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我に、まかせよ  作者: 熊谷 柿
第5章
17/18

 確かに、山越さんえつの頭領である周遺しゅういは、繰り返し悪事を働いていた。山を下り、幾度となく呉の田畑を荒らしては、ときに民の命をも奪った。遂には、への反乱を起こす機会をうかがっていた。

 諸葛恪しょかつかくは、冷ややかな笑みを胡伉ここうに返した。冴えた眼差まなざしを周遺に向けると、声高らかに下知した。

「こやつを斬れ、陳表ちんひょう

 諸葛恪の隣にはべった陳表は、眉間にしわを寄せると佩剣を抜き放った。その足を周遺の許へ向けた。

「そっちではない。首をねるのは、胡伉の方だ」

「――――⁉」

 陳表だけではない。その場にいた顧承こしょう諸葛蘭しょかつらん丹陽たんようの兵士たちや山越の周遺でさえも、眼をいて唖然あぜんとした。それは、胡伉も同じだった。

「な、何を言われます――⁉」

 諸葛恪は、驚愕きょうがくの顔をさらした胡伉をにらみ付けて言った。

「山越の民を慰撫いぶするよう命じ、拘束することは固く禁じていたはずだ。お前は布令に違反した。その罪で斬刑に処す、胡伉」

「そ、そんな――」

 きゅうしたような胡伉が、後ずさったかに見えた。

 刹那せつな――。

 胡伉の目付きが変わると、懐中ふところから取り出したのは匕首あいくちだった。

「今度はられぬぞ、諸葛恪」

「…………?」

 諸葛恪は眉をひそめた。

 怒気を発した胡伉は、腹の底から唸るような低い声を発すると、猪突猛進、匕首を掲げて諸葛恪へ飛び掛った。

 驚愕きょうがくしたのは、諸葛恪の番だった。戦慄せんりつした諸葛恪は、思わずからだが硬直した。

 そこへ、さっと佩剣を引き抜いて、諸葛恪の前に真紅の身をひるがえしたのは、女傑の諸葛蘭しょかつらんだった。一条の閃光が、匕首を持った胡伉の手に走った。

 匕首を持ったままの胡伉の手首が、血飛沫ちしぶきを上げて宙を舞った。

 それと同時に、胡伉へ向かって飛び跳ねたのは、鬼の如き形相ぎょうそうの陳表だった。横薙ぎに払った一閃が唸りを上げると、胡伉の首は血の虹を描いて虚空こくうね飛んだ。刎ね上がったその首は、顧承の足元へどさりと落ちて転がった。

「ヒ、ヒイイイイ――‼」

 腰を抜かしたような顧承が、驚愕の表情を惜しげもなくさらして尻餅しりもちを突いた。

「恪兄――⁉」

「何ともないか、諸葛恪――‼」

 焦燥と心配の面持ちを浮かせた諸葛蘭と陳表が、諸葛恪を案じてその身を寄せた。

「……俺は大丈夫だ。二人とも、ありがとう」

 落ち着き払った諸葛恪は、陳表と諸葛蘭へ慇懃いんぎんに頭を垂れて微笑した。何事もなかったかのように、諸葛恪は周遺へ歩みを寄せると、そのままの微笑を携えて言った。

「腹は、膨らんだか?」

 諸葛恪により縄を解かれた周遺は、逃げるように丹陽城を去った。丹陽を後にすると、周遺はその足で山中へ戻り、居残る山越の民に喧伝けんでんして回った。

「みんな早く山を下れ! 命は取られぬ。俺が保証する。の官が望んでいるのは、俺たちが山を下りることだけだ! 急いで山を下れ! 下れば、腹いっぱい飯を食えるぞ!」

 頭領である周遺の言葉に、下山に躊躇ちゅうちょしていた老幼も、慣れ親しんだ山を下り始めた。

 諸葛恪に帰順した山越の民は、数万に及んだ。

          

「本当にあきれたわ。身動ぎもせず固まって。今まで培ってきた剣術を発揮するいい機会だったでしょ、恪兄?」

 諸葛恪にくつわを並べた紅鎧こうがいの諸葛蘭が、深い溜息をついて力なく笑った。

「俺には、お前も陳表も付いていたからな。自ら剣を抜く必要はないと思っていた。本当に格好悪いのは、顧承の方だ」

 諸葛恪は、後方に一瞥いちべつすると北叟笑ほくそえんだ。

「だ、黙れ、諸葛恪! お前なんぞより、我が兄、顧譚こたんの方が偉大であることを知るときが必ず来るぞ!」

 顧承は、己の不甲斐無さを紛らわせるよう、兄の顧譚を出しに悪態あくたいをついた。

 その顧承の隣には、文身いれずみからだに浮かせた偉丈夫いじょうぶの周遺が、馬上で笑みを湛えていた。諸葛恪に心打たれた周遺は、自らその身辺警護を名乗り出ていた。

「まあ、いいじゃないか。孫権そんけんさまとの約定を違わぬどころか、これまでに誰も成し得なかったことを遂げたんだから。これほどの兵を獲得して、孫権さまが喜ばないはずがない」

 諸葛蘭とは反対側で諸葛恪と轡を並べた陳表が、嬉しそうな表情で頬に柔らかな風を受けていた。

 諸葛恪が率いた一群は、緩緩ゆるゆると皇帝孫権のいる首都、健業けんぎょうへ向かっていた。

「これならば、天にいるきょうにも見えているだろう」

 馬上の諸葛恪は、ほうきのような雲が流れる青空へ目を細めた。

「……そうだね」

 隣の諸葛蘭も、優しげな眼で空を見遣みやった。

 陳表と顧譚、周遺も、青い空へ顔を向けた。

 その後方には、四万ものたくましい山越さんえつの兵が、群れを成したように延々と続いていた。

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