Episode 60
お父様とアンドレと一緒に邸に戻った私は、すぐに自分の部屋に向かった。部屋の隅に設えられたドレッサーの前に立ち、パトリックが鏡に刻んだ魔法陣にそっと手をかざすと、鏡がふわっと光を放つ。
「無事に帰ったみたいだな」
鏡の向こうには、書類から顔を上げて微笑むパトリック。
「はい。何も問題ありませんでした」
私もドレッサーの椅子に座りながら笑顔を返す。
さっき王城で、外出する時は必ず出発する前と帰宅時に連絡を入れる、と約束してきた。早速約束通りに帰宅報告をしたのだ。
過保護だとか束縛だとか思う気持ちよりも、パトリックに心配をかけたくない、という気持ちが大きい。前世とはまったく違う世界にいる今、とにかく警戒できることは何でも警戒する、身の安全を第一に考える、という約束もしている。
この世界のことをまだまだ把握しきれていないし、どんなことが起こるのかもわからない。前世とはまったく違う世界にいるんだから、前世の常識は通用しないって考えるべきだ。実際にこれまで、前世では考えられないことがたくさんあったんだから。
「明日も妃教育のために登城するんだろう?護衛をつけるから、気をつけて来てくれ」
「わかりました。では、また明日。パトリック様も根を詰めすぎないようにしてくださいね。パトリック様にだって、何があるかわからないんですからね」
ワーカホリックの人にこんなこと言っても無駄かもしれないけど、言わずにはいられない。
「わかったよ。どうせイライザも、これからまた黒魔法の鍛錬をするんだろ?そっちも無理しすぎないように」
「はい。わかりました」
お互いに苦笑いの表情になる。お互い無理しがちな性格なのはよくわかっている。
「それでは、また」
もう少し話していたいけど、パトリックも私も忙しい身だ。後ろ髪を引かれながらも私たちは鏡に向かって手を振り、通信を切った。
日課になっている黒魔法の鍛錬のため、お父様の執務室のドアをノックすると、アンドレがドアを開けてくれた。アンドレはお父様の後継者だけあって、ここのところいつもお父様と一緒だ。黒魔法も、かなりレベルアップしている。
「よろしくお願いいたします」
黒魔法の鍛錬の間は、親子というより師匠と弟子。私はきちんと礼をして部屋に入った。お父様も、うむ、と師匠の表情で頷き、私を出迎えてくれた。
「第二王子派の動きが不穏であるため、今日は自身を守るための術を教授する。これが展開できるようになれば、ある程度自分の身は自分で守れるようになるはずだ」
お父様の言葉に、私とアンドレは力強く頷いた。いくら護衛をつけてもらえるとはいえ、自衛できるに越したことはない。攻撃系の黒魔法は、以前アスター帝国との抗戦で突発的に発動して以降、どうもうまくいかないんだけど、それ以外は少しずつ身についているのを感じている。自衛のための術なら、絶対にものにしたい。
「ではまず手を前にかざして…」
お父様の言葉に従い、手をかざして集中力を高める。
「自分の身体の周りに、壁を作るイメージをするんだ。全方向からのどんな攻撃も通さない、強固な壁だぞ」
自分の魔力が身体を取り巻く感覚がする。これ、できてるのかな?
「アンドレ、それでいい。後はそれをできるだけ長く展開させられるように鍛錬しなさい」
お父様がアンドレの周りに張られた結界のようなものに触れて頷く。同じ黒魔法の使い手同士なら、術が見えるし触れることもできるようだ。
「イライザは、もう少し壁を厚くするイメージをしてみなさい。これではまだ弱い」
「はい!」
つうっと、頬を汗がつたうのを感じる。私を守る壁。自分で自分を守れるようになりたい。
「うん、強度が上がってきた」
お父様が私の作った魔法の障壁に触れる。ああ、でももう…。私はへたっと座り込んでしまった。魔力切れだ。
「感覚は掴めただろう?次からはもっと早く展開できるはずだ。最低でも3分展開できるようになりなさい。3分あれば、万が一イライザが一人の時に襲撃されても、必ず護衛や私たちがどうにかする。まあ、絶対に一人にはしないがな」
お父様は私の汗をハンカチで拭き、頭を撫でてくれた。アンドレが体力の消耗時によく効く薬湯を入れてくれた。私はありがとう、とお礼を言って薬湯を一口飲む。相変わらず、気が遠くなるほど苦い。だけど、少しずつ飲み下すうちに、身体の中が温かくなってくるのを感じる。
「もう少し休んだら、もう一度術を展開させてみなさい。そうしたら今日は終わりにしよう」
「はい」
私は苦すぎる薬湯をぐっと飲み干して、立ち上がった。




