んだ「モジホコリ(真正粘菌)」が、加湿器の蒸気とオートミール(餌)を養分にし、計算を遥かに超えるスピードで増殖した結果だった。
ドクン……ドクン……。 静寂の中で、巨大な単細胞生物が原形質流動を繰り返す音が聞こえるようだ。 朝日を浴びて脈打つその姿は、おぞましくも、神々しいほどに美しかった。
「……う、嘘だろ……」 遅れてやってきたクラスメイトたちが、次々と悲鳴を上げた。 「ぎゃあああ! 教室が侵食されてる!」 「エイリアンの巣だ! 近づくと寄生されるぞ!」 「先生! 先生を呼べぇぇ!」
阿鼻叫喚のパニック。 実行委員長が頭を抱えて泣き崩れる。「終わった……俺たちの『森の癒やしカフェ』が……これじゃ廃墟だよ……中止だ……」
その時だ。 私は一歩前に出た。このカオスこそが、私のキャンバス。
「待ってください! 中止にする必要はありません!」 私の声が響く。全員の視線(と恐怖)が私に集まる。 「見てください、この圧倒的な『非日常感』を。作り物の造花や壁紙では絶対に出せない、本物の生命力です! これを活かさない手はありません!」 「活かすって……どうやってだよ! 気持ち悪いだけじゃん!」 「発想の転換です。『癒やし』ではなく『戦慄』を提供するんです!」
私は黒板に(粘菌を避けながら)チョークで大きく書き殴った。
『バイオハザード・カフェ ~禁断の実験室~』
「コンセプト変更です。ここは森ではなく、マッドサイエンティストの研究室。実験に失敗し、謎の生命体に汚染された隔離エリア……。お客さんは『調査員』として、この未知の生物を観察しながらドリンクを飲む。どうですか!?」
静まり返る教室。 最初に口を開いたのは、意外にも神木先輩だった。 「……それだ」 先輩が立ち上がった。その瞳には、絶望の淵から這い上がった者特有の光が宿っていた。 「もう、それしかない。掃除してる時間はないし、このネバネバは擦っても取れない(経験済み)。……やるしかないんだ、菌田さんの言う通りに!」 「神木……お前……」 「白衣だ! 化学準備室から白衣と保護メガネを借りてこよう! メニュー名も全部変えるぞ! 『メロンソーダ』は『変異原性ウィルス検体』だ!」
先輩のヤケクソとも言える決断力に、クラスが動いた。 「おおお! なんかカッコよくなってきた!」 「照明を落とせ! 赤いランプをつけろ!」 「BGMはお経……じゃなくて、心音のSEにしよう!」
私の撒いた胞子(粘菌)が、クラスの団結力という菌糸を結びつけた瞬間だった。
◇
午前10時。文化祭開場。 2年A組の教室前には、まさかの大行列ができていた。
「噂聞いた? なんかガチでヤバイ生物がいるらしいよ」 「教室が呼吸してるってマジ?」 SNSでの拡散力もあり、「リアルすぎるホラーカフェ」として一躍人気スポットになってしまったのだ。
教室内は薄暗く、赤い回転灯が怪しく回っている。 壁一面に脈打つ黄色い粘菌が、照明に照らされて不気味に浮かび上がる。 「いらっしゃいませ……感染レベル4、隔離エリアへようこそ……」 白衣をまとい、保護メガネをかけた神木先輩が、低音ボイスで客を案内している。 目の下には連日の準備によるクマができているが、それが逆に「疲弊した研究員」という役作りに見えてカッコいい。
私はその横で、解説役として働いていた。 「こちらの黄色いネットワークをご覧ください。これは『モジホコリ』という賢い生き物です。彼らは脳を持たないのに、迷路を解き、最短ルートで餌を探す知能を持っているんですよ……」 私が粘菌にオートミールを与えると、黄色い管がウニョウニョと動いて餌を取り囲む。 「きゃあああ! 動いた!」 「すげえ! 生きてる!」 客たちが歓声を上げる。
ふと視線を感じて振り返ると、神木先輩が私を見ていた。 「……すごいな、菌田さんは」 先輩がポツリと呟く。 「え?」 「正直、朝見た時は終わったと思ったけど……。お客さん、みんな楽しそうだ。君が『気持ち悪い』ものを『面白い』に変えてくれたんだね」 先輩が、穏やかに微笑んだ。 その笑顔は、いつもの「困ったような苦笑い」ではなく、心からの称賛を含んでいた。
「君の話を聞いてると、このネバネバしたカビ……じゃなくて粘菌も、なんだか一生懸命生きてる可愛い奴に見えてくるから不思議だ」 「! ……先輩……」
私の心臓(子実体)が、ドクンと跳ねた。 先輩が、私の愛する菌類を認めてくれた。 それは、私自身を認めてくれたことと同義だ。 胸の奥が熱くなる。これは発酵熱? それとも……。
「さあ、菌田博士。次のお客さんが待ってるよ。行こう」 「は、はい! 神木主任!」
私たちは並んでカウンターに立った。 時折、ドリンクを渡す手が触れ合う。 そのたびに、私の体温が上がり、呼気に含まれる胞子の濃度が濃くなっていく気がした。
◇
午後4時。 大盛況のうちに一般公開が終了した。 片付けの時間……だが、壁にへばりついた粘菌はすぐには剥がせないため、とりあえずそのままで「後夜祭」へと突入することになった。
校庭には巨大なキャンプファイヤー(木材)が組まれ、すでに点火されている。 燃え上がる炎。 フォークダンスの音楽。 文化祭のフィナーレ、後夜祭だ。
私は教室の窓から、校庭の明かりを見下ろしていた。 祭りの後の静けさ。 理科準備室のような匂いのするこの空間が、今は妙に心地よい。
「……行かないの? 後夜祭」 背後から声がした。神木先輩だ。 白衣を脱ぎ、制服姿に戻っている。夕日に照らされたその姿は、ずるいくらいに様になっていた。 「先輩こそ。クラスの皆さんと盛り上がらなくていいんですか?」 「うん。ちょっと疲れちゃって。……それに、今日のMVPにお礼を言いたくて」
先輩が私の隣に来て、窓枠に肘をついた。 距離が、近い。 心拍数が上がる。 「菌田さんのおかげで、最高の文化祭になったよ。ありがとう」 「……私は、自分の趣味を押し付けただけです。先輩たちを困らせて……」 「困ったよ。すっごく困った」 先輩が笑う。 「でも、楽しかった。君といると、予想もつかないことばかり起きるけど……退屈はしないな」
先輩が私の方を向く。 その瞳が、まっすぐに私を捉えている。 「ねえ。……良かったら、一緒に踊らない?」
思考が停止した。 今、なんと? 踊る? 私と? あの「オクラホマミキサー」を? 伝説の「最後に踊っていたペアは結ばれる」というジンクスのある、あのダンスを?
「……い、いいんですか? 私なんかと。胞子が移りますよ?」 「ふふ、もう手遅れだよ。僕の白衣、黄色いシミだらけだったしね」
先輩が手を差し出した。 私は震える手で、その手を取った。 温かい。 人間の体温だ。変温動物でも菌類でもない、恒温動物の温もり。
「行きましょう、先輩!」
◇
校庭は、炎の光と生徒たちの熱気で溢れかえっていた。 スピーカーからは軽快なフォークダンスの曲が流れている。 私たちは輪の中に入り、手を取り合った。
タタタ、タタタ……。 リズムに合わせて回る。 先輩の手を握るたびに、電流のようなものが走る。 先輩も、まんざらでもない顔をしている。 目が合うと、少し照れくさそうに笑ってくれた。
(ああ……幸せ……) (私の青春、今ここで結実したんだわ……)
このまま曲が終われば、私たちは伝説のカップルになる。 先輩も、私の「菌類愛」を受け入れてくれた。 もう何も障害はない。 ……そう、思っていた。
しかし。 私は忘れていたのだ。 私たちが一日中過ごしていた場所が、「高濃度の粘菌培養室」であったことを。 そして、真正粘菌という生き物が、どれほど移動能力に長けているかを。
「……あれ? なんか、手がベタベタしない?」 ダンスの最中、先輩が不思議そうな顔をした。 「汗じゃないですか? 踊ってますし」 「いや、なんか……糸を引いてるような……」
先輩が繋いでいた手を少し離そうとした。 ――離れない。
「え?」 先輩が力を込める。 ビヨーン。 私と先輩の手のひらの間には、黄色くて太い、スライム状の「橋」が架かっていた。
「な、なんだこれ!!?」 「あッ! これは……!」 私は即座に理解した。 先輩の制服の袖口から、そして私の袖口から、黄色い粘菌が這い出していたのだ。 私たちは一日中、あの教室にいた。 目に見えない小さな菌体が、私たちの服に付着し、体温と汗(水分)を吸って急成長。 そして、私たちが手を繋いだ瞬間、「あ、こっちにも仲間(菌)がいる!」と認識し、二つのコロニーが融合(合体)してしまったのだ!
「モジホコリだわ! 私たちの手汗を吸って、融合しちゃったんです!」 「うわぁぁぁ! なんでついてきてるんだよ!!」 「先輩のことが好きなんですよ! 離れたくないって言ってるんです!」 「俺は離れたいよ!!」
先輩がブンブンと手を振るが、粘菌の結合力は凄まじい。 まるで強力な接着剤、あるいは生きた手錠のように、私と先輩の手をガッチリと固定している。
その時、曲が変わった。 パートナーチェンジの時間だ。 「はい、交代してくださーい!」 前のペアと別れ、次の人と組まなければならない。 「やばい! 交代できない!」 「先輩、無理に引き剥がすと細胞が千切れて可愛そうです! そのまま踊りましょう!」 「無理だよ! 次の女子が待ってるんだよ!」
私たちの目の前には、次のパートナーである女子生徒が待っていた。 「あ、神木くん……次、私と……」 彼女は、神木くんと私が「黄色いネバネバ」で癒着しているのを見て、表情を凍りつかせた。 「……ひッ」 「あ、違うんだ! これは文化祭の演出で……!」 先輩が言い訳をしようとしたその時。 興奮した粘菌が、さらに勢力を拡大しようと、先輩の腕を伝って肩の方までウニョウニョと伸びてきた。 その動きは、まるで黄色い蛇が這い回っているようだ。
「きゃあああああ!! 寄生虫ぅぅぅ!!」 女子生徒が悲鳴を上げて逃げ出した。 その悲鳴は連鎖し、周囲の生徒たちも私たちの異変に気づく。 「うわ、神木の手、なんか黄色いのが蠢いてるぞ!」 「バイオハザード・カフェの呪いだ!」 「感染するぞ! 逃げろー!」
モーゼの十戒のように、私たちの周りから人が引いていく。 キャンプファイヤーの炎に照らされて、私と先輩だけが取り残された。 繋がれた右手は、黄色いスライムでガッチリと固定されたまま。
「……菌田さん」 先輩が、死んだ魚のような目で私を見た。 「……はい」 「これ、どうすれば取れるの?」 「乾燥に弱いです。焚き火にかざして乾かすか、あるいは……」 「あるいは?」 「このまま一生、共生するかです」
先輩は天を仰いだ。 「……前言撤回。やっぱり君といると、退屈はしないけど、寿命が縮むよ」 先輩は深いため息をついたが、その顔は怒ってはいなかった。 むしろ、諦めの境地に達したような、穏やかな笑みを浮かべていた。
「もういいや。踊ろう、菌田さん」 「えっ?」 「どうせ離れないんだ。最後まで踊りきって、伝説でもなんでも作ってやろうじゃないか」 先輩が、繋がれたままの右手を高く掲げた。 黄色い粘菌が、ライトアップされたようにキラキラと輝く。
「はい! 喜んで!!」
私たちは、誰もいなくなったサークルの中心で、二人きりのダンスを踊り続けた。
後夜祭の伝説。 『最後の曲を一緒に踊ったカップルは結ばれる』。 私たちが結ばれたかどうかは定かではないが、少なくとも「物理的に融合した」ことだけは、全校生徒の記憶にトラウマと共に刻まれたのだった。
キャンプファイヤーの火の粉が舞い上がる。 私の初恋は、粘菌のネバネバと共に、永遠に記憶されるだろう。 先輩、覚悟してくださいね。 一度融合した菌糸は、もう二度と解けないんですよ……。




