弟
諸葛恪、陳表、張休、顧譚――。幼馴染四人に、呉王の孫権から特命が下された。
「孫登が十六になった。あれは俺と違って優し過ぎる。知略もなけりゃあ、武略もねえ。まだまだ乱世は続くだろうが、このままじゃあ、王の座を譲るに心許ねえ」
孫登――。孫権の長子であり、呉の太子でもあった。
玉座の孫権は、拝跪した諸葛恪、王表、張休、顧譚を眼前に据え、不敵に顔を歪めた。
「おめえらは、呉の名家の御曹司。挙って育ちがいい上に、それなりに知略と武略も兼ね備えている」
孫権は、猛虎のような眼光で四人を貫くと言った。
「おめえらに孫登を預ける。孫登を育てろ」
それからというもの、幼馴染の四人に太子の孫登が加わり、五人で行動を共にすることが増えていった。
孫権のような暴威は、微塵も感じられない。常に柔らかな笑みを携えている。孫登は、父親の孫権が気に病むのも頷けるほど優しい心の持ち主だった。どこへ向かうにも、民が整備した田畑を荒らす訳にはいかないと、必ず遠回りするような青年だった。
これを乱世の王にまで育て上げるのが四人の使命となった。
漢書などの講義は張休が行った。諸葛恪が務めてもよかったが、父親の序列を考えると、張休が担うのが妥当であろうという四人の見解だった。
張休の講義を、孫登と陳表が肩を並べて真剣に聴講していた。その後ろに座した諸葛恪と顧譚が退屈そうに欠伸をしている。孫登の飲み込みは悪くないように見えた。
武芸の講師は陳表だった。
類稀な温室育ちが如実だった。孫登は、木剣さえ握ったことがないようだった。張休と顧譚でさえ愕然とするほどの剣術の素人だった。
どこまで厳しく指導したらいいのか、四人に迷いが生じた頃だった。
「私に遠慮なんかしないで。本当の弟だと思って接してよ」
にこにことした孫登が、四人を前にして言った。
確かに、太子という立場に臆するところがあったのは四人も納得していた。
「俺たちの弟になるということは、泥に塗れるということだが?」
諸葛恪は、試すような視線を孫登に向けた。
「泥に塗れることを知らなければ、王となっても民の気持ちがわからない。張休が講義で言っていたよ」
四人は顔を見合わせると、それから本当の弟のように可愛がった。互いの身分など構わず寝食を共にし、冗談も言い合うようになった。
そんなある日――。
五人で丹陽の山中に狩りへ出向くことにした。
相変わらず、孫登は遠回りする方を選んだ。
孫登に見本を見せてやろうと、張休と顧譚、そして、陳表は、弓矢を片手に張り切って山中に足を踏み入れた。
やれやれ顔を晒した諸葛恪は、孫登を伴うようにして山中へと入った。
奇妙なほど山中は静かだった。既に陽が沈み掛けているというのに、誰からも獲物を仕留めたという報せがない。そろそろ帰路に着く刻限に達しようとしていた。
それは、諸葛恪と孫登が、山間に差し掛かったときだった。
「わっ!」
諸葛恪は、声を上げた孫登を振り返った。
突如、木立の裏から子どもが手を伸ばし、孫登を引きずり込むように引っ張っている。見れば、その子どもの眼球は全て黒く、肌は透けるように青白い。
すぐさま孫登に駈け寄った諸葛恪は、孫登に伸びた手を掴むと、力任せに子どもを引っ張り出した。その子どもは、ぐったりしたようになると、溶けるように消えてしまった。
眼前の事態に驚愕した孫登は、息を荒げて諸葛恪に眼を見張った。
「し、諸葛恪は、神通力でも持っているのか――⁉」
諸葛恪は口辺に笑みを刷くと、弟を諭すような口調で言った。
「これは、山間に住まう渓嚢という妖しだ。人を見ると、手を伸ばして木の中に引きずり込もうとする。その場所から引き離せば、いとも簡単に死んでしまうがな」
「そのまま、引きずり込まれたらどうなるの……?」
渓嚢のように青ざめた孫登が尋ねると、諸葛恪は不気味に笑った。
「その身はこの世から消え、新たな渓嚢となるだろう。このことは、白沢図に収載されている。お前はまだ、それを知らなかっただけだ。学ぶことは多いぞ、孫登」
孫登が晒した驚きの形相に、大笑した諸葛恪は踵を返して山を下り始めた。
「諸葛恪……。凄いや!」
瞳を輝かせた孫登は、諸葛恪の後ろ背に羨望の眼差しを向けると、それを追うように駈け出した。
世間より、諸葛恪を初めとする四人が、太子四友と称えられ始めたのは、それからのことだった。
西暦二二八年――。諸葛恪は二十五となっていた。
逞しくなった孫登も齢十九を迎えていた。
太子四友の下に、ひとつの訃報が齎された。誰もが耳を疑った。中でも諸葛恪は、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。
蜀の丞相、諸葛亮の養子となった諸葛喬が夭折した。齢二十四だった。




