五
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話を聞いてしまうと、私は心配でならず、
「では、その篠原という人は、この家のなかにいるんですね」
幸はいかにも気を揉んだ様子で答えた。
「ええ。しんとして物音も聞こえませんが、どうなさったのでございましょうね」
そのとき不意に、屋敷の三階にある一室から、凄まじい音が響いた。ガラス窓を打ち砕いて、雷のような声を発して、
「毛唐め、なんだって俺を閉じこめた。戸を開けろ、おい、ぶち壊すぞ」
と叫ぶのが聞こえる。おそらくハレスたちは、篠原を監禁して、その部屋から出られないようにしたのであろう。
思ったとおり、いま破壊したガラス窓から篠原は、怒りで真っ赤に染めた顔を突き出した。彼は血相を変えて、キッと四方を見回している。危険を顧みず、いまにも飛び降りようとしているのを見て、私は「ああっ」と声をかけた。
「悪いが、ちょっと待った。いまどうにかする。慌てちゃいけない」
苛立ちまくっている勘六の耳には、私の声は届かなかったようだ。不意に窓から半身を乗り出すと、仕込み杖を脇にはさんで、両脚を揃えたと思うと、六メートル近くはあるだろう三階の窓から、流星のように飛び降りた。門内にどさりと地響きがして、あっと叫ぶ声! 彼はどこかを負傷したらしい。私は思わず力の限り門扉を打ち叩いて、
「開けろ開けろ」
そのときどかどかと足音がして、多人数が家のなかから出て来たようだった。篠原は血を吐くような声を絞り出して、
「こいつら、うむ」
門内がにわかに騒がしくなり、しばらくして英語でぺちゃくちゃとしゃべっているのが聞こえたが、ハレスなのだろう。
「なに、恐れることはない。こいつは三階から飛び降りて脛をくじいたそうだ。ざまあみろ。それそれ、腰も立たないようじゃないか。命知らずの大馬鹿者め。アハハハハハハ」
と高笑いする。続いて篠原が苦悶の声を発したのは、寄ってたかっていたぶっているのだろう。幸は私の袖を千切れんばかりに引っぱって、
「あなた、どうにかしてあげてくださいまし。ああ、また、ああっ、ああ、皆で酷い目に遭わせてるようです。わたくしはどうしたらいいんでしょう」
と、狂ったように私に応援しろと促すのだが、鴻門は堅く閉ざされ、たとえ門前で樊噲が手ぐすね引いていようとも、どうすることもできないありさまである。扉が壊れるほどに叩きながら、
「こら! 兄弟をどうするつもりだ。開けないか、開けないか」
と呼びかけることしかできない。よい考えも思い浮かばない。少し経つと、門の片扉が内側から開いた。今だ、と突進した私にぶつけるように、馬丁と料理人が血まみれの篠原の両腕を抱えて突き出すと、すぐさまぴしゃりと門を閉じる。
「野蛮人め。ハレス様をなんだと思ってやがる」
と、口を揃えてあざ笑った。
篠原は刀を杖にして、血眼をカッと見開き、すがりつく幸を見るとひどく苦しげにうめき声を上げた。
「姉さん、頼まれごとは果たせなかった。勘弁してくれ、無、無念だ」
と言い終わらないうちに、手にした仕込み杖の鞘を払って持ち直し、間髪入れずに腹に突き立てた。
驚く幸を押しのけて、私は篠原の腕を押さえたが、すでに一文字に腹を引き裂いた彼の形相は鬼神のようで、身を固めたままの姿勢ですでに死亡していた。
茫然とした私は一分間ほど、自分の体を石にした状態でいたのだが、そのうちに幸が駈けだすのに気づくと、追いすがって袖をつかまえて、
「おい、あなたはどうなさるつもりだ」
幸は涙を流しながら、
「たとえハンカチが戻ったとしても、もう生きてはいられません。見ず知らずの篠原様が私のために……」
と言うのを聞いた私は、彼女が死ぬのはやむを得ないことにほかならず、どう考えても自殺を留める理由はないと悟った。私は自分でも妙に思える声を出して、
「近藤さんからことづかって、あなたの書き置きは私が持っています」
と言った。
それを聞くなり、彼女は青白い顔をサッと赤らめた。
「えっ、あれをお読みになったの」
「いいえ、人の手紙はみだりに読みません。このままお父さんに届けてあげます」
幸はようやく安心したようで、
「私が死んでしまうまで、決して見てはくださいますな」
私は誓うかのように、
「わかった」
そう言い交わしながら、互いに顔を見合わせた。
眼と眼を合わせたとたん、彼女は顔をそむけた。私は口を閉じたまま、何も言えなかった。
時間は彼女を死に急きたてる。幸はたちまち見えなくなった。天を仰ぎ見れば月は暗く、うつむいて地を見れば鬼気迫る気配が陰々と吹きつけるかのようだ。後日、読者がもしも私の死を耳にされたならば、その時はすぐさまハレスの生死を確かめてほしい。同月同日同所において、あの毛唐も同時に死んでいるはずである。
(了)