遂
確かに、山越の頭領である周遺は、繰り返し悪事を働いていた。山を下り、幾度となく呉の田畑を荒らしては、ときに民の命をも奪った。遂には、呉への反乱を起こす機会を窺っていた。
諸葛恪は、冷ややかな笑みを胡伉に返した。冴えた眼差しを周遺に向けると、声高らかに下知した。
「こやつを斬れ、陳表」
諸葛恪の隣に侍った陳表は、眉間に皺を寄せると佩剣を抜き放った。その足を周遺の許へ向けた。
「そっちではない。首を刎ねるのは、胡伉の方だ」
「――――⁉」
陳表だけではない。その場にいた顧承と諸葛蘭、丹陽の兵士たちや山越の周遺でさえも、眼を剥いて唖然とした。それは、胡伉も同じだった。
「な、何を言われます――⁉」
諸葛恪は、驚愕の顔を晒した胡伉を睨み付けて言った。
「山越の民を慰撫するよう命じ、拘束することは固く禁じていたはずだ。お前は布令に違反した。その罪で斬刑に処す、胡伉」
「そ、そんな――」
窮したような胡伉が、後ずさったかに見えた。
刹那――。
胡伉の目付きが変わると、懐中から取り出したのは匕首だった。
「今度は殺られぬぞ、諸葛恪」
「…………?」
諸葛恪は眉を顰めた。
怒気を発した胡伉は、腹の底から唸るような低い声を発すると、猪突猛進、匕首を掲げて諸葛恪へ飛び掛った。
驚愕したのは、諸葛恪の番だった。戦慄した諸葛恪は、思わず躰が硬直した。
そこへ、さっと佩剣を引き抜いて、諸葛恪の前に真紅の身を翻したのは、女傑の諸葛蘭だった。一条の閃光が、匕首を持った胡伉の手に走った。
匕首を持ったままの胡伉の手首が、血飛沫を上げて宙を舞った。
それと同時に、胡伉へ向かって飛び跳ねたのは、鬼の如き形相の陳表だった。横薙ぎに払った一閃が唸りを上げると、胡伉の首は血の虹を描いて虚空へ刎ね飛んだ。刎ね上がったその首は、顧承の足元へどさりと落ちて転がった。
「ヒ、ヒイイイイ――‼」
腰を抜かしたような顧承が、驚愕の表情を惜しげもなく晒して尻餅を突いた。
「恪兄――⁉」
「何ともないか、諸葛恪――‼」
焦燥と心配の面持ちを浮かせた諸葛蘭と陳表が、諸葛恪を案じてその身を寄せた。
「……俺は大丈夫だ。二人とも、ありがとう」
落ち着き払った諸葛恪は、陳表と諸葛蘭へ慇懃に頭を垂れて微笑した。何事もなかったかのように、諸葛恪は周遺へ歩みを寄せると、そのままの微笑を携えて言った。
「腹は、膨らんだか?」
諸葛恪により縄を解かれた周遺は、逃げるように丹陽城を去った。丹陽を後にすると、周遺はその足で山中へ戻り、居残る山越の民に喧伝して回った。
「みんな早く山を下れ! 命は取られぬ。俺が保証する。呉の官が望んでいるのは、俺たちが山を下りることだけだ! 急いで山を下れ! 下れば、腹いっぱい飯を食えるぞ!」
頭領である周遺の言葉に、下山に躊躇していた老幼も、慣れ親しんだ山を下り始めた。
諸葛恪に帰順した山越の民は、数万に及んだ。
「本当に呆れたわ。身動ぎもせず固まって。今まで培ってきた剣術を発揮するいい機会だったでしょ、恪兄?」
諸葛恪に轡を並べた紅鎧の諸葛蘭が、深い溜息をついて力なく笑った。
「俺には、お前も陳表も付いていたからな。自ら剣を抜く必要はないと思っていた。本当に格好悪いのは、顧承の方だ」
諸葛恪は、後方に一瞥すると北叟笑んだ。
「だ、黙れ、諸葛恪! お前なんぞより、我が兄、顧譚の方が偉大であることを知るときが必ず来るぞ!」
顧承は、己の不甲斐無さを紛らわせるよう、兄の顧譚を出しに悪態をついた。
その顧承の隣には、文身を躰に浮かせた偉丈夫の周遺が、馬上で笑みを湛えていた。諸葛恪に心打たれた周遺は、自らその身辺警護を名乗り出ていた。
「まあ、いいじゃないか。孫権さまとの約定を違わぬどころか、これまでに誰も成し得なかったことを遂げたんだから。これほどの兵を獲得して、孫権さまが喜ばないはずがない」
諸葛蘭とは反対側で諸葛恪と轡を並べた陳表が、嬉しそうな表情で頬に柔らかな風を受けていた。
諸葛恪が率いた一群は、緩緩と皇帝孫権のいる首都、健業へ向かっていた。
「これならば、天にいる喬にも見えているだろう」
馬上の諸葛恪は、箒のような雲が流れる青空へ目を細めた。
「……そうだね」
隣の諸葛蘭も、優しげな眼で空を見遣った。
陳表と顧譚、周遺も、青い空へ顔を向けた。
その後方には、四万もの逞しい山越の兵が、群れを成したように延々と続いていた。




