夜に落ちて
時間になり、マンションの玄関前で料理YouTuberを見送る。
「片付け手伝います」
と申し出たら、
「せっかくだから、その後、ちょっと飲みましょう。明日は朝、早いんですか?」
と誘われる。
「大丈夫です。まあ、今日は、飲みたいんで」
オレの口から思わずぽろりと零れた。ワインと美味しい料理で気持ちがほぐれて心のガードがゆるゆる。尾美さんは「あははは。ありますよね。そーゆー日」と笑った。
一緒に片付けた。お皿の半分は既にシンクに置いてあった。オレはそれを軽く流して食洗機に並べる。尾美さんは、残った煮物やサラダやお浸しを保存容器に詰め替えて冷蔵庫に格納していく。オレは空いたお皿を受け取り、軽く流して食洗機にIN。
「尾美さんは、YouTubeの登録者数の目標ってあるんですか?」
「ありません」
「ウソ」
「ホントに」
オレは疑いの眼差しを向ける。調べたら、100万人以上のチャンネル登録者数を持っている人は少なかった。目標に向かって努力しなければ成し得ない領域に思える。
尾美さんは言う。
「私、社会にあんまり向いてないんですよ。芸術系の大学卒業して就職したんですけど、作業がすっごく遅くて。こだわり過ぎちゃうんですよね。1つのこと始めると他が見えないし。だから、今、好きなことできてるだけで十分なんです」
「根っからの芸術家なんですね」
「それしかできないって分野が、たまたま芸術って呼ばれる範囲にあっただけです、きっと。安藤さんこそ、生き馬の目を抜く業界なんですよね? 私には未知の世界です。もともとは日本の銀行マンだったんですか?」
「いえ。新卒で入社しました。留学してて、インターンとして出入りしてたんで」
「すごっ」
「ぜんぜんです。本当にぜんっぜんなんです」
上から求められる「これくらい」ってところまでの結果出すのにヒイヒイ言ってて。こうしたいってビジョンとか、もっと大きな視野で考えることとか、なんか、自分にはそーゆーのが足りない気がする。
「難しいお仕事なんでしょうね」
尾美さんは、オレと話しながら、シンクを洗い、キッチンを拭き上げていく。
「学生のとき、初めて職場に行った時は、めちゃくちゃカッコよく見えて、そこにいるだけでわくわくしたんですけどね」
「今はアラフォーの安藤さんにも、そんな初々しいころがあったんですね」
尾美さんはキッチン周りを拭きながら、ちらっとオレを見てにっこりする。
「あったんですよー。楽しかったんですよね。尾美さんは、今も仕事、楽しいですか?」
「はい。楽しいです」
尾美さんは爽やかに言い切った。潔い返事を聞いた瞬間、オレに足りない空っぽの部分が、尾美さんには満杯に詰まっている気がした。
「いーなー。オレ、いつから楽しくなくなったんだろ」
「激務だからですか?」
「まあ、今のホワイトな日本の働き方から見ればちょっとブラックですけど。昔は徹夜しても楽しかったんですよ」
「私の場合は、楽しいから徹夜になっちゃいます。寝るの忘れるんです」
「ええっ」
「安藤さんはストレスの多いお仕事なんですね、きっと」
「どの仕事でも、ストレスは、……ありますよ」
「安藤さん、ハグしていいですか?」
その言葉は唐突だった。尾美さんは、キッチンを拭き終わった布巾を洗いながらオレを見る。白い長い指が布巾を絞る。その動作を眺めながら、心臓がぎゅーっと捻られるみたいな感覚を味わっていた。これ、すっごく昔に味わった。いつだっけ。高校生のころ。劣等感に足掻く前の憧憬が、ぶわっと胸の中に広がった。体育館の横。ストレッチに揺れる髪。程よく筋肉がついた長い脚。汗と制汗剤の混じった匂い。ランニングの掛け声。
1m離れていた尾美さんが近づいてくる。探るように少し首を傾げて。
オレの頭の中では、どきんどきんという心臓の音が反響していて、縋りたいような、渇きを補いたいような、露骨な顔をしていたと思う。セーブが効かない視線は、目、唇、鎖骨、胸、腰、脚、腰、唇と彷徨う。距離が0になったとき、視線を尾美さんの唇に固定して、オレの方が尋ねた。
「いいですか?」
キスした。それからハグされた。再びキス。首筋に触れられた。許可を求めるようなその指が、綺麗で、尊くて、ぱくっと食べてちょっと笑った。2人でソファにもつれ込み、シャツを脱がされた。脚フェチのオレは、胸を攻めるより先にデニムを脱がせて膝の内側にキス。昔の彼女から「いきなり下半身だと大事に扱われてないみたいで嫌」とクレームがあったことを思い出して、はっとする。こんな余裕のないセックス、どれだけぶり。改めて唇にキス。
ソファの上では狭過ぎる。結局、カーペットの上。
ベッド以外が初めてで、事後に困った。いろいろと隠すものが欲しい。
尾美さんの方は、服で体を隠して、って、完全には隠しきれてなかったけど、シャワーに行こうとする。
「すぐ戻るから、絶対に帰らないで。……ください」
と、体が接近してしまったのに、実は会うのは2回目という距離に戸惑う丁寧語を加える。
そそくさと服を着るオレ。こーゆーとき、タバコ吸う男って間が持つんだろうな。オレは吸わないから、なんとなくスマホを弄る。あ。ホントにすぐ戻ってきた。もう服着てるし。当然か。
「シャワー浴びて泊まってく?」
そう聞かれて、もう敬語はいらないと判断。
「連絡先、聞いていい?」
「うん。私も聞きたかった」
登録しながら、本心を告げる。
「信じてもらえないかもだけど、オレこーゆーの初めてで。その、つきあってない感じなのにって。自分でもよく分かんなくて。ぶっちゃけ、尾美さんの外見はドストライク。この間も今日も楽しい。尾美さんがオレのことどう見てても、オレはまた会いたい。彼氏になりたい。ムリだったら友達でも」
自分で言いながら「おいおいぶっちゃけすぎだろ。もっと大人な感じじゃないと逃げられるぞ。しかも、友達ってこの場合セフレじゃん」と内心ツッコむ。
尾美さんは、ソファの下で体操座りをしたまま、にこっと笑った。よし! 次がある。
その日は帰った。早朝出勤が申し訳ないから。
早寝早起き腹八分目。これを守らないと、オレはいいパフォーマンスが出せない。
自分の部屋に帰って、めくるめく時間を反芻したら胸が焦げた。焦げ焦げ。熱くて苦しくて。
ひょっとすると、尾美さんは、常習犯の可能性があるし、彼氏だっているかもしれない。常習犯だったとしても、オレは会いたい。「彼氏がいる」と言われたらオレは絶対に引き下がるモラリストだから、確認しない。
自分が仕事を辞めるつもりって話はどうしようか。もし、オレの勤務先や年収に魅力を感じてるなら、言わない方がいい。