第24話 あなたなんて、嫌いです。旦那様
なぜ、今更そんなことをおっしゃるのでしょう。
セドリック様がおっしゃった通りです。もっと早く、それこそ嘘でも初夜の時に、せめて「愛する努力をする」と、「愛していきたい」と、そう言葉をかけてくださっていたら――。
「コーデリア……」
「……嫌いです」
今まで押し込めてきた感情が、私の口を衝いて溢れてきました。
王命だからと、政略だからと、誰も悪くないのだからと、押し込めて来た私の感情が――。
「嫌いです……。あなたなんて、嫌いです。セドリック様」
嫌い、と口にするたびに、私の頬を熱い涙が流れていきます。私の涙を見たセドリック様が顔を歪め、再び私を胸に抱きしめました。
「すまない……。すまない、コーデリア」
嫌だと首を横に振る私のことなどおかまいなしに、セドリック様は私の身体をぎゅうぎゅうと締め付けてきます。その温かさと心地よさに私の心はさらに苛立ちました。
この人に心を許してはいけません。
許したら、また傷つきます。この人は絶対に、アマンダ様を突き放すことができない人です。
「一生をかけて、君に償わせてくれ」
「……嫌です」
「頼む、コーデリア……! 君を失いたくない」
セドリック様の声が震えています。けれどそれも私ほどではないでしょう。泣き叫びたい衝動を堪えていたため、声が震えています。喉が痛いです。
「……嫌です。絶対に嫌です。あなたなんて、大嫌いです。セドリック様」
嫌いだと言っているのに、セドリック様は私を抱きしめる腕の力を緩めようとはしません。話をやめようとはしません。
「聞いてくれ、コーデリア。……君と結婚した時、まだアマンダを愛してはいたが、すでに恋は終わっていた。彼女が王太子殿下と婚約したのは、君と婚約する二年以上も前だ。アマンダへの想いは徐々に恋人への愛情から、友人への愛情へと変わっていた。変わっている途中だった。今ではアマンダには友情しか感じていない。代わりに、段々と妻としての君への愛情が私の心を占めるようになったんだ」
セドリック様が腕の力を緩め、互いの顔が見える位置まで身体を離しました。潤んだ翡翠色の瞳がすぐ近くで私を見つめています。
聞きたくないのに――まるで縫い付けられたかのように、セドリック様の瞳から視線が外せません。
「コーデリア。君に初夜を拒否されて、ずうずうしくも私は傷ついた。だがすぐに、私の方が君を傷つけたことに気付き、君が私を拒否したのは当然だと思った。だが君は翌朝何事もなかったかのように、私に接してくれた。しかも私のためを想い、白い結婚のことまで提案してくれた」
それはセドリック様のためでもありましたが、私のためでもありました。いいえ、ほとんどが私のためでしょう。アマンダ様を愛しているというセドリック様の傍に、これから先一生、居続ける勇気がなかったのです。
「そんな優しい君と、本当の夫婦になりたいと思った。君となら、なれるのではないかと。アマンダを愛したように、もう一度君を愛せるのではないかと。……実際その通りになったよ」
セドリック様が泣きたいのか笑いたいのか、判別のできない顔をしています。
「君は私がまだアマンダを愛していると思いながらも、それでも私の無実を信じてくれた。私を自慢の旦那様と言ってくれた。それがどれほど嬉しかったか」
――ああ。セドリック様は、私が思っていたよりもずっと傷ついていたのですね。
恋したことを責められ、自分たちの恋に私を巻き込んだことを後悔し、自分に自信がなくなっていたのですね。
だから、私なんかに引っ掛かってしまわれたのですね。
「コーデリア。私は君を愛している。もっと早くに伝えるべきだった。けれど、さんざん君を傷つけておきながら、愛せるかわからないなどと言っておきながら愛を乞うなど、あまりにも身勝手だと思っていた。
……いや、そう言い訳をして逃げていたんだ。私は、君に想いを伝えて拒絶されるのが怖かったんだ。私は愚かで、卑怯だった。許してくれとは言わない。けれど愛しているんだ、コーデリア。お願いだ。その想いだけは信じてくれ」
やっぱり、信じられないという想いはあります。けれど同時に、セドリック様のおっしゃっていることは真実だとも、私はすでに確信していました。
セドリック様は堅物です。真面目なのです。
こんなに真剣な表情で、こんな嘘をついたりしません。
セドリック様の言葉を私の心が受け入れた途端、様々な感情が一気に胸の奥からこみ上げてきました。苦しくてこのまま息が止まってしまいそうです。
今更です。本当に今更です。私はもう、諦めるつもりだったのです。
もう何度もその覚悟をしたのです。それなのに、離縁させられるかもしれないという時になって、私を愛していると言うなんて――。
セドリック様に愛する方がいるのはわかっていました。けれど結婚したからには、私を受け入れてくれるとおめでたくも私は思っていたのです。父にはさんざん嫌だと言っていたくせに、心のどこかで期待していたのです。
結婚初夜に、わざわざ他に愛する人がいるなんて、言われるとは思わなかったのです。
夢すら見させてくれないセドリック様を、私は恨みました。だから、初夜を拒否しました。
あのあと私は、部屋でずっと泣いていました。
セドリック様に気付かれないよう、ずっと声を押し殺し、翌朝顔が腫れないように、ずっと涙をハンカチに落としていました。我ながら涙ぐましい努力です。いじらしいです。
あの時の私が――あまりにも惨めで心の奥底に閉じ込めていた私が、今も心の中で叫んでいるのです。セドリック様なんて、大嫌いと。
「コーデリア、愛している」
ずるい。ずるい人です、セドリック様は。
「ずるいです……セドリック様」
セドリック様のことが、好きだけれど嫌いです。憎たらしいです。
それでも――やっぱり私にはこの方を突き放すことができません。
セドリック様が縋るように、じっと私を見つめてきます。涙の膜の張った翡翠の瞳が、こんな時だと言うのに、これ以上ないほどに美しく見えます。綺麗な人です。アマンダ様とお似合いです。美男美女です。私はこの人に不釣り合いです。
ですが、夫婦なのです。
これから離縁することになるかもしれませんが、それでも、今はまだ夫婦なのです。
だから……一回くらい、妻として我儘を言っても良いですよね?
「……セドリック様。もし、あなたが本当に私を愛しているのなら、離縁などさせないでください」
私を見つめ続けていたセドリック様の瞳が見開かれます。私はその瞳から視線を逸らさずに、言葉を紡ぎました。
「それが出来たなら――私たちは生涯夫婦として共にありましょう。妻としての務めは果たします。あなたを夫として大切にします。ですが、私があなたに愛を告げることはありません。それでも良いのなら……私は永遠に、あなたの妻です。セドリック様」
自分でも心が狭いと思います。意地っ張りです。
自分自身、こんなに拗らせていたなんて思いませんでした。どうやら自分の気持ちに向き合っていなかったのは、セドリック様ではなく私だったようです。
それでも、私はセドリック様に愛の言葉を告げません。心はとうに奪われているけれど、その事実を簡単に教えるつもりはありません。
だって、さんざん振り回されてきたのです。
だから、アマンダ様に対するのと同じくらい、私のことで悩めばいい、悲しめばいい、苦しめばいいと、そう思ってしまいます。我ながら酷くて笑ってしまいますね。
けれど……。
けれど結婚初夜、アマンダ様を愛しているとおっしゃったセドリック様は、今では私を愛しているとおっしゃいます。私の気持ちが、今後変わらないという保証はどこにもないのです。いつかは、セドリック様に愛を告げる日が来るかもしれません。
人の気持ちは変わります。誠実さは心を動かします。
私は、セドリック様に努力して欲しいのです。誠実であって欲しいのです。私から拒絶されてもなお、私を求めて欲しいのです。そうでなければ、これまで傷ついてきた私の心が憐れすぎます。
私はどうしようもなく、子どもです。これではセドリック様に愛想を尽かされても仕方ありません。
けれど、結構ひどいことを言ったというのに、セドリック様は私の顔を覗き込み、美しい笑みを浮かべ「……ありがとう」とおっしゃいました。
「ありがとう、コーデリア……。離縁などしない。そんなことはさせない。君が私の妻でいてくれるなら、私は夫として、一人の男として、心から君を愛し抜こう。生涯、君だけを」
セドリック様が私の涙に濡れた頬を愛おしそうに、両手で柔く挟んできます。苦し気に顰められた眉の下、翡翠色の美しい瞳の奥に隠しきれない喜びの光が見えたのは、きっと私の気のせいではないでしょう。
そしてよく見れば唇の端が少しだけあがっています。けれどそれを抑えています。ここで微笑めば、きっと私が反発して怒ることを知っているからです。
そのことに気付いた私は、唇を引き結びました。
悔しい。
けれどこんなに泣いていれば、私が意地を張っているだけなのだということは、セドリック様にはすぐにわかってしまうでしょう。私などとは経験値が違うのです。
私があえて「愛を告げるつもりはない」と言ったことの意味も、おそらくわかったのでしょう。
「愛せるかわからない」のではありません。愛がないから、告げないのでもありません。
愛していても、告げません。悔しいから、告げません。
「コーデリア、君を愛しているよ」
セドリック様の熱の籠った美しい翡翠の瞳が、私を見つめ、愛の言葉を囁きます。けれど、私は言いません。
「私は……あなたなんて、嫌いです。セドリック様」
それでも、セドリック様は私を見つめ、嬉しそうに目を細めるばかりです。
「ああ、わかっている。君は私の傍にいてくれるだけでいい。私が君を愛することを許してくれるなら、それだけで」
セドリック様の美しい顔がゆっくりと近づいてきます。翡翠の瞳には、涙でぐちゃぐちゃになった私の顔が映っています。とても恥ずかしく、つい逃げ出したくなってしまいます。けれど逃げません。
まだ愛を伝えることさえできませんが、私はこの方の妻なのです。この方は私の夫なのです。
セドリック様の柔らかな唇が、私の唇と重なります。
思えば私は、これまでセドリック様と口付けのひとつも交わしたことがありませんでした。
たかが口付け一つ。けれど私はこの口付けで、ようやくセドリック様と本当の夫婦になれたのだと感じました。




