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我に、まかせよ  作者: 熊谷 柿
第1章
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 安らかな顔の父は、五体満足だった。

 西暦二一五年、戦で父を失った。武勇の誉れ高い父だった。その父が、わずか三十八年の生涯を閉じた。父に従軍した将士からは、勇ましい最期さいごだったと聞かされた。

 何の後ろ盾もない父は、先代の領主に見出された。各地で戦功を上げた父の軍団は、精鋭揃いで負け知らずだったという。自慢の父だった。だが、もういない。

 齢十一の陳表ちんひょうは、寂しさで涙があふれた。葬儀の最中だというのに、涙が滂沱ぼうだと流れた。

「泣くな、陳表。父を亡くしても、新たな友ができたと思えばいい。だから、泣くな」

 陳表は、着物のすそで涙をぬぐうと顔を上げた。

 その声の主は、陳表と年端としはの差ほど変わらぬ童子だった。額は広く、眉は薄い。冴えた眼差まなざしに鉤鼻かぎばなを備え、微笑を浮かべている。

「俺は、諸葛恪しょかつかく。今から俺たちは、友だ」

 諸葛恪は、顔をほころばせた。その笑みに魅了されたように、陳表はこくりとうなずいた。

 諸葛恪――。名は知っていた。当代の領主、孫権そんけんから絶対の信を置かれる雅量と器量を兼ね備えた重臣、諸葛瑾しょかつきんの長子だった。その諸葛瑾は、先ほど見かけたばかりだった。父に連れられ、諸葛恪も葬儀に参列していたようだった。

 父のような勇猛な武将になりたかった。日々、陳表は剣術の腕を磨いていた。師に付いてはいなかったが、幼少の頃から父に基礎を教え込まれていた。

 諸葛恪も武芸にはいささか興味があるようだった。互いのやしきを行き来し合うようになると、遊び半分で武芸の稽古をするのが常となった。

 領主にも引けを取らない大きな邸だった。陳表が門兵におとないを入れた折だった。

「我が諸葛家は、代を重ねるごとに豪壮になってゆかねばならぬ!」

「応!」

 門の奥には、広大な庭園が広がっている。諸葛恪の大音声だいおんじょうに続けて聞こえてきたのは、弟妹たちの黄色い声だった。

 微笑を浮かべた陳表はからだを傾けると、その声の方に目を遣った。

 諸葛恪が、剣に見立てた棒を天にかざして行進している。後方から、隊列を組んだつもりのきょうらんゆうの弟妹たちが連なっていた。どれも同じように棒を天に翳している。

「陳表ではないか。早くこっちに来い」

 陳表の来訪に気付いた諸葛恪が笑顔で促した。駈け寄る陳表に、諸葛恪は続けた。

「さあ、稽古を始めよう。張休ちょうきゅう顧譚こたんには、剣術でも負ける訳にはいかないからな」

「あの二人も、師を雇って剣術にいそしんでいるみたいだけど?」

 陳表は得意げになると、木剣を肩に担ぐようにして返した。

 張休と顧譚――。諸葛恪の幼馴染おさななじみだった。二人とも、父は領主孫権の重臣である。陳表も二人を良き友に数えていた。

 諸葛恪は、不敵に顔を歪めた。

「俺にはお前がいる。俺がお前に勝てるようになれば、張休と顧譚など足元にも及ぶまい」

「僕に勝てるようになればね」

 筋は悪くなかった。しかし、諸葛恪の剣術は、依然として陳表のそれに遠く及ばなかった。張休と顧譚に比べれば、諸葛恪が頭ひとつ抜きん出ているだろう。

「今日こそは負けないわよ、陳表」

 黒髪をひとつに束ね、柳眉りゅうびに澄んだ瞳の美質が、両手を腰に当てていた。挑むような視線で陳表を貫いたのは紅一点、諸葛恪の妹の蘭だった。諸葛恪より三つ下の御転婆おてんばだった。武芸の才は弟妹の中でも群を抜いている。

 たじろぐ陳表に助け舟を出したのは、次弟の喬だった。

「落ち着け、蘭。陳表は、兄上と稽古をするために来ているのだぞ」

 風雅な気風の片鱗が見える。冴えた眼差しに微笑を湛え、喬は妹の蘭を諭した。

「兄上より先に、私が陳表に勝ってみせます」

 やれやれ顔をさらした喬に、今度は陳表が助け舟を出していた。

「わかっているよ。諸葛恪の次は、蘭と手合わせしよう。喬はやらないのかい?」

「私は見物しているよ。兄上や蘭を叱咤しったする役も必要だろうからね」

 そう言うと、次弟の諸葛喬しょかつきょうは、蘭の手を引いて陳表と諸葛恪から距離を取った。

 剣に見立てた棒を、さっと頭上に構えたのは諸葛恪だった。

「知略であろうと武略であろうと、父はおろか叔父の諸葛亮しょかつりょうを超えねば、諸葛家の繁栄はないからな」

 諸葛恪の双眸そうぼうに、炎がともったようだった。

 諸葛亮――。諸葛瑾の弟であり、諸葛恪の叔父だった。漢王室再興の御旗みはたを掲げる英雄、劉備りゅうびに参謀として仕えている。謹厳実直な性質たちもさることながら、繰り出す神算鬼謀はどれも正鵠せいこくを射た。世間からは龍に例えられ、名軍師とうたわれるほどの逸材だった。

 陳表も木刀を頭上に構えると腰を落とした。冴えた眼差しで口辺に微笑を刷いた。

「いくぞ、諸葛恪」

「さっさと来るがいい、陳表」

 どこから湧いてくるのかもわからない自信が、諸葛恪からは溢れていた。

 女物の着物を羽織った末弟の諸葛融しょかつゆうは、庭園に咲く花をでると、無邪気に羽虫を追っている。次弟の諸葛喬は、優雅な気色で二人の対峙を眺め、長女で妹の諸葛蘭しょかつらんは、両の拳に力を込め、それを注視していた。

 縁側にたたずんだ諸葛瑾しょかつきんが、顎先に伸びた一寸ほどのひげしごきながら、庭園の子どもたちに目を細めている。

 疾風はやての如く諸葛恪が踏み出した。

 それに応じたように、陳表も怒涛どとうの一歩を踏み込んでいた。

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