「ただいまと言えたら、それはもう居場所だ」
第十話
帰省というものは、ある種の“タイムスリップ”だ。
大人になった自分を、子ども時代の景色に無理やりはめ込む。
玄関のチャイムも、風呂の温度も、食卓の向きさえも、何ひとつ変わっていないのに、自分だけが変わってしまったことを思い知らされる。
「飯、たくさん食べなさいよ」
「彼女は? あ、いないか」
「転勤って、左遷じゃないんでしょ?」
実家は、やさしくて、やかましくて、ちょっとだけ刺さる。
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◆ 盆休み最終日/帰りの電車
冷房の効いた特急「いしづち」の車内。
車窓の外に、青くてまっすぐな空が続く。
バッグの中には洗濯済みの私服と、母親が勝手に詰めたお菓子とレトルト味噌汁。
会社に戻るだけなのに、なぜか少しそわそわしている。
気づけば、自分のスマホのカレンダーを開いて、
“支社の会議スケジュール”を確認していた。
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◆ 8月16日(水)/管理課に帰還
「おはようございます」
そう言った瞬間に、「ただいま」と言いたい衝動に襲われた。
タイムカードを押して、デスクに座る。
そこには、出社前に誰かが置いた報告書の山と、未読の社内メール50通が待っていた。
「盆明け早々、濃いね〜」と笑いながら、大島さんが声をかけてくれる。
その声に、少し救われた気がした。
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◆ 午前/“通常運転”のありがたさ
メールをさばき、申請のチェックをして、備品の在庫を確認。
1週間前まで普通だったこの作業が、どこか“懐かしい”。
窓の外ではフォークリフトが走り、作業員の掛け声が聞こえる。
そのすべてが、「自分が戻ってきた場所なんだ」と教えてくれる。
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◆ 昼/食堂の味が、前よりおいしい
「うどん小でいい? それとも“帰省リバウンド”してる?」
「むしろ“母の餌付け”で胃袋が拡張されてます」
「じゃあ天ぷら付きでね。あとアイスもあるよ。おかえり、太って帰ってきた人用に」
大島さんとの会話は、相変わらずゆるくて、ちょっとツッコんでくる。
実家の“栄養満点なやさしさ”とは違って、支社の空気はちょうどいい温度だった。
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◆ 午後/変わっていたのは景色じゃなく、自分だった
資料の印刷に失敗して、プリンターの詰まりを直して、
備品倉庫の掃除中に去年の盆踊りチラシを発見して――
どれも本社時代にはやらなかった“地味な仕事”。
でも今は、それが嫌じゃない。むしろ、“俺の仕事”だと思えるようになっていた。
(ああ、俺、ここに“慣れた”んだな)
そんな自覚が、不意に胸にこみ上げてくる。
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◆ 夕方/帰り道、空の下で立ち止まる
支社から寮までの道。
何度も通ったはずなのに、今日の空はひときわ澄んで見えた。
田んぼの上をツバメが飛び交い、電柱の影が道に長く伸びている。
歩き慣れた風景なのに、ふと、こう思った。
「ああ、この道に“戻ってきた”って感じがする」
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◆ 夜/寮の部屋にて、静かに思う
・“帰る場所”は、実家だけじゃない
・毎日を積み重ねた場所には、“自分だけの風景”ができていく
・「おかえり」と言われなくても、「ただいま」と思えたら、それはもう居場所だ
香川県丸亀市。
知らない土地だったはずなのに、今では“知ってる風”の町になっている。
これからもっと知っていくだろう。
もっと笑って、もっと迷って、もっと“根”を張っていくのかもしれない。