36.彼女の懺悔
黒い商用バンは、東関東自動車道を北へと進んでいた。
夜の闇が窓の外を流れ、サービスエリアの灯りや緑色の案内板が一定の間隔でフロントガラスを横切っていく。
遠くに工場群が夜景の粒のように浮かび上がっては、すぐに闇に飲まれて消えた。
湿った夏の外気が、わずかな隙間から車内に忍び込み、エアコンの冷気とせめぎ合う。
看板に書かれた「東京方面」の文字だけが、海斗にかろうじて方向感覚を与えていた。
後部座席の右側に座る海斗は、腕を組み、前方を見据えるかなの横顔を盗み見る。
免許を持っているはずの自分よりも、運転席の女子高生の方がよほど頼りがいがある――そんな情けない事実を打ち消すように、言葉を探し、やっとのことで口を開いた。
「あ、あのさ……免許、持ってるの?」
運転席の少女は、バックミラー越しにわずかに口元を緩めた。
「持ってるわけないじゃん。私、まだ十七だし」
「……そ、そっか……じゃあ……無免許……だよね」
かなが冷静にツッコミを入れる。
「無免許運転なんて……」
沙耶はおどけたように左手の人差し指で、黒い拳銃をくるりと回して見せた。
「こんなの持ってる時点で、法とか関係ないでしょ」
金属が車内灯を反射して、一瞬だけ鋭く光る。
その冷たい輝きが網膜に焼き付き、海斗の背筋をぞくりと走る。
倉庫で銃口を向けられたあの瞬間の重い空気と、耳奥に響いた金属音が生々しく蘇る。
かなは眉をひそめ、前のシート越しに声を張る。
「ちょっと! 危ないでしょ! それに私、一応警察官なんだけど!」
「へぇ、そうなんだ」
沙耶は視線を道路から外さず、淡々と返す。
「じゃあ真っ先に捕まえるべきは、その横にいる人なんじゃない?」
「……」
かなはぐうの音も出ず、視線を落とした。
沈黙を破るように、海斗は小さな声で尋ねた。
「……それより……なんで僕たちを、その……助けようなんて……」
疑いというよりも、戸惑いと不安がないまぜになった声だった。
沙耶は短く息を吐き、ハンドルを握る指先にわずかに力を込めた。
「黒崎さんを撃ったときにね、気づかされたんだ」
運転席に差し込む街灯の光が、彼女のスカートの赤黒い染みを照らす。
その一瞬で、車内の空気が冷えたような錯覚が海斗を包む。
彼は息を呑み、思わず目を逸らした。
「そもそも私は――」
沙耶は淡々と、しかし時折、喉の奥が詰まるように声を押し殺しながら過去を語り始めた。
ギャンブル依存の両親。
金に困り、強盗殺人で刑務所に送られた二人。
親戚に引き取られても、向けられるのは冷たい視線だけ。
小学校高学年のある日、いじめの主犯格を机の角で殴り、打ち所が悪く命を奪ってしまった瞬間――。
殴ったときの鈍い衝撃と、床に倒れる音が今も耳から離れない。
そのとき胸に広がった、取り返しのつかなさも。
孤児院へ送られ、そこで出会った反政府組織のリーダー。
未来などどうでもよくなっていた自分に、差し伸べられた手を取ってしまったこと。
「黒崎さんの彼女を殺したのは、私の最終試験だった」
それは、二度目の殺人であり、初めて自らの意思で一線を越えた瞬間だった。
当時の映像を見返すように、沙耶の声は低く沈む。
「さっき小高さんと一緒に、黒崎さんからその彼女との話を聞かされて……初めて、自分が何を奪ったのかを思い知った」
気づけば、車は首都圏外郭を抜け、料金所の青白い光をくぐり、関越道へと差し掛かっていた。
沙耶の話が終わる頃、海斗はただ窓の外を見つめていた。
胸の奥に重い石が沈んだようで、言葉を探しても何も出てこない。
一方、隣のかなは――両手で顔を覆い、声を詰まらせながら泣いていた。
「……あれ? なんで泣いてるんですか」
バックミラー越しに沙耶が戸惑いを見せる。
かなは涙を拭いもせず、嗚咽混じりに言った。
「だって……そんな辛いことばかりで……誰にも理解されなくて……! 手を汚さなきゃ生きられない環境に追い込まれて……それでも抗わなきゃいけないなんて……私なら耐えられない……」
そのまま運転席の背もたれ越しに身を乗り出し、沙耶の肩に両腕を回した。
「ちょ……!」
ハンドルがわずかにぶれる。
「……危ないってば!」
短い抗議が返ってくるが、かなは離さない。
優しく彼女を両腕で包みながら続けた。
「……がんばってきたんだね。すごいよ……本当に」
沙耶は笑みを作ろうとしたが、視界がじわりと滲んだ。
「……おかしいな」
片手で目を拭う。
これまで冷たく積み重なってきた記憶が、かなの言葉で一つひとつ溶かされていく。
初めて触れる温もりに、戸惑いと安堵が入り混じった。
「ごめん、ちょっと休憩していい?」
沙耶は誤魔化すように言うと、車を最寄りのPAへと誘導してパーキングに停めた。
エンジンを切ると、夜の静けさの中にトラックのアイドリング音と、外気の蒸し暑さが入り込んでくる。
沙耶は両手で顔を覆い、抑えていた涙を堰を切ったように流し始めた。
海斗はそんな二人を見ながら、何を言っても軽くなってしまう気がして、ただ黙っていた。
結局、海斗ができたのはそっと車を降りることだけだった。
PAの自販機の白い光が、夜気にぼんやりと浮かび上がっている。
投入口から落ちてきた缶コーヒーは、表面に細かな水滴をまとい、掌にひやりと沁み込む。
その冷たさを握りしめながら、海斗はふと息をつく。
「やっぱり、こういう時まで、僕は……」
口惜しさとやるせない自分への苛立ちで、口の中がじわっと熱くなる。
結局海斗は缶を三つ抱え、再び車へと戻る。
その足取りは、湿った夜気に溶けるように重かった。




