39.彼女の責務
――私はまた、夢を見ていた。
白いもやがかかった、広大で形のない世界。
足元には影がなく、空も地平も存在しない。風も音もないのに、耳の奥でかすかな反響が続き、白と淡い灰色が混ざり合う空間が限りなく広がっていた。
その風景に、胸の奥がわずかにざわつく。
(……ここ、前にも……)
ぼんやりとした記憶の底から、似た景色が浮かび上がる。輪郭も質感も、夢の底に沈む記憶と同じ――。だが、それを掴もうとした瞬間、するりと靄の奥へ消えていった。
中心なのか端なのかも分からない。けれど私は、確かな記憶を抱えたまま、この静止した世界に立っていた。
(……確かさっきまで、トラックにいたはずじゃ……)
思考を辿ろうとした瞬間、靄が裂けるように、目の前に“彼女”が現れた。
顔は霞んで見えないのに、立ち方の癖や指先の動きまで、自分と瓜二つだった。
「あーあ。感情に流される私って、やっぱり駄目なんだね」
私の声なのに、温度を持たない氷のような響き。
「……貴女……」
思わず背筋が震える。
影の“かな”は一歩近づき、私の耳元すれすれに囁いた。
「時間もないから、単刀直入に言うね。――日の出までに、カイ君をこの夢から目覚めさせなきゃいけない」
突拍子もない言葉に、喉がひりつく。
「……どういう意味?」
「この夢は、彼からあなたの記憶を消すために作られたものなの」
淡々とした声が、氷塊のように胸の奥へ沈み込む。
「なんで私が……そんなこと……」
影は肩をすくめ、薄く笑った気配を漂わせた。
「そんなの知らないわよ。私は、あなたの思考をもとに生成されたコピーにすぎない。生成される前の条件付けで、この世界に私自身の意志は反映されないように、最初からプロンプトが組まれてた」
あまりにも無責任な響きに、胸の奥がざらつく。
「そんな……勝手なこと……!」
怒りに駆られ、反射的に背を向けて駆け出した。
もやをかき分けるたび、足元の白がじわじわと黒に侵食され、音が消えていく。踏みしめたはずの地面は、次の瞬間には重力の感覚を裏切り、足裏から色も温度も奪っていった。
やがて地面は裂け、底の見えない深い谷が口を開けている。
(ここから飛び込めば……目が覚めるかもしれない)
縁に足先をかけ、全身を前へ傾ける。
その瞬間、背後から声が追ってきた。
「もう、逃げられないんだよ?」
低く、妙に優しげで、それでいて抗えない重みを帯びた声だった。
その言葉が足首を縫い付け、闇に飛び込む勇気を剥ぎ取っていく。
――はッ!
肺が急に動き出し、視界が一気に色を取り戻す。
頬を刺す冷たい風。背中に伝わる鉄板の硬さ。下を流れるアスファルトの振動が、骨にまで響く。
夢の白い世界とはまるで違う、鮮烈すぎる現実感。
(……夢……だよね……)
呟くと、すぐ傍から聞き慣れた、しかし耳障りな声がした。
「夢じゃないよ」
視線を向けると、光が沙耶のスカート越しに漏れている。ポケットに入ったスマホだ。
ためらいながら取り出すと、そこには夢で見た背景の中に立つ“影のかな”が映っていた。
「それで、覚悟は決まった?」
「なんで、わざわざ……、そんな……」
言葉が詰まる。だが煮詰まった感情が堰を切り、私は画面越しの私に声を荒げた。
「そんなッ!バカな話ない!こんなところまで干渉できるなら、貴女が直接カイ君に言えばいいじゃない! ”私は存在しない人間なんだ”って!! なんでそんな、辛い目に合わせるのッ……!!」
「私はね、人の死の悲しみも感じられないし、同情もできない。私の役割は、あなたという“私”を、カイ君から解放するためのインターフェイスでしかないの。だから、感情という殻を持ったあなたにしか、彼の記憶にひびを入れることはできないの」
その説明は冷たくも的確で、不思議と感情の熱が冷めていくのがわかった。
また私は感情的になっていた。
理性が戻ると、自然と問いがこぼれる。
「……もし、私が協力しなかったら?」
「現実の彼は、自分の足で未来を歩めない。そしてたぶん私は、不本意な形で本当に彼を殺すことになる。それは……あなたが望むこと?」
胸の奥が強く脈打つ。感情の熱は消え、代わりに奇妙な使命感が全身を染めていく。
悔しいことに、感情がないと言った彼女に、感情的な諭し方をされていたことに気づく。
「……分かった。私はどうすればいいの?」
「次のパーキングで停まって。そしたらそのスマホをカイ君に見せる。スピーカーは大音量に」
「それだけ?」
「ううん。本題はそこから。スマホを見た彼は、ここが夢だと気づく。でも同時に、現実を受け止められないはず。だから、あなたから心から語りかけてほしい。――リアルに存在しない私に囚われず、本当の人生を歩んでほしいって。それが、現実のあなたが残した最後のプロンプト」
私はスマホを握りしめ、鉄板越しに運転席をノックした。
窓が開く。
「ごめん……ちょっとトイレ行きたくなっちゃった」
場違いな言葉に、自分でも苦笑がこぼれたが、声はもう震えていなかった。




