42.彼らの歩み
夜を裂いて走るハイラックスの車内には、沈黙だけが広がっていた。
ハンドルを握る海斗は前を凝視したまま、眉一つ動かさない。助手席のかなは、何度も口を開きかけては飲み込んだ。彼がどこを目指しているのかも、なぜ言葉を失っているのかもわからない。状況の変化に頭がついていけず、問いかけることすら恐ろしく思えた。
高速道路はやがて山間部を抜け、終点の分岐へと差し掛かる。巨大な高架の脚が林立し、路線は北へ延びる幹線へと合流していく。かつては地方と首都を繋ぐ大動脈として車がひっきりなしに行き交ったはずの道。しかし今は、闇に溶ける一本のラインを、彼らだけが走っていた。
進むにつれて、風景はわずかに開けていった。濃い霧が谷底から押し寄せ、街灯の光を柔らかく滲ませている。視界の横に現れたのは、小さな休憩所だった。
白い建物の室内灯と、中に並ぶ自販機の明かり。それだけが夜気の中でぼんやりと浮かんでいる。駐車スペースには一台の車影もなく、まるでそこだけ時間が止まったように。
かなは無意識に息をのむ。人の気配がまるでない光景が、余計に不安を掻き立てた。
だが海斗はハンドルを握る手を緩めることなく、そのまま通り過ぎる。ハンドルを握る指が白くこわばっているのを、かなは見逃さなかった。
さらに進むと、出口の標識が闇の中に浮かび上がった。ランプにハンドルを切り、道を下る。高架を降り切った先に広がっていたのは、人の営みを感じない市街地の街並みだった。街灯が立ち並ぶ大通りをしばらく走ると、景色は次第に住宅街に移り変わり、やがて果ての見えない田園地帯になった。稲穂が風に揺れるたび、湿った匂いがかすかに窓から忍び込む。
静かだった。住宅も商店も、灯りを点すはずの窓すらも存在しない。平野全体が、人の営みを拒んでいるかのように眠り込んでいた。
赤信号が前方に現れた。
だが海斗は減速すらしない。迷いなくアクセルを踏み込み、交差点を駆け抜けた。
かなは思わずシートの肘掛けを握りしめる。警察官として、反射的に「信号は守れ」と口に出しかけ――寸前で言葉を飲み込んだ。
(……今さら何を守ったって意味がない。これは、もう普通の世界じゃない……)
喉に突き刺さる違和感を無理やり押し殺し、彼女は窓の外に視線を逸らした。冷たい汗が首筋をつたい、背中に張りつく。
「……ごめん」
唐突に、海斗が呟いた。
「やっと整理できた……」
主語のない言葉に、かなは首を傾げる。問い返したい衝動に駆られたが、横顔はあまりに険しく、声をかけることができなかった。暗い影が目の下に伸び、噛み締めた唇に赤黒い血の気が滲んでいる。
道はやがて、平野の端へ向かう。前方の霧の中に、唐突に巨大な影が姿を現した。
それは場違いなほど大きな鳥居だった。朱に塗られているはずの柱は闇に沈み、その輪郭だけが月光を受けて浮かび上がる。かなの目には、それがこの世とあの世の境界を示す門のように映った。
鳥居をくぐると、街灯の途切れた細い道に入る。右手に現れた小さな店舗はすでに閉ざされ、ガラス戸の奥には冷え切った闇が満ちている。その脇道を抜けると、鉄の匂いを帯びた古いガードが待っていた。線路を潜り抜けるとき、車体は低い振動に包まれる。
再び地上に出ると、かなは思わず目を凝らした。
――平野の端に、黒々とした山影が横たわっていた。
標高は高くない。だが、夜霧に包まれたその姿は異様なほどの存在感を放っている。まるで周囲の大地を支配するかのように、そこに立っていた。
(……知ってる……?)
胸の奥から、不意に重苦しい感覚が湧き上がる。自分のものではないはずの記憶が流れ込み、影のかなの意識が重なるように混ざっていく。胸の内に冷たい鉛を流し込まれるようで、虫の知らせのような不安が背筋を這った。
やがて車は山へ続くスカイラインの入口にたどり着いた。
本来なら夜間は閉ざされているはずのゲートは、なぜか開け放たれたまま。
海斗は迷うことなくアクセルを踏み込み、闇に沈む山道へと車を滑り込ませた。
舗装はところどころ荒れ、タイヤが石を弾くたび車体が小さく揺れる。両脇から迫る木々は黒々と重なり合い、ヘッドライトの光が切り裂いた部分だけがかろうじて道を示していた。登るにつれ、霧はさらに濃くなり、視界のすべてが白と黒に溶けていく。
かなはシートベルトを強く握りしめ、窓の外を見つめた。
――その瞬間、胸の奥にずしりとした重みが走る。
(……ここ、知ってる……)
理由はわからない。だが、目の前の景色は初めてではない感覚を呼び起こした。
車がカーブをひとつ越えるごとに、忘れていた何かが胸に流れ込んでくる。
それは“影のかな”の記憶。夢の中で聞かされた言葉と同じ感覚が、現実の自分の思考に溶け込み始めていた。
霧に煙るガードレール。木立の間からかすかに覗く夜の平野。
ひとつひとつが、遠いはずの記憶を引きずり出す。
(……夕陽を見た場所……ここで……私たちは……)
頭の奥がずきりと痛み、思わず息を呑む。視界が滲み、涙がひとしずく頬を伝った。
追憶なのか、誰かに植え付けられた記録なのか、判別はつかない。
ただ一つ確かなのは――自分が“この世界のかな”ではなく、“本当のかな”としての記憶に飲み込まれつつあるという事実だった。
海斗はそんな彼女の動揺に気づくこともなく、黙したままハンドルを握り続けていた。
白く強張った指先が、ハンドルに食い込むように力をこめている。
車はうねる山道をさらに上へ、上へと進んでいく。
時折木々の隙間からのぞく真っ黒な海原は、この世界が終わりに近づいていることを暗に示しているようだった。
そして山を登り始めてから二十分ほどが経ったころ。
突如現れた短いトンネルをくぐると、数本の電波塔と特徴的な展望タワーがフロントガラス越しに映った。
やがて霧の向こうに、二人が辿り着くべき場所の影が、ぼんやりと姿を現し始めた。




