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第1話:部活の差し入れは特製ドリンク

日本の六月。それは多くの高校生にとって、湿気が肌にまとわりつく不快な季節でしかないだろう。髪はうねり、制服のシャツは汗で背中に張り付く。誰もが空を見上げ、憂鬱な溜息をつく時期だ。

 だが、私――菌田きんだきのこにとっては違う。

 この湿度、この温度。空気中を漂う水分が飽和し、世界の輪郭が少しだけ曖昧になるこの季節こそが、生命の祝祭カーニバルなのだ。

 校舎裏、北側の壁際。日当たりが悪く、常にジメジメとした苔が生しているこの場所は、私にとっての特等席だ。

「ふふ……いい湿度。私の髪のキューティクルも、菌糸のように喜んでいるわ」

 私はしめじのようなボブヘアーを指で弄りながら、深く息を吸い込んだ。土と、雨と、少しの腐敗臭。これこそが生命の循環する香りだ。

 私の視線の先、太陽が照りつけるグラウンドでは、野球部の練習が行われていた。

 金属バットが白球を捉える甲高い音。部員たちの野太い掛け声。舞い上がる砂埃。

 その中心に、彼はいた。

 神木先輩。2年生にしてエースピッチャーを任される、我が校のスター。

 太陽の光を一身に浴び、流れる汗さえもダイヤモンドのように輝かせている彼は、まさに「光属性」の住人だ。日陰で生きる私とは、生物学的な分類が違うとさえ思える。

 だが、だからこそ惹かれるのだ。

 豊かな森林には、光合成を行う樹木と、その根元で有機物を分解する菌類の共生関係が不可欠だ。彼が光輝く大樹なら、私はその足元でひっそりと、しかし確実に彼を支える菌根菌になりたい。

「先輩……今日も素敵な代謝量。あの汗に含まれる塩分とミネラル、そして滲み出る疲労物質。今の先輩は、まるで極上の培地ね」

 私は恍惚とした表情で、手元の保冷バッグを抱きしめた。

 バッグの中には、昨晩、私が丹精込めて調合した「愛の結晶」が眠っている。

          ◇

昨夜の自宅のキッチンは、さながら錬金術の実験室だった。

「きのこ、あんたまた変なもの煮込んでるんじゃないでしょうね?」

 リビングから母親の呆れた声が飛んでくるが、私の耳には届かない。目の前の鍋の中でグツグツと煮えたぎる、深緑色の液体に集中していたからだ。

「変なものじゃないわ、お母さん。これは『愛』よ」

「愛ってそんなドブ川みたいな色してるの?」

「見た目に惑わされちゃダメ。本質を見るのよ」

 私は菜箸で鍋をかき混ぜながら、投入した素材のリストを脳内でチェックする。

 連日の練習で疲弊した先輩の肉体。必要なのは、即効性のあるエネルギーと、低下した免疫力の回復だ。

 まずベースとなるのは『冬虫夏草』。蛾の幼虫に寄生して成長するキノコの一種だ。スタミナ増強にはこれ以上の素材はない。見た目が完全に「干からびた芋虫から棒が生えている」状態なのが玉に瑕だが、粉末にしてしまえば関係ない。

 そこに、抗酸化作用の強い『霊芝れいし』のエキスを投入。苦味が強烈だが、良薬口に苦しと言うではないか。

 さらに、とろみをつけるために『ナメコ』の粘液成分を濃縮して加え、滋養強壮のために『山芋のムカゴ』をすり潰して混ぜる。

 鍋の中身は、加熱されるごとに粘度を増し、色は鮮やかな緑から、深淵のような濁った暗緑色へと変化していく。時折、ボコッ、ボコッという重たい気泡が弾ける音がする。

「……何か足りない」

 味見をしてみた私は、首を傾げた。

 栄養価は完璧だ。だが、恋には刺激が必要だ。飲んだ瞬間に、世界が輝いて見えるような、そんな劇的なインパクトが。

 私は冷蔵庫の奥に隠しておいた、とっておきのタッパーを取り出した。

 中に入っているのは、先日裏山で採取し、乾燥させておいた『オオワライタケ』の粉末だ。

 その名の通り、摂取すると顔面の筋肉が引きつり、笑いが止まらなくなるという神経毒を持つキノコである。毒キノコと恐れられるが、微量であれば中枢神経を興奮させ、気分を高揚させる効果がある……と、私の独自の研究ノートには記されている。

「ひとつまみ……いや、先輩の体格ならふたつまみくらいか?」

 愛のスパイスとして、私は魔法の粉を鍋に振り入れた。

 一瞬、鍋の中身が蛍光色に発光したような気がしたが、湯気のせいだろう。

「完璧……! これで先輩も、私の愛の虜になるはず!」

          ◇

そして、現在。

 練習終了のホイッスルが鳴り響いた。

 部員たちがグラウンド整備を始め、神木先輩が帽子を取り、腕の汗を拭いながらベンチへと戻ってくる。

 今だ。

 私は日陰から飛び出した。菌類が胞子を飛ばす瞬間のような爆発力で。

「神木先輩!」

 私の声に、先輩が振り返る。その顔には疲労の色が濃い。目の下にはクマができている。ああ、可哀想に。今すぐ私の菌糸で包み込んで癒やしてあげたい。

「……ん? あれ、君は……」

「1年の菌田です! 生物部所属、得意分野は菌類分類学です!」

 自己紹介と同時に、私は一歩踏み込んだ。先輩との距離、約50センチ。汗の匂いと制汗スプレーの匂い、そしてユニフォームの泥の匂いが混じり合う。

「ああ、菌田さんか。いつも校舎裏にいる……」

 どうやら認知はされていたようだ。「いつも校舎裏にいる不気味な子」として認識されている可能性が高いが、菌類も最初は日陰者扱いされるものだ。問題ない。

「先輩、連日の練習、お疲れ様です! 遠目から拝見しておりましたが、筋肉のグリコーゲンが枯渇し、乳酸が蓄積しているのが手に取るように分かりました!」

「え、あ、うん。まあ、疲れてはいるけど……」

「そこで! 先輩のために特製ドリンクを作ってきました!」

 私は保冷バッグのファスナーを開け、500mlのペットボトルを取り出した。

 夏の強烈な日差しが、そのボトルを照らす。

 透明なプラスチック越しに見える液体は、昨晩よりも熟成が進んだのか、より一層深い、底なし沼のような色をしていた。液体の表面には灰色の泡が浮き、底の方には何やら固形物が沈殿している。

 周囲にいた野球部員たちが、ギョッとしたように動きを止めた。

「な、なんだあれ……?」

「青汁……? いや、泥水か?」

「危険物の色してねえか?」

 神木先輩の笑顔が引きつる。

「こ、これは……?」

「私のオリジナル調合、『スペシャル・マッシュルーム・バイタル・チャージ』です! ベースは冬虫夏草と霊芝、そこにとろみ成分と愛を限界まで濃縮しました!」

「と、冬虫夏草って、あの虫から生える……?」

「はい! 栄養価は抜群です! さあ、遠慮なさらず! 今すぐ摂取してください。先輩の渇いた細胞が、菌の恵みを求めて叫んでいます!」

 私はボトルのキャップを開けた。

 プシュッ、という音と共に、周囲に独特の臭気が漂う。腐葉土の豊潤な香りに、漢方薬の苦味、そして何かが発酵したような酸味を含んだ匂い。

 隣にいた部員が「うっ」と口元を押さえて後ずさりした。

 しかし、神木先輩は優しかった。いや、優しすぎた。

 後輩が持ってきた差し入れを、しかも満面の笑みで勧められて、拒絶することができなかったのだ。

「あ、ありがとう……。すごい色だけど、体に良さそうだね……」

「良薬口に苦しですよ! 一気にいってください!」

 先輩は覚悟を決めたようにボトルを掲げ、口をつけた。

 喉が上下する。

 ゴクリ。

 その瞬間、時間が止まった。

 先輩の動きが停止する。

 見開かれた瞳孔。小刻みに震えだす指先。

 彼の脳内では今、味覚中枢が未体験の信号を受け取り、パニックを起こしているに違いない。

 濃厚なナメコの粘り気が喉に絡みつき、冬虫夏草の土臭さが鼻孔を突き抜け、最後に霊芝の強烈な苦味が舌を麻痺させる。そして、胃に落ちた液体から、オオワライタケの成分が急速に血中に吸収されていく。

「ぶッ……!!!」

 先輩が口元を押さえた。だが、吐き出すことはプライドが許さなかったらしい。無理やり飲み下し、そして膝から崩れ落ちた。

「先輩!?」

「神木!?」

 部員たちが駆け寄る。

 地面に四つん這いになった先輩の肩が、激しく上下していた。

「……く、ふふ……」

 漏れ出したのは、苦悶の声ではなかった。

「……あはっ、あはははは! なにこれ、土! すごい土の味! あははははは!」

 先輩が顔を上げた。その目は涙目になり、口元はだらしなく緩んでいる。

「苦い! 苦いのに、なんか、ふふっ、おかしい! あはははは! 箸が転げてもおかしいってレベルじゃなくて、菌が! 菌が腹の中で踊ってる! あーっははははは!!」

 グラウンドに響き渡る、エースの狂気じみた高笑い。

 オオワライタケの効果はてきめんだった。いや、少し効きすぎたかもしれない。先輩は腹を抱えて転げ回り、芝生をバンバンと叩きながら笑い続けている。

「ちょ、神木が壊れたぞ!」

「おい救急車! いや、水だ! 水飲ませろ!」

「誰か先生呼んでこい!」

 現場は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。部員たちがパニックになり、先輩を抱え上げて水道の方へと走っていく。先輩はずっと「あはははは! キノコ! キノコ最高!」と叫び続けている。

 私はその様子を、胸の前で手を組みながらうっとりと見送っていた。

 ポッと頬が赤く染まる。

「……すごい。あんなに喜んでくれるなんて」

 私の目には、先輩のあの反応が、あまりの美味しさと活力の充填に、感情の堤防が決壊してしまった歓喜の姿にしか映っていなかった。

「笑うことは免疫力を上げる最高の健康法だものね。さすが先輩、私の意図を完全に理解してくれているんだわ」

 遠ざかっていく先輩の笑い声は、私にとって愛のセレナーデのように聞こえた。

 私は空になったボトルを拾い上げ、満足げに頷いた。

「でも、ちょっと刺激が強すぎて興奮しちゃったみたい。次はリラックス効果を狙おう」

 私はポケットから愛用の『キノコ図鑑』を取り出し、ページをめくる。

「神経を鎮めるなら……『ドクササコ』は手足が痛くなるからダメだし……やっぱり『シビレタケ』で筋肉の緊張をほぐしてあげるのが一番か?」

 私の青春の菌糸は、まだ土壌に定着したばかり。

 これからもっと深く、広く、先輩という大樹を侵食していくのだ。

「ふふふ、繁殖の季節ね!」

 誰もいなくなった壁際で、私は不敵に微笑んだ。私のベニテングタケの髪飾りが、夕日を浴びて怪しく輝いていた。

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