並行世界の旅行記者~ブロガーメイジは書く語る~
地響き、爆音、悲鳴ーー。
入り乱れる足音と指示の声、黒い霧雨が地面に降り注ぐ。
ーー静寂。
旅の途中で立ち寄った町で、穏やかでない話を耳にした。
聞けば、ここから十日ほど西に行った場所にある山麓の魔法施設が不慮の事故により暴走し大破、魔法陣による結界もその大部分が壊れて、それいらい幽世の瘴気が溢れ続けているのだという。
施設は魔術王として名高い建国者の名からフォーゼ研究所と呼ばれていた。月と黒猫の国旗はストレンジャーの私でも知っている。この世ならぬ力を悪用せんと目論む者が多数を占めていた当時の魔術師の世界にあって、建国の王は魔法で人の世に平和をもたらすべく尽力した稀有の英雄だった。彼らが「蝶の道」と呼び習わす地底の魔力の流れが集中する場所を正確に特定し、枯渇することのないエネルギー源としてそれを利用する技術を確立したのも、故フォーゼ王の功績だった。
歴代の国王の統治の下、蝶の道の魔力は才能と志に秀でた多くの魔術師たちによって制御下に置かれ続け、150年の長きに渡ってこの辺境の地にささやかな繁栄と富をもたらしてきた。
しかし一年前のある日、突如としてその流れが氾濫し、主要な研究所の一つが過負荷に耐え切れず破壊に至った。数百人の魔術師たちが死傷し、国王は彼らに一時の退避を命じる他なかった。
呪詛や召喚といったような邪悪な儀式のための魔法施設であったなら、被害はさらに大きくなっていただろう。
不幸中の幸いにして、気象の安定と豊穣を主目的として整えられたフォーゼ研究所は国家魔術師たちの安全を最優先に考えた幾重もの結界を備えていたため、魔界の疫病の蔓延や死霊の襲来などといった破滅的な事態は免れた。
当初は大きな動揺と混乱に包まれた国内も、王家を中心とする指導者たちの働きにより、次第に平静さを取り戻していった。
施設破壊の直後から決死の覚悟で情報の収集に当たっていた特務魔術師たちの報告により、事態の全体像が数か月の後にはほぼ明らかとなっていた。数千年に一度と伝えられる地殻変動が引き起こした今回の事態は、この世界と魔界の間に位置する「幽世」に通ずる穴を出現させた。既存のいかなる秘術を応用しても穴の封印には数十年を要し、その間、施設の周辺は人のみならず生けるもの全てに災いをもたらす、幽世の瘴気に包まれることとなったのである。
賢君として知られる当代の国王は選りすぐりの魔術師らを中心に据えた対策機関を設置した。彼らの指揮の下、国内外から馳せ参じた数百名の勇気ある者たちが、今この時も不断の任務に当たっている。強力な防御魔法に守られているとはいえ、瘴気による心身への損傷を完全に防ぐことはできず、五感の鈍化や老化の進行といった不可逆の悪影響も避けられない。
「まるで戦争だよ」
ひととおりの事情を説明し終えてから、酒場の主人である親爺は私に言った。
食堂と酒場を兼ねた小さな店内には、他に二、三の地元客らしき姿があった。
「あの山の中腹じゃ上等の岩塩が採れたんだ。うちの料理にも代々欠かせなかったんだがね、もう手に入らなくなっちまった」
注文した地鶏と野菜のソテーを私の目の前に置きながら、親爺は残念そうに言った。
「他所の塩じゃ地鶏の味も引き立たねえ。お客人には申し訳ない話さ」
「なに、美味い」
脂の程よく乗った肉を味わいながら私は率直な感想を述べた。
食の成熟は平和の指標だ。
親爺の言わんとすることは判る。だが山麓の現場での奮闘は人と人との戦いとは違い、干戈が交わる訳ではない。
斬り付けもすれば斬り付けられもするのが戦であって、それはやればやるほど双方に怨みが募っていく。
今回の事態はそうではない。任務に当たっているのは怨みに駆られた兵士ではない。任務の内容は精密さを要求されるし、戦略的な撤退も降伏もない。
人が相手でないだけ作戦は固定できるが、ある面では人を相手にするより厳しい。
意思を持たぬ瘴気が相手とあっては、心理的な駆引きや勢いでは押し込めない。
陣頭で指揮を執る立場の者にとって、これほどやりにくい戦いはないだろう。
そこでは部下個人の野心や意欲に期待することは、ほぼ不可能に近いのだから。
心身を着実に蝕んでいく瘴気の中心で、彼らは何を思うのか。
数世代に及んだ成熟と平和の時代に於いては、王家の権威に疑義を唱える声も少なからず聞こえていたという。政を司る者達の間では現に国を私するかのごとき不正が度々行われ、王国成立の頃の清冽にして楽観的な気分は、すでに多くの民の心から失われていた。
ある者は刹那の快楽を求めて奔走し、またある者は諦めに似た質素な暮らしの中で過ぎ行く日々を嫌悪していた。
王都の城下には各系統の秘技を追究し王国に寄与せんとする高位の魔術師達の尖塔が建ち並び、才にも財にも恵まれなかった者達は魔術の恩恵を享受しながらも理解の及ばない神秘の力に内心畏れを感じていた。石畳に長く伸びる尖塔の影は、時として悪魔の尻尾と揶揄された。
いかに市井の人々の間で不景気が論じられようと、人と人との斬り合いが肯定されない社会は、戦時下よりもずっといい。
だが繁栄の一側面である競争が絶えない世に於いて、人の喜びは常に他者に対する勝利と不可分の関係にあった。
それは平和な時代に於ける闘争の発露であり、語弊を恐れずに言えばそのイビツさが、それまでの社会平和というものの限界でもあった。
「お客人、麦酒をもう一杯どうかね」
料理を食べ終えた私の前に戻ってきた親爺が言った。
気付けば店内は私と親爺だけになっていた。
「いただこう。親爺さん、これは旨い飯と酒の礼だよ」
私はそう言って、荷袋から取り出した小振りな手帖を彼に示して見せた。
「なんだい? 手帖をくれるのかい」
「そう、表紙を開いてみてくれるかな」
親爺は少々怪訝そうに、黒革の表紙をめくった。白紙の一枚目が開かれる。
私は唇に指を当て、短く呪文を唱えた。
白い手帖のページの上に、今夜親爺から聞いた話と私の思案した内容が、共通語の平文で浮かび上がった。
「こりゃ面白い、旅の人、あんたも魔術師だったのかい。こんなすごい魔法の品を持ってるなんて、さぞ名のある御方だろうね」
はじめて愉しげな笑顔を見せた親爺の問いを、私は適当にはぐらかした。雷撃のシュザン、と呼ばれていたのは遠い遠い昔の話だ。平和の時代に争いのための魔術は不要。いまは各地の見聞録を書いて回るだけの風来坊として日々を過ごしている。
「親爺さんが最初に開いたから、その手帖は親爺さんの物だ。手を翳せば消すも写すも思いのまま、弱い魔力で操れるよ」
親爺は笑って白髪頭を掻いた。いつまでも冷えたままの麦酒は、魔術の王国で店を構える彼のささやかな才能を示していた。
「私が書いた見聞録も、その手帖に表れるようにしておくよ。旅の気分を楽しんでくれるといいが」
「もちろん楽しみにさせてもらうとも。こんな商売じゃあ町を離れることもないからなあ」
私はグラスを傾け、空いた方の左手を手帖に翳して、今夜の手記の末文を記した。
"祖国での未曾有の事態に思いを巡らす時、誰しも慄然とした気分を覚えるであろう。
だが一方で、懸命に事態の解決に向けて働き続ける人々の姿は、その誰一人をとって見ても、また全体を見ればなおのこと、これまで社会が抱えていたイビツな平和の限界の先に、模範とすべきどんな生き方があるのかを、我々に示してくれているような気がしてならない"
(了)