集
諸葛恪は、五百の兵士を従え、任地となった丹陽に赴いた。
「本当に、こんなことになって大丈夫なの?」
轡を並べた陳表が、心配げな顔を諸葛恪に向けている。丹陽太守と言っても地方官である。治安の維持は困難な上、皇帝の孫権に啖呵を切っていた。さすがの陳表も、今回ばかりは不安が募った。
孫権の計らいにより、陳表は丹陽の領兵役ということになった。同道している兵士たちも、これまで指揮を執ってきた五百だった。
「心配などいらぬ。それよりも、偉業を成し遂げた後の振る舞いでも考えておれ」
微笑を浮かせた馬上の諸葛恪は、清夏の風を頬に受けていた。
「そんなことはどうでもよい。何故に私が同道しなければならぬのだ?」
陳表とは反対側で、諸葛恪と轡を並べていたのは、齢二十五の細身だった。
「あの兄貴贔屓をどうにか鍛えてやれ」
何をするにも兄にばかり付いて回る細身の若者を、孫権は独り立ちさせるべく、諸葛恪と陳表に付けて寄越した。その若者こそ顧譚の弟、顧承だった。
「黙れ、顧承。兄なんぞより、偉大な者がいることを教えてやる」
「はいはい。ああ、早く帰りたい」
ふて腐れた態度の顧承に、諸葛恪は北叟笑んだ。
丹陽城に到着した諸葛恪は、すぐさま周辺の呉、会稽、新都、鄱陽の四郡、その長吏(県を主管する長官)に伝達した。
「部隊を編成し、それぞれの境界をしっかり守らせ、そこに民を纏めて住まわせよ」
さらに、将校たちと伴った五百の兵士を派遣し、各地の軍事拠点の守備に着かせた。山越が現れたとしても、将兵には干戈を交えることを禁じた。加えて、穀物が実った暁には、落穂ひとつ残らぬよう収穫することを固く命じた。それらの指揮は、陳表と顧承に委ねた。
間もなくして、新たに二千ほどの兵士が丹陽を訪った。聞けば、諸葛融の命で馳せ参じたという。
諸葛家の末っ子は、愉しく遊ぶことに長けていた。その鷹揚な性格も功を奏し、騎都尉となった諸葛融に部隊の兵士や役人はよく懐いた。秋と冬は軍事訓練と称した狩猟を盛んに行い、春と夏は賓客を招いて盛大な宴会を催した。
宴会を開催する際は、参加者一人ひとりに得意とするところを聞き出し、双六、囲碁、投壺、弾弓、樗蒲などの遊戯会場を設け、同程度の技量の対戦相手を用意する徹底振りだった。それぞれの集まりに分かれて競技させると、その場に次々と豪勢な食酒を運び込ませ、大いに振舞った。
女物の着物を羽織った諸葛融は、一日中、宴会場を見て回り、笑顔を絶やすことなく観覧するだけだった。
「みんなの笑顔を見ていると、僕も幸福になるなあ」
休暇で駐屯地から遠く離れていた官吏や兵士たちも、千里の道を厭わず必ず参加した。
兄の諸葛恪が丹陽に赴任した経緯を聞き知った諸葛融は、直属の兵士たちに頭を下げると、諸葛恪の助力を依頼した。
諸葛恪の兵士たちは、快く肯んじた。加えて、その兵士たちの喧伝により、諸葛融が主催する宴会に参加したことのある遊侠の徒までも丹陽に馳せ参じた。
末弟諸葛融の天性とも言える人心掌握術は、兄の成功を後押しするまでに至っていたのである。
「融の奴、やるではないか」
諸葛恪は新参の兵士二千を前に、不敵な笑みを湛えた。
それから暫くすると、ひとりの女傑が百騎を率いて丹陽に来訪した。百騎を率いる女傑は、黒髪をひとつに束ね、真紅の軽鎧に身を包んでいる。腰には剣を佩き、弓嚢と胡禄を引っ下げ、柳眉のような薙刀を手にした美質だった。
「諸葛家は、代を重ねるごとに豪壮になると聞いております。諸葛恪どのが統治する丹陽の民、その安寧に我らが張家も一役買うことをお許しいただきとう存じます」
丹陽太守の諸葛恪を前にしても、まるで臆した様子がない。高々と口上した美質が率いる百騎も武装していた。
「張家に頼るつもりは、元からないのだがな」
城門まで姿を現した諸葛恪は、腕組みをして胸を張ると目を細めた。
「聞いたわよ。どう考えても諸葛家が伸るか反るかは、この局面ね。山越が攻め寄せたら、恪兄だってどうなるかわからないじゃない。近衛兵くらいやらせてもらうわよ」
全身が真紅の女傑が、嫣然と微笑んだ。諸葛恪の妹、諸葛蘭だった。
「今より我らは、丹陽太守どのの近衛軍となる! 何があっても太守どのを死守せい!」
男勝りの諸葛蘭が、よく通る声で百騎に下知を飛ばした。
「応!」
青空の下、意気漲る鬨の声が上がった。
諸葛恪は、細めた目を空へ向けた。箒雲が浮いていた。




