「異動のうわさ。八木原に浮上する“本社戻り”の打診」
第十八話
秋の朝は、空気が少し乾いて、窓越しの日差しがまぶしくなる。
この日も、八木原はいつものように出社し、いつものようにPCを立ち上げ、いつものようにコーヒーを淹れた。
――ただ、画面のメールに表示された一件が、その“いつも”をすこしだけ揺らした。
件名:【極秘】人事異動に関する事前確認(ご本人のみ)
差出人:本社 人事課 課長代理 永田健二
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◆ 午前8:35/一通のメールが、静かに心を揺らす
メールの内容は、簡潔だった。
「来年度からの人事再編に伴い、八木原さんを本社管理部門へ戻す案が検討されています。
異動は3月以降を想定していますが、ご本人の意向も確認させていただきたく……」
「戻す」という表現が、静かに胸を突いた。
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◆ 午前10:00/誰にも言えず、仕事に向かう
電話を取りながら、備品台帳を更新しながら、社内稟議を回しながら、
頭のどこかに、“あのメール”がずっと居座っていた。
(本社に戻ったら、何が待ってる? 何を失う?)
ここに来て1年半。
最初は「島流しだ」なんて冗談まじりに言ってたけれど、今は――
この場所で、仲間ができて、ルーティンができて、知らない町に“知ってる店”が増えた。
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◆ 昼休み/佐伯さんの一言が刺さる
「私、この町、けっこう好きになってきました。最初は不安だったけど」
「へえ……それはよかったですね」
「八木原さんがいてくれたおかげですよ。正直」
不意にそう言われて、返す言葉が詰まった。
“いなくなるかもしれない”なんて、とても言えなかった。
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◆ 午後4:15/大島さんの、なんでもない話
月末処理の相談ついでに、大島さんがぽつりと。
「八木原くん、もし異動の話とか来たら、どうする?」
「……えっ?」
「いや、最近人事課がバタバタしてるしさ。なんとなく思っただけ。
でもまあ、どこにいても“らしく”働ければ、どこでもいいのかもね」
その言葉は、軽くて、深かった。
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◆ 夜/メールの返信を前にして
・異動はキャリア。だけど“今の場所”を手放すことでもある
・必要とされる場所と、自分が“居たい”場所は違うことがある
・選ぶのは自分。でも、選んだあとの責任もまた、自分
八木原は、キーボードに手を置きながら、ひとつ深呼吸をした。
「ご連絡ありがとうございます。
本社でのキャリアも重要だとは理解しておりますが、
現時点では現職での継続を強く希望しております。
現地での経験をもう少し積み、信頼を育てる時間を持ちたいと考えております」
“出世”より、“信頼”。
それが今の八木原の選択だった。