第23話 今更ですよ、旦那様
「セドリック様! 落ち、落ち、落ち着いてください!」
「大丈夫。私は落ち着いているよ、コーデリア」
セドリック様が指の力を緩めたと思ったら、今度は私のこめかみ辺りにスリスリとご自分の額をすりつけてきました。なんだか大きな犬に懐かれているような気分です。
そしてどうやら落ち着いていることは確かなようですね。返しが冷静です。
でも今の状況はまったく大丈夫だとは思えません。どう考えても今のセドリック様のご様子は普段とは違います。セドリック様の手はまるで私を逃がさんとばかりに、しがみつくように首と胴に回されています。
ほんの少しセドリック様が私の首を掴んでいる手に力を込めれば、私はきっと気を失ってしまうでしょう。それ以上力を入れられれば、息が止まってしまいます。
考えて血の気が引きました。自分の命が他人にゆだねられていることに、恐怖を感じました。
私は今、結婚してからはじめて、セドリック様を恐ろしいと感じています。
けれど、セドリック様はそんな私の感情に気付いているのかいないのか、いつも通りの優しい声で会話を続けてきます。
「コーデリア。君には本当に申し訳ないと思っている」
……もう何度目でしょうか。セドリック様にこうやって謝られるのは。
私とともに生きて行く限り、セドリック様はずっと私に対して負い目を感じながら生きて行かなくてはならないのでしょうか。そんなの悲しすぎます。
そして申し訳ないと思っているなら、首から手を離して欲しいです。力は緩みましたが肌をさする様に蠢いている指が恐ろしくてなりません……。
「私のような男の妻になってしまったがために、どれほど傷付けたことか……」
次期公爵で優秀でお美しいセドリック様をして私のような男とか……刺されますよ? 誰かに。けれど、それほどまでにセドリック様はご自分に対して、ある種の失望を感じておられたのでしょう。
実際にアマンダ様と何事もなかったのだとしても、そう周囲に思わせてしまったご自分に。
「……大丈夫ですよ。セドリック様はいつも私にお優しくしてくださいました。それに私たちは政略結婚なのですから……これ以上私のことで心を痛めないでください」
私がそう言った途端、セドリック様の指の動きが止まりました。
「そう……。歯がゆくも私たちは政略結婚だ。しかも私の不手際が原因の」
「ふ、不手際って……」
王太子殿下はお二人の恋を手落ちとおっしゃっていましたが、セドリック様も同じように感じておられたということでしょうか?
「私なぞを気遣って……君はこんなにも優しいというのに、私は何度……」
なんだか私の先ほどの言葉は逆効果になってしまったようです。セドリック様の声がわずかながら震えています。まさか泣いておられるなんてことはないですよね?
「ねえ、コーデリア」
ですがセドリック様が背後でわずかに身動ぎをしたと思ったら、急に声に力が戻りました。反省が済んだらようやく立ち直りましたかね?
「はい」
「君は私が君を愛していることを、信じてはいないね?」
優しい声で、諭すように囁かれ、私はつい口ごもってしまいました。
「それは……」
だってそれは仕方のないことです。私は最初からアマンダ様の代わりなのです。それに、セドリック様が私を愛しているとおっしゃったのは、先ほどの王宮での一度だけです。それだって、王太子殿下の言葉に反応したに過ぎないと、私は思っています。
「それでもいつかは……君に想いが通じて、普通の愛し合う夫婦になれると夢を見てしまっていた。結婚してから一年近く経った今でも、君は私を夫として受け入れてはくれないというのに」
セドリック様が私と同じようなことを思っていたことに驚きましたが、それ以上に恐怖が勝りました。
セドリック様の私の首を押さえていないもう片方の手が、私の腹部を優しくさすってきます。無防備で柔い場所を触られて、私の身体がびくりと反応しました。息が荒くなり、冷や汗が出てきます。
首に添えられたもう一方の手にも、再び力が籠められました。
「大丈夫。君を汚したりしないよ。けれど、君を誰に渡すつもりもない。……君は永遠に私の妻だ」
……一旦は遠のいたかに思われた命の危機再びでしょうか?
――……ねえ、セドリック様?
それは、白い結婚を生涯続けるという意味ですよね? そうですよね? 死して結ばれるとか、そんな意味じゃないですよね⁉
私がふるふると震えていると、それに気付いたセドリック様がふと笑いを零しました。
笑ってるのに、怖いです……!
「ああ……コーデリア。君はもしかして、私が君を殺すと思っているの?」
今の状況からはそれしか考えられなくないですかね⁉
自暴自棄になった夫に殺される妻という構図しか思い浮かびません……!
セドリック様の手はいまだ私の首を掴んだままなんですよ? 微妙に力が入ったり抜けたりを繰り返していて、本当に気が気じゃありません。しかもたまに指の腹でスリスリと喉をさすってくるんです。恐怖で頭がおかしくなってしまいそうです。
「私が君を殺せるわけがない。君を殺すくらいなら殿下を殺すよ」
「何でそうなるんですか!」
あまりの不敬発言に、つい叫んでしまいました。
殿下を殺すとか、誰かに聞かれでもしたら大事過ぎます。
「……やっぱり殿下を殺されるのは嫌かい?」
「嫌とかいう問題じゃ……! いえ、嫌ですけど! 当然じゃないですか!」
殿下じゃなくても嫌ですよ。何を当たり前のことを言っているんですか、セドリック様は。なんでそんな悲しそうに言うんですか。
「もっと早く……」
「はい?」
セドリック様が低い、そして小さく頼りない声で言いました。
「もっと早く、君に伝えていれば良かったのだろうか」
「セドリック様……」
「もっと早く、君を愛していると伝えていたら……君を殿下に奪われなくても済んだのだろうか」
いえ、殿下に奪われるって何ですか? まだ離縁は成立していませんが。というより、今何ておっしゃいました? またもや私を愛しているとおっしゃいましたか? もしや、本気なのですか? セドリック様。
嘘ですよね?
「だって……セドリック様は、あんなにアマンダ様を愛しておられたではないですか。社交界中の憧れだったのですよ? それに、初夜の時におっしゃっていたじゃないですか。まだアマンダ様を想っているって」
私を愛せるかわからないって。
だから、私は白い結婚をするつもりだったのですよ。みじめだったけれど、つらかったけれど、憧れた方を憎めなかったから、無理をしてほしくなかったから。この王命から解放しようとしたのですよ。
「ああ……言った。あの時は、こんなに君のことを愛することになるなんて、思ってもみなかったよ」
セドリック様が私を抱きしめていた腕を解きました。これまでずっと首に添えられていた手も離れました。妙な肌寒さを感じましたが、同時に解放されたことにほっとしました。
「コーデリア」
セドリック様に名を呼ばれた私は、後ろにいるセドリック様に振り向きました。
セドリック様は、じっと私を見つめていました。翡翠色の瞳に、アマンダ様を見ていた時のような熱が感じられます。
それでも、信じられません。
愛して欲しいと思っていました。愛のある結婚がしたいと。
私を選んで欲しいと。
けれど、今の私はもう、セドリック様の言葉を信じることができません。
「……信じられません」
「コーデリア……」
セドリック様の声に、切なさが混じっています。それでも、信じられません。
だから私は言いました。
「……今更ですよ」




