Episode 36
支配人に案内された部屋は、最上階のフロアをまるごと使った贅沢なスイートルームだった。壁一面を切り取るように設えられた大きな窓の外に広がる景色には既視感がある。
「ここ!この部屋って、サマーフェスティバルの時のパトリック様の背景になってましたよね?」
支配人が部屋を後にしてすぐ、私は興奮のあまりパトリックに詰め寄った。
「この大きい窓!そして広いバルコニーと、眼下に望むエメラルドグリーンの海!絶対ここです!ってことは、ゲームでのパトリックとアンジーのやり取りも、ここで行われてたってことですよね?」
「そうだな。この部屋で間違いないんじゃないか?早速聖地巡礼ができたな」
興奮する私を優しく目を細めて見つめるパトリックの顔が尊すぎて、自分で詰め寄っておきながら、思わずぱっと目を逸らしてしまった。
「ほ、ほら、あの灯台も!ここからの眺め、実際に見ても…っていうか実際の方が、すごく綺麗ですね」
照れてしまったことを誤魔化すように窓際に駆け寄り、景色に視線をやる。
「うん、綺麗だ。イライザとここに来ることができてよかった」
不意に後ろから抱きすくめられて、思わず身体がびくんと跳ねる。バックハグしながら耳元で囁くなんて反則だから!ただでさえ大好きなパトリックの声に、沢渡部長の色気を絡ませないでほしい。容量オーバーになっちゃうよ…。
「イライザ?」
動きが止まってしまった私の顔を、パトリックが斜め上から覗き込む。
「ダメです。今私の顔、見ないでください」
「やだ。見たい。見せて」
やだとか言わない!こんな顔見せられないって!もう婚約までしてるのに、なんで私はいつまでもこういうのに慣れないんだろう。毎度のことながら、自分の経験値の低さに呆れる。
「ね、イライザ、こっち向いて」
畳みかけるように繰り出される少し甘えた請うような声。だから、ダメだって言ってるのに…。
私は少しだけ顔を上げて、ちらりとパトリックを見つめた。途端に嬉しそうな色を浮かべたグリーンがかったアッシュの瞳と目が合う。私が絶対に折れるってわかっていて、いつだってこうやって甘い罠を仕掛けるんだ。
唇を啄まれ、観念した。私程度の恋愛経験値で、沢渡部長が仕掛ける罠になんて、掛からないでいられるわけがない。
私の身体から変な力が抜けるのを待ち構えていたように、少し強引に唇を押し開き、柔らかな舌が入り込んでくる。
熱い思いを甘やかに伝えるような長い長いキス。ようやく唇が離れた時には、私はすっかりパトリックに身体を預けてしまっていた。
「この後、明日のフェスティバルの開会式の打ち合わせがあるんですよね…?私はその間ここで待ってるってことでいいんでしょうか?」
パトリックに抱き上げられてソファに移動した私は、私を膝に乗せてにこにこしているパトリックにちょっと恨みがましい視線を送った。こんなに蕩けさせられてしまったのに、短時間で立て直して人前に出ないといけないなんて無理がある。
「いや?せっかくなんだし、イライザも一緒に連れて行くつもりだ。婚約披露パーティー前とはいえ、フェスティバル関係者には俺の婚約者として周知してるし、何も問題ない。ここみたいにゲームで出てきた場所をたくさん見られるはずだぞ」
「だったら、お化粧直しが必要になるようなことしないでくださいよ」
私の言葉に、パトリックはちょっとだけ申し訳なさそうに眉尻を下げたが、すぐににやりと沢渡部長らしい笑みを浮かべた。
「好きな相手とこんなシチュエーションで何もしないなんて無理だろ。――でも、ちょっとやりすぎたのは、悪かったと思ってる。歯止めがきかなかった。これからは気をつけるから、機嫌直して一緒に行こう」
優しく頭をポンポンと撫でられ、私はむすっとしながらも頷いた。そりゃ、ここまで来たら一緒に行きたい。パトリックのペースに流されてしまうのはいつものことだし、意地を張っても仕方ない。
「約束ですよ?」
もう一度ぎろりとパトリックを睨むと、パトリックが嬉しそうに笑いながら、「うん」と頷くや否や、ちゅっと短いキスをした。――ええと、約束、守ってもらえるのかな…。
サマーフェスティバルの開会式が行われる会場は、先程ホテルの窓から見えた海岸沿いにあった。
白い砂浜から一段上った石畳の広場では、フェスティバルの準備が着々と進められている。
「皆さん楽しそうに準備されていますね。出店もこんなにたくさんあるなんて、驚きました」
パトリックの腕に手を添えて公爵令嬢らしく歩きながら、辺りを見回す。海からの風がつばの広い帽子のリボンを揺らし、髪を軽やかになびかせる。
「そうだね。明日開会の挨拶が終わったら、僕たちもフェスティバルを見て回ろう」
「私たちが見て回っても、大丈夫なのでしょうか?」
フェスティバルは楽しみたいけれど、セキュリティの問題とか、あったりするのかもしれない。私は今も周囲を警戒してくれている護衛の人たちにちらりと目をやった。
「イライザ様、どうぞご安心ください。毎年王族の方々にお越しいただいているフェスティバルですので、警備には特に気を配り、治安部隊を所々に常駐させて万全を期しております。それに、殿下の護衛の方々も精鋭揃いと聞いておりますし、どうぞフェスティバルをご堪能いただければと思います。昼は踊りをはじめとした賑やかな催しが行われ、夜には花火も上がりますよ」
私たちの会話を斜め後ろで聞いていた、主催者でありここナウパカの領主であるノバック伯爵が、にこにこしながら言った。
ノバック伯爵はおそらくお父様と同じくらいの歳なんだろうけど、恰幅がよく、ヘーゼルブラウンの髪も少し心許ないせいで、もう少し上に見える。誰が見てもイケオジなお父様とはまったくタイプは違うが、人の良さが前面に押し出されたような感じの笑顔が印象的で、なんだか可愛らしいおじさんだった。
確かに、治安も良さそうだし、街の人たちも毎年王族が来ることに慣れているようで、私たち一行を見ても変に緊張したり浮き足だったりしているような様子もない。いろんなことがちゃんと整っている印象。さすがはゲームのイベントが行われる舞台といったところだ。
「明日のフェスティバルが楽しみです」
私はわくわくする気持ちをできるだけ公爵令嬢らしい上品さで隠しながら、ノバック伯爵に微笑んだ。




