傷
――8月1日。
蒸し暑い夏のあるの日、ファミレスのバイトからの帰り道。
時刻は深夜十二時を回っていて、辺りはとても静かだった。
前方の街灯の電気は切れかけていて、電灯がパチパチと点滅していた。光にいくつもの蛾がたかっている。
その電灯の下に、男が一人立っていた。逆光な上、フードを目深にかぶっているので顔は分からなかったが、半袖でも蒸し暑いと感じる夜だというのに、男は厚手のパーカーのようなものを着ていた。
「不気味だな……」
見るからに不審者だった。
一瞬引き返して別の道を行こうかとも思ったが、疲れているので面倒くさい。俺は男の立つ反対側の道の隅を、早足で通り過ぎようとした。
すれ違う時、男が何事かをぶつぶつと呟いているのに気がついた。
「うるさい黙れうるさい黙れうるさい黙れうるさい黙れ……」
男の他に誰もいないし、携帯電話で人と話している風でもない。
何だこいつ、気味が悪い……。
俺は心の中で呟き、早々に立ち去ろうとした。
しかし、何を思ったのか、突然男が奇声を上げながら俺に襲いかかって来た。
「うわっ!」
闇夜にキラリと何かが光った。ナイフだ。こいつは、刃物を持っている!
俺はとっさに左手を前に突き出し、顔をかばった。
左腕に焼けるような痛みが走る。
斬られた――!
左腕から血が噴き出した。
男は訳の分からない叫び声を上げながら、でたらめにナイフを振り回し続けた。そのたびに俺の皮膚が裂け、血が舞った。
まるでスローモーションをかけたかのように、世界がゆっくりに見えた。
静止した時間の中で、男と目が合う。
俺に斬りかかってきた男は、ひどくやつれた顔をしていた。まるで何かに恐怖するように、まるで化け物にでも遭遇してしまったかのように、怯えきった表情をしている。
俺は肩にかけていた鞄を振り回し、相手をけん制した。
男はたじろぎ、奇声を上げながら闇夜に溶けるように逃げて行った。
一人その場に取り残された俺は、ペタリと地面に尻餅をついてしまった。
とりあえず、助かった……。
斬られた左腕を押さえながら、呆けたようにアスファルトの上に座り込む。
「一体、なんだったんだ……」
押さえる指の間からとめどなく血が溢れ出し、傷口は熱を帯びたように痛んだ。
――8月2日。
俺は警察に事件を通報し、病院で手当てを受けた。
医者に包帯を巻いてもらいながら、制服姿の警官に事情聴取を受ける。
「また、奴の仕業か……」
警官はすりすりと顎をさすりながら、ぽつりとひとりごちた。
聞くところによると、どうやら俺の他にも被害者がいるらしい。
あのフードの男は、他にも事件を起こしていたのか……。そういえば、以前そんなニュースを見た気がする。通り魔事件がどうとかこうとか。
他の被害者は顔を斬りつけられたり、意識不明の重体に陥ったりと大変な被害を受けたと警官は語った。
「あなたはまだ運がいい方ですよ」
そう警官に慰められたが、通り魔に斬りかかられた時点で運がいいも悪いもない。
――8月6日。
二、三日は家で大人しくしていたが、痛みが引いてからは、腕に包帯を巻いたままバイト生活に戻った。
幸い両手とも指は動くし、普通に生活する分には影響は少なかった。ファミレスのホールの仕事はそんなに腕力を必要としないので差しさわりもないし。
女の子みたいで恥ずかしかったが、夜道を一人で歩くのは少し怖かったので、シフトを早朝や昼間に変更してもらった。
時折、傷口が熱をもったようにじゅくじゅくと痛んだ。
まるで包帯の下で肉が躍動しているような、おかしな感覚を覚えた。
――8月8日。
傷口に菌が入り込んだのか、傷は一向に塞がらなかった。何度も病院に通院し手当てを受けているのに治らない。
バイトを終えて帰宅した俺は、一人で包帯を取り換えた。
そこだけ皮膚が日焼けしておらず、不健康に白い肌をしていた。同じところを何度もジグザグに斬りつけられたので、皮膚の表面はひどくデコボコとしていた。化膿しているのか、肉が盛り上がっていて不気味だ。腫れ物の塊のようになっている。
生々しい傷痕を見るのはあまり気持ちのいいものではなかったが、傷の様子を鏡で観察していて、ふと、俺はある事に気がついた。
「……顔?」
傷痕が、なんだか人の顔のように見えるのだ。妖怪の餓鬼のような……あるいは、両目が厚い肉で埋もれた、醜い老人の顔に。
こういうのを、人面瘡というのだろうか?
気味が悪い。
俺はきつめに包帯を巻いた。
――8月11日。
俺はその日もファミレスで働いていた。
家族連れの注文を取る。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「いいわけねーだろ、ハゲ」
「は?」
思いがけない客の返答に、俺は思わず間の抜けた顔をして聞き返した。
「……ん、何か?」
メニューを閉じた父親は、不思議そうに俺の顔を見上げていた。どうやら彼がしゃべったわけではないらしい。
他の席の人の会話が聞こえてきたのか、あるいはただの空耳か。俺は席を離れ、キッチンにオーダーを通した。
一人になって首をひねる。
「何だったんだ、さっきのは……?」
「俺だよ、俺」
また、先程の声がした。
辺りを見回すが誰もいない。
「ここだよ、ここ。この間抜け」
声は、俺の左腕から聞こえてきた。
俺は控え室に飛び込み、袖をめくって急いで包帯を取り払った。
「……よお、兄弟」
人面瘡がしゃべりかけてきた。
皮膚の表面が歪み、そいつは嬉しそうに、にやりと笑った。
――8月14日。
きっと疲れているんだ、幻覚や幻聴だと思って無視していたが、その後もずっと、人面瘡はしゃべり続けていた。
「ムカつく客だな。追い返せよ」
「無能なくせに口のうるさいクソ上司め。構わん、蹴り飛ばせ」
「かわいい子がいるじゃねーか。ほらほら、押し倒しちまえよ」
その他さまざまな暴言や、卑猥な言葉を吐き続けた。
俺はバイトを早退し、医者に駆け込んだ。
「……人面瘡、ですか?」
包帯を取って傷口を見せるが、医者は不審な表情をして、俺の顔を見詰め返すばかりだった。
「ほら、どう見ても人の顔をしているじゃないですか!」
「はあ……?」
「それにこいつ、しゃべるんですよ!?」
バイト中はあれだけ多弁におしゃべりをしていたというのに、人面瘡はうんともすんとも言わなかった。「おい、何とか言えよ!」と叫んで必死に傷口を叩くのだが、沈黙を守っている。
医者は憐みの目で俺を見た。
「通り魔に襲われた恐怖や不安、ストレスからくる幻聴でしょう」
まるで相手にしてくれなかった。「何なら精神科の先生を紹介しましょうか?」と言われ、俺は病院を後にした。
――8月19日。
警察から連絡がきた。犯人が捕まったので、本当に俺を襲った人間かどうか確認してほしいという。
俺はマジックミラー越しに犯人と対峙した。
窓のない取り調べ室のようなところを想像していたのだが、意外なことに、犯人は病室のような白い部屋のベッドに横たわっていた。
目は落ちくぼみ、ひどくやつれた顔をしている。
あの時は一瞬しか見えなかったが、間違いない。奴だ。
「本当なんだよ! 人面瘡がしゃべって、俺を洗脳しようとするんだ!」
犯人はベッドの上で怒鳴り、暴れていた。
人面瘡……。
その単語に、俺の心臓はドキリと跳ね上がった。
「さっきからあの調子なんですよ」
「あ、あれは、どういう……?」
俺を連れてきた刑事さんが、ため息をつきながら説明してくれた。
「あいつ自身、以前に通り魔に斬りつけられたことがあって、その傷痕が人面瘡になって犯罪をけしかけてきたと言ってるんですよ。まあ大方、クスリか何かをやっているんでしょう」
「離せ、畜生ーっ!」
犯人はベッドの上で暴れまわり、側にいた屈強な男たちが、それを押さえつけようとしていた。
その時、犯人の体に掛けられていたシーツがめくれ上がった。
俺の目は、犯人の左腕に釘付けになった。
どういうわけか、犯人の左腕は、肘から先の部分がなくなっていた。
俺は震える口調で刑事さんに説明を求めた。
「あ、あの腕は……?」
俺が襲われた時は、犯人は五体満足だったはずだ。
「自分で切り落としたそうです。人面瘡から逃れたくて」
いつの間にか、俺の口の中はカラカラに乾いていた。
そんな馬鹿な。
俺は服の上から左腕を押さえつけた。
……人面瘡が、感染したとでもいうのか?
「よう、斬られっぱなしでいいのかよ? 今から部屋の中に殴り込んで、あいつを殺しに行こうぜ」
俺の人面瘡が語りかけてきた。その声は俺にしか聞こえていないのか、隣に立つ刑事さんは気付かない。
――8月22日。
医者に行くわけにはいかないし、ましてや警察に知られてはならない。きっと犯罪予備軍か、精神異常者と思われてしまう。
日に日に人面瘡のしゃべる語彙と時間が増え、話す内容も暴力的なものになっていった。
「恋人もいないとは情けねぇ。その辺の女を捕まえてヤっちまえ」
「気に入らないなら刺しちまえばいいんだよ」
「みんな、お前なんかいない方がいいと思ってるぞ」
「どいつもこいつも、お前の命を狙っているぞ」
「殺られる前に殺れ。それが鉄則だ」
四六時中この調子だ。気が変になる。
――8月26日。
俺はバイトを辞め、家に引き籠もるようになっていた。
それでも人面瘡のおしゃべりは止まらない。
四六時中、二十四時間「あらゆる人間がお前のことを嫌っている、お前を殺そうとしているぞ」と脅し、「自己防衛だ、周りの奴らを皆殺しにしろ」と囁いてくる。
耳を塞いでも聞こえてくる。
どこまでも声がついて回る。
逃れられない。
「うわああああああああああああああ!」
俺は激情にかられ、自分の腕にナイフを突き立てた。人面瘡めがけて何度も何度もナイフを突き刺し、切り刻む。
ナイフが刺さるたびに激痛が走り、鮮血が舞った。
気付いた時には、畳は真っ赤に染まっていた。
ハァハァと肩で息をする。
これで、死んだか……?
俺は恐る恐る、左腕を持ち上げた。
「よお、兄弟」
「よお、兄弟」
「よお、兄弟」
傷口が広がり、人面瘡が三つに分裂していた。
――8月31日。
蒸し暑い夏の終わり。
時刻は深夜十二時を回っていて、辺りはとても静かだった。
俺はこの蒸し暑い中、厚手のパーカーに身を包み、目深にフードをかぶっていた。
街灯の電気が切れかけていて、電灯がパチパチと点滅していた。光にいくつもの蛾がたかっている。
道の向こうから、コツコツと足音が近付いてきた。
人面瘡がしゃべった。
「また来たぞ、敵が来たぞ」
「このままだと殺されちまうぜ?」
「殺せ殺せ殺せ」
一斉に喚き立てる。頭の中に、三つの声がガンガンと響いた。
「うるさい黙れうるさい黙れうるさい黙れうるさい黙れ……」
いつの間にか、俺の左手には一振りのナイフが握られていた。
コツコツコツと、暗闇から足音が近付いてくる。




