四
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女教師は声を潤ませて、
「けれども、思いがけなくあなたにお目にかかれたのは幸いです。この書き置きのなかには、豊島さん、あなたのことが書いてありますよ。お手を煩わせますがお幸さんのお父さんに届けてあげてください。これはどうかお幸さんのためだと思って、頼まれてくださいまし」
こうして定子は、終始黙ったままで腕を組んでいた私の肘の上に、一通の書状を載せた。私は受け取りもせず、目をつぶったまま、なおも黙っていた。何をどう言えばいいのか、わからなかった。
やがて静かに足を進めた定子が、ふたたび水に入ろうとする気配を感じた。わたしはどうすることもできず、そういう理由であれば、この女教師は死んでもよいと思った。こんな事情を聞いたうえで、なおも彼女の死を留めようとするような心の広い人物が、私の代わりにここに配されなかったのは、もしかすると神様が彼女に死罪を命じて、これ以上生きてはならないと欲したからではないか。ある側面からみれば、彼女はとても不幸である。しかし、妨害を受けずに潔く死を遂げるのは、死を覚悟した者が最も望むことではないか。
バシャーン! と帛を引き裂くような音とともに、水面を破って女は没した。私が目を開いたのは、彼女の真っ白な手が水上から消えようとしていたときだった。
水しぶきが飛び散って、女の影はすぐに消えた。はるか下流には、暈のかかった月が浮かんでいた。
私はすぐには離れがたく、物思いにふけりながらその場を歩きまわったのちに去った。
「ちょっと豊島さん」
こう呼ばれて気づけば、いま私は壮麗な西洋館の前を通り過ぎようとしたところだった。このときになるまで、どこをどう歩いてここに来たのか、自分でもわからなかった。私を呼んだのは誰だったのか。幸である。私は自分の見ているものが幻影ではないかと疑った。すでに死んでいると思っていた彼女から、突然呼び止められた私の驚きといったら、どれほどのものであったか。けれども彼女が語るのを聞いた私は、すべてを了解した。
幸は先ほど、刑務所のそばで定子から逃げてふたたび百間堀に引き返した。その時は後をつけてくる邪魔者もいなかったので、すぐさま水辺までやってきたのである。そのとき、私が定子にしたのと同じように彼女を抱き留めた、一人のたくましい、血気盛んな若者がいた。彼は篠原勘六と名乗る猛者であったが、××町の道場で剣術の稽古をした帰り道、偶然にもここで幸の姿を目に留めて、死を思い留めさせたのだった。
どうしても知りたいという篠原の問いかけに応じて、幸が事情を説明したところ、勘六は拳を握りしめて外国人の赤髯野郎の無法な行為に憤慨し、手にした仕込み杖を撫でながら誓った。
「よし、そのハンカチは俺がきっと取り返してやる。なに、心配するには及ばん」
と、心をつくして幸の自殺を押しとどめ、ようやく彼女を納得させたが、それでも心配だと、親切にも幸を家まで送り届けた。ところがその帰り道で彼がハレス邸の門前を通ったとき、たまたま夜会から帰宅したハレス夫妻に出くわしたのである。
相手を見るなり勘六は自制を失い、すぐさまハレスに立ち向かって、大声で二言三言の叱声を投げかけ、相手を罵った。ハレスは杖で篠原を払いのけて、すぐさま門内に入ったので、勘六も続けて内に入ったところ、続けて馬丁ふうのたくましい男が出てきて、バタリと門扉を閉ざしてしまった。
こう語った幸も、その後に何が起こったのかを知るよしもない。彼女は篠原がどうなったのかを知るために、独り門前にたたずんでいたが、私が通り合わせたのを見て、呼び止めたのである。