「訓練当日!シナリオ通りにいかない“本番”が始まる」
第十六話
9月28日(木)、朝7時50分。
丸亀の空はどこか落ち着かない曇り色。
湿気を含んだ風が、今日がただの“普通の業務日”ではないことを告げていた。
八木原は、普段より30分早く出勤し、作成した防災訓練のスクリプトを片手に敷地内を巡回していた。
いつもと同じ通路、いつもと同じ階段。
でも今日だけは、**“もしもの現場”**になる。
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◆ 午前8:25/最後の確認
放送設備のチェック、ヘルメット配備の位置、避難経路の誘導員の配置。
担当者たちに最終確認を取りながら、八木原は気づいていた。
(完璧に仕込んでも、“想定外”は絶対ある)
でも、その想定外をどう受け止めて、どう対応できるかが、
“現実の防災”なんだと、資料の文字ではなく、今日という空気が教えていた。
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◆ 午前9:00/訓練、開始の予定時刻
「ではこれより、防災訓練を開始します」
構内に八木原の声が響く。自作した放送原稿を読み上げる手が少し震えていた。
「地震発生を想定し、安全を確認しながら各自、避難経路に沿って……」
……そのときだった。
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◆ 午前9:01/“想定外”発生
構内に響くはずの放送が、途中でプツッ……と音を立てて切れた。
「……え?」
放送設備のトラブルだった。
昨日まで動いていたのに、今朝の時点で電源周りに不具合が出ていたらしい。
構内に沈黙が流れる。
でも時間は止まってくれない。
「佐伯さん! ポータブルスピーカー持ってきて! 館内放送切り替えます!」
「了解です!」
冷や汗を拭いながら、即興で避難開始の誘導を行う。
放送は聞こえなくても、現場の“人”は動いていた。
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◆ 午前9:10/避難誘導中
構内の数十名が、それぞれの担当誘導員の指示で中庭へと移動していく。
大きな混乱はない。けれど一部では、「え、もう始まってたの?」という戸惑いも。
“情報が届かない”ことが、これほど不安を生むとは――
その事実を、八木原はこの10分間で痛感した。
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◆ 午前9:25/避難完了・点呼・講評
中庭に集まった社員たちに、拡声器で状況を伝える。
反省点と改善点をその場で伝えた。
大きなトラブルはなかったものの、**“情報伝達の弱さ”**がはっきりと露呈した。
「放送が切れた瞬間はどうしようかと思ったけど、各担当者がしっかり動いてくれた。感謝します」
八木原の言葉に、現場からは拍手が起きた。
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◆ 午後/管理課のデスクにて
訓練後の記録をまとめながら、佐伯さんが言った。
「いやぁ……放送落ちた瞬間、正直詰んだと思いました」
「俺もです……でも、意外となんとかなりましたよね」
「“人が動ける体制”って、マニュアルより大事かもしれませんね」
「うん。機械は止まっても、人は止まらなかった。それが救いでした」
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◆ 夜/寮の部屋で、靴下を脱ぎながら思う
・シナリオ通りにいかないからこそ、訓練は“本番に近づく”
・“伝える手段”より、“動ける人”を育てることが大事
・自分の声が、誰かを動かしたなら、それだけで十分意味がある
完璧ではなかった。
でも、誰かが“今日の訓練、意味あったね”と感じてくれたら――
それこそが、今日の“成功”だった。