一
【登場人物】
豊島亮助 主人公。物語の語り手
吉倉幸 十九歳。父と二人暮しの娘。豊島の意中の人
近藤定子 ハレス邸に寄食する女子英学院の女教師
ハレス キリスト教宣教師
篠原勘六 幸の入水を引き留めた熱血漢
一
石川県金沢市の南東の方角にあって、その風光明媚なさまを全国に誇る、楽園ともいうべき一地区がある。人力・蒼古・幽静・閑雅・山水・眺望の六勝を兼ねるという意味で兼六園と名づけられたそれは、元藩主である前田家の庭であったが、今は市民が散策できる公園として開放されている。
明治二十七年四月十四日。
午後十一時に家を出た私は、桜咲く季節の、月明かりの兼六園内に足を踏み入れた。風流を楽しむためではない。眠れない夜のしばしの時を、ただここで無為にやりすごそうと思っただけである。私はなにをするでもなくベンチで憩いながら時を送った。四方はものさびしく、天地は静まりかえって人影もなく、月明かりと桜の花が見せるこの眺望、清らかな光に照らされた美の世界は、私一人の手のひらのなかにあった。
かなり長いあいだ、そうしているうちに、このあまりにも清らかで汚れなき、神域のような空間は月や桜そのもののためにあるものであって、私のような俗世に塗れた肉体がここにいるべきではないと悟った。さて家に帰ろうと立ち上がったとき、すぐそばにあった茶屋の薄暗がりにうずくまっていた黒い人影が、同時に起きあがるのを見た。
怪しいことに、その黒影は女であった。
片袖を胸にあて、もう一方でなかば顔を隠し、やや頭を垂れて、まだ若いのに、緩く結んだ黒髪にはまったく飾り気がなく、素足に吾妻下駄を履いて、私の行く先を歩きながら、脇目もふらずに、なよやかな腰つきの歩みを一直線に進めている。すぼめた肩を、身を屈ませるほどにがっくりと落とした彼女の、月光を浴びた後ろ姿は、あたかも幽霊が迷い出たかのようだった。なおかつ機械的に足を進める様子は、自分自身でもどこに行こうとするのかがわかっていないようで、まるで何者かが空中にあって、不思議な糸であやつりながら彼女を導いているかのように思われた。
いちめんの桜吹雪のなかを、彼女は突き進んでいく。ちょうどそのとき、一陣の風が吹いて、花びらは狂い乱れながら彼女の袂に降りそそいだのだった。
散る花に心を奪われながらも、私はすぐに彼女の身の上が危ういことに思い至った。ここからさらに前方に行けば、長く深く水をたたえているがゆえに百間堀と呼ばれている不吉な堀があるのだった。
百間堀といえば、人はすぐさま身投げを思い浮かべる。なぜなら、百間堀は古い時代の金沢城の周りを囲んでいた堀なのだが、昔から数多くの入水自殺があったという以外には、目立った歴史もないからである。
夜中に彼女のような姿や振る舞いをしていれば、自殺志願者だと思うほかない。私はすぐに「あなたは身を投げるのではありませんか」と問いかけようとした。でもそんな言い方だと、ふざけていると受け取られかねない。周囲に人がいないなかで、初対面の女性に冗談っぽく接するのは褒められたものではない。あるいは「ちょっとお姉さん、お気をつけなさいよ」などと言うのも、余計なお世話である。老婆のような親切心を、私のような若い男が示すのもそぐわない気がする。
とはいえ、彼女は私が帰宅する方向へ進んでいるのだから、私は歩みを緩めながら、彼女の後をつけていくことになった。歩きながらも私は、彼女は美人であると思った。しっかり顔を見たわけではないが、その歩く姿からして下卑た女ではないことがわかった。
私も無言。彼女も無言。夜はいよいよ静まりかえり、森羅万象は眠りにつく。ただ互いの足音だけが響きわたっている。絶えず歩みを進めて公園を出れば、百間堀は間近に迫っている。
堀の向こう側には高い石垣とひと続きの囲いがあって、ありし日の金沢城の名残をとどめている。月下に櫓が高くそびえるあたりは昔の二の丸の跡で、今は名古屋陸軍団に属する兵舎である。
ここに来るまで女は一度も振り返らなかった。けれども高く響く足音を聞いて、彼女は自分の後を歩く者がいることに気づいているはずだ。死のうとしている以上、そばに人がいることは避けたいだろう。いかなる場合であれ、死の淵に立つ人を、手をこまねいて傍観する人はいない。滞りなく身投げをするためには、まず私を避けてから自殺を決行するはずである。
だからであろう。女は堀の外柵に添って歩きながら、おかしなそぶりは見せずに、あたかも用事があって通行する者のようにごまかしながら、わざと堀の岸を離れて、紺屋坂という坂を下ろうとしていた。
そのとき、雷のような声が響いた。
「誰だ!」
と大声があびせられたのである。
女はたいへん驚いた様子で、転がるように坂を下りていったかと思うと、たちまち曲がり角の先に見えなくなった。突然のことにびっくりした私は、思わず立ち止まった。
その声は再び、
「誰だ!」
と叱責した。
これは兵舎の番兵が、深夜の通行人を詰問する声であった。そんなときはその声に応えて、自分の名前を告げれば問題ないことを知っていたから、私はすぐに答えた。
「……町……番地に住む豊島亮助です」
思ったとおり、それ以上に問われることはなかった。進行方向に目を遣ると、すでに誰の姿もなかった。女はどこかに行ってしまった。坂の向こうの町で、しきりに犬の鳴く声が聞こえた。