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7.萩原 雄大の再来

「一旦休憩ー」

私たちはいつものスタジオでバンド練習をしていた。

「絃葉、どうだって?」

「うーんなかなか難しいみたい。どこも予約埋まってて」

「そうだよねー」

私たちは箱の取り押さえに難航していた。私たちが目指す武道館ライブ本来は1年や2年前から抑えて準備するものだ。しかし私たちにそんな時間は無い。

「今んとこ9月が限界かな」

「OK、ありがとう。ちょっとトイレ行ってくる」

「はーい」

「いってらー」

防音室の重い扉を閉じる。ほっと息を吐く、こうしてバンドメンバー達と演奏出来るのもあと少しだと思うと、胸の奥が苦しくなる。みんなに気を遣わせないように元気なふりをしているが、きっと私の不安はみんなに伝わっている。重い足取りで冷たい廊下を歩く。照明の陰が静かに伸びる中で、心の奥底に染み込んでくる冷たさが、どこまでも続いているように思えた。私のこの足も、手も、私の体はあと数ヶ月後には動かなくなってしまう——そんな現実が頭の中を渦巻き、まるで出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。


「ガチャッ——」


突然、腕を強く掴まれた。その力に足がすくみ、振り返る間もなく壁に押し付けられる。鋭く響いた「ドンッ!」という衝撃音が、私の耳元で反響する。冷たい壁が背中にじわりと伝わり、その感触が痛みに変わる。驚きと痛みに息を飲み、見上げた視線の先に、掴んだ手の主が冷たい眼差しで私を見下ろしていた。

「久しぶり」

そう微笑んで見せたのは私の元カレの萩原 雄大だった。彼の口元には微かな笑みが浮かんでいるが、その視線は冷たく鋭い。久しぶりの再会に懐かしさを感じるどころか、胸に嫌な感覚が広がるばかりだった。


「何、離して」


そう言って睨みつけると、彼は少しも動じることなく私を見据えている。かつての彼とは違う、どこかしら支配的な雰囲気が滲み出ていて、かつては気づかなかった彼の歪な愛情が、その姿勢に反映されている気がした。

「離して?それは無理かな」

と静かに言い放ち、さらに腕を掴む力を強める。

「君が逃げようとしても、もう遅い。君の夢を叶えたくないわけじゃない……でも、君が僕の元に戻るならもっと良いものを用意してあげられる」

「は?」

私は彼を見返しながら眉をひそめる。彼が言いたいことは薄々理解できた。だけど、その代償として私を縛ろうとしているのが分かる。怒りと悲しみが私の胸を支配する。

「武道館ライブのことだよ」

彼は続けた。

「僕のコネも金も使って、君を支えることができる。君の夢を叶えるために、何も惜しむつもりはない。ただ……」


言葉を区切り、彼は私をじっと見つめた。その眼差しに込められた執着が、ひどく重く、息苦しい。


「僕と、もう一度やり直すなら…君のすべてを支えてあげる」


その言葉を聞いた瞬間、心がざわついた。武道館への道が彼の力で切り開かれるというのは魅力的だ。けれど、彼の「支え」というのは、私を再び彼のものにしたいという歪んだ愛情から来るものであり、自由を奪おうとする枷でしかないのだ。

「ふざけないで」

私は冷たい声で言い返す。

「そんな条件で、私が戻るとでも思ってるの?」

彼は一瞬、表情を歪ませたが、すぐに冷静を取り戻して微笑む。

「君には時間がないんだろう?」

彼は柔らかく囁いた。

「その時間を、僕が最大限に幸せにしてやるって言ってるんだ。何が不満なんだ?」


その言葉に胸が痛む。確かに私はもう、時間がない。それが彼の知っていることもわかっている。けれども、この支配的な愛に縛られることで、最後の時間を自分らしく生きられなくなるのは、私には耐えがたい。

「私の人生は、私のものよ」

唇を噛みしめてそう告げると、彼は微笑んでいた表情をわずかに崩す。しかし、手は一向に離されない。

「そんなに強がる必要はない」

彼はまた、静かな声で囁いた。

「君には僕しかいない。今さら他の道を選べるほど、君には時間がないはずだ」

彼の手を振り払おうと力を込めるが、びくともしない。それどころか、彼の手のひらが私の腕を痛みでじわじわと痺れさせていく。

「君には僕しかいない」――彼の言葉が心に刺さる。だけど、それは決して慰めや支えにはならない。ただの鎖にしか聞こえない。

「……私は、誰かに縛られて生きたくないの」

と私は冷たく呟く。目を見開いた彼の顔が、かすかに揺れた。彼の中にある私への想いが本物であろうと、今の彼が見ているのは、過去の私だ。もう戻ることのない時間を、彼だけが捕らえている。


「雄大、お願いだから……放してよ。私は……自由に音楽がやりたいの。あなただけのための歌なんて、もう歌えない」


その言葉を言った途端、彼の目に冷たい光が走る。手の力がさらに強くなる。痛みが鋭く腕を駆け抜け、私は思わず顔をしかめたが、彼の表情にはどこか満足げな歪みが浮かんでいた。

「自由、ね……」

彼は低く笑う。

「僕に逆らって、何ができる?君にはその夢を叶えるための力なんてない。結局、僕に頼るしかないんだ」

「違う、頼らないわ。たとえ、どんなに難しくても、自分でこの夢を叶える」

痛みに震えながらも、私は毅然と彼を見返した。彼がどんなに力で押さえつけようとしても、私の決意は揺らがない。


その時、廊下の向こうから足音が響いた。誰かが近づいてくる。私の緊張が高まると同時に、彼が一瞬だけ視線を逸らした隙に、私はなんとかその手を振り払った。


「……もう近づかないで」


震える声でそう告げると、彼は微笑んだまま、距離を置いて後ろへ下がった。しかし、その目は冷たく鋭く、まるで獲物を狙うかのように私をじっと見つめている。


「君がどうしてもそうしたいって言うなら、好きにしろ。ただ…武道館のライブなんて、一筋縄ではいかないことを、忘れないでほしいな」


その言葉を最後に、彼は背を向けて去っていった。彼の姿が見えなくなっても、恐怖と緊張で心臓が高鳴り、しばらくその場を動けなかった。


彼の足音が遠ざかるのを聞きながら、私はその場にへたり込んだ。鼓動が痛いほど高鳴り、冷たい廊下のタイルの感触が背中に伝わる。胸の奥で重く響く緊張感は、まるで嵐の前触れのように張り詰めていた。


「大丈夫…」自分に言い聞かせるように小さく呟いたが、言葉だけでは震えが収まらない。


私は立ち上がり、急いでスタジオに向かう。みんなの顔が見たかった。彼の圧力に負けないためには、皆が必要だった。彼らとともに夢を追いかけることで、この恐怖や孤独から少しでも解き放たれる気がする。


スタジオに戻ると、奏斗がギターのチューニングをしていた。彼の姿を見ただけで、心の奥に少しだけ安堵が広がる。奏斗は私の動揺にすぐに気づき、ギターを置いてこちらに近づいてきた。


「美緒、顔色が悪いけど……何かあったのか?」

その声に、私は言葉を詰まらせたが、無理にでも微笑みを浮かべる。

「ちょっとね……でも大丈夫。今は練習に集中しないと」

奏斗は私の強がりを見透かすように一瞬眉をひそめたが、深く追及はしなかった。代わりに、そっと私の肩に手を置き、穏やかな声で言った。

「何かあったら、話せよ。俺たちは仲間だから」

その言葉が心に染み渡り、自然と頬が熱くなるのを感じた。ここにいるみんなと一緒なら、どんな困難も乗り越えられるはず。彼の脅しに負けてはいけない。自分の力で、仲間とともに夢を叶える――その決意が再び胸の奥で強くなった。私はスタジオの片隅で深呼吸をして、奏斗の言葉に支えられながらも、少しずつ気持ちを落ち着けていく。だが心の奥にはまだ、雄大の冷たい視線が焼き付いていた。あの歪んだ愛情と支配欲に再び引き込まれないためには、強くならなければならないと自分に言い聞かせた。


練習が再開すると、他のメンバーもそれぞれの楽器に向かい音が一つ、また一つと重なり合っていく。その音の中に身を置くと、何もかも忘れてただ夢中になれる。音楽に没頭することで、萩原 雄大への不安も、病への恐れも、今だけはかき消せるような気がした。


曲が始まると、私はマイクを握り、心の奥底から歌い始めた。声を出すたびに胸の重荷が少しずつ軽くなっていくようで、歌詞に込めた感情が私自身を包み込み、支えてくれる。仲間たちの音もいつも以上に力強く、私を引き立ててくれている気がした。


練習が終わると、絃葉が私に静かに近づき、心配そうに声をかけた。

「美緒、何かあったんじゃない?無理はしないで、話してくれていいんだよ」

その優しい声に、私は少しの間黙り込んでしまう。絃葉の温かい視線が、まるで母のように私の心を見透かしているようで、思わず目を伏せた。

「……雄大が、また現れた。支援する代わりに、私に戻ってきてほしいって」

絃葉は驚いた表情を浮かべ、少し眉をひそめた。

「そんな条件……あの人がどれだけあなたにとって辛い存在だったか、分かってないのね」

私は頷きながら、彼女の言葉に深く共感した。雄大の申し出は甘く見えるかもしれないが、それは私の自由や選択を奪うものでしかない。私は再び力を振り絞り、決心を固めるように言葉を絞り出した。

「絶対に戻らない……私はここで、みんなと武道館を目指したい。雄大の力なんか借りずに、自分たちの力で夢を叶えるの」

絃葉は私の決意を受け入れ、深く頷きながらそっと微笑んだ。そして、私の肩にそっと手を置いてくれた。その手の温もりが心の奥深くに響き、私は彼女の存在に支えられていることを改めて感じた。

「私たち、美緒のために全力を尽くすから。だから、絶対に諦めないで」

その言葉に、私は静かに微笑み返した。彼の圧力に屈することなく、仲間とともに歩む道を選ぶと心に誓い、再び強い決意が胸の中で燃え上がるのを感じた。


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