2.彼の覚悟
海斗が真っ黒なネットの世界に潜り込んでから数十分。
ダークウェブ内で展開されている"闇のアマゾン"こと、『クラック・クラッシュ』で仕事の依頼を精査していた海斗は、同業者からの嫌がらせに辟易していた。
『またか……』
仕事の依頼を受けるときに使う簡易的なメッセージ機能に、これまた大量の迷惑メールが送りつけられている。
つい数か月前から、ほぼ毎日のようにこんなささやかな迷惑行為が、あるユーザからされていた。
本物の依頼を探すのがかなり面倒になっているので、いい加減に止めて欲しいものだが、相手は海斗を困らせるためにやっているだろうから、相手が聞こえないところで愚痴ってもしょうがないだろう。
だが正直なところ、海斗はこの迷惑な相手の素性をある程度"把握"し始めていた。
"把握"といっても、別に犯人の名前や住所といった個人情報が分かったわけではない。
海斗がこの迷惑極まりない同業者について、今分かっているのは4つのとても大雑把なことだけだ。
1つ目は、相手が海斗と同じ日本人であること。
これはただ単純に、迷惑メールの文章がすべて日本語で送られてきているからだ。もちろん、別の何処かの国の人間が翻訳ソフトを通じて、迷惑メールを送ってきている可能性はなくもないが、そもそも海斗は英語のみでしか取引をしていない。いくらネイティブな人間から見て拙い英語だったとしても、そもそも日本人であることを海斗は明かしていないのだから、相手が日本人でもない限り、わざわざ日本語を使ってくる必要はないだろう。
2つ目は、相手がダークウェブの知識に長けていること。
『クラクラ』を通じて迷惑行為をしてきている以上、もちろんダークウェブのユーザであることは間違いないのだが、相手はかなり周到に自身の情報を秘匿していた。
たまに面白半分でアクセスしてくる人間が湧いて出ることがあるが、大抵は十分なセキュリティ対策もせずに飛び込んでくることもあって、他の危険なユーザに特定されてしまう。そして一生分のトラウマを植え付けられ、可愛そうな精神状態に追い込まれる人間がこの世界にはこれまた多い。
もちろんある程度のセキュリティ対策をしていても、海斗ほどの腕があるハッカーであれば、セキュリティの穴をついて、大抵の場合ざっくりとした情報くらいは特定できる。もちろん海斗も相手の特定に踏み切ってみたのだが、この世界に踏み入れてから初めて、相手の素性どころか、相手のその影ですら何も暴くことができなかった。
少なくても海斗と同等、もしかするとそれ以上の実力を持った相手が、何かしらの意図があって海斗に接近しようとしているのだろう。ただのいたずらじゃないとわかる分、不気味で仕方がない。
3つ目は、相手がかなりのサイコパスであること。
話は少し逸れるが、海斗が住んでいる地域の近隣で、最近連続殺人が頻発している。
この悲惨な事件が起きる前―――、つまりは海斗がネット上で迷惑行為を受け始めた当初。実を言えばこの連続殺人犯である嫌がらせの相手から、この一連の事件について事前に予告されていた。
『私の前にお前の姿を現せ。さもなければ、他人を犠牲にしようとも、お前を探し当てる』
数多くある意味の分からない迷惑メッセージの中、唯一まともな文章で綴られたメッセージがこの予告だった。
それまでの大量に送り付けられてくるメッセージは、「死」や「笑」といった、ひとつの単語がただ羅列された意味を成していないもので、唯一メッセージらしい文面だった先ほどの脅迫も、海斗は最初真に受けていなかった。
「どうせ、ただのブラフだろ」
恐らく海斗でなくても、そう思ってしまうことだろう。
だが、現実は違った。
現に先ほど、幼馴染でもあり、警察関係者でもあるかなが、例の事件の件で緊急招集された。
恐らく―――、いや、ほぼ確実に、また新しい被害者が出てしまったに違いない。
海斗がそんなことを考えていた刹那、机の脇に置いておいた彼のスマホが震えた。
画面を見てみると、【速報】という見出しに加えて、案の定この事件で5人目の被害者が遺体で発見された旨の内容が表示されている。
画面をタップして、ニュースの詳細を見てみる。
案の定、この辺の地域で恐らく何の罪もないであろう学生が、遺体の状態で発見されたらしい。
おまけに今回も、被害者の遺体の横に、海斗宛のメッセージが添えられていたようだ。
メッセージの内容は、『今年の雪は、お前の血で赤く染める』。
今回はいつもと違い、なんとも厨二病臭いメッセージを残していた。
「はぁ……」
海斗はニュースの記事を見て、思わずため息を漏らす。
正直、被害者にはとても申し訳なく思っている。
自分のせいで、自分よりもよっぽど価値がある人たちの人生が、こんな理不尽な事件によって8人も強制終了させられてしまっているのだ。
いくらこの世の闇を詰め込んだような環境にどっぷりと浸かっている海斗でも、どうしようもない罪悪感を感じる決まっている。
でも他人の命を気にしてばかりいては、ダークウェブでビジネスなどできないのも事実だ。
少し言い訳がましいことは重々分かっていながらも、海斗はそう自分に言い聞かせて精神状態を維持するようにしている。多分これからも、そうするしかないのだろう。
だが一番の問題は、4つ目に海斗が相手について分かっていること。
それは、相手が少しづつでも、確実に海斗の元へ近づいてきていることだ。
海斗がそのことに気づいたのは、3回目の事件が起きた時。
ちょうどこの頃から、世間でもこの連続殺人事件はだいぶ認知され始めていた。
世間で不安をあおるようなネットニュースが出回り始めるとほぼ同時に、海斗は2回目の事件が発生していたときから薄々気になっていたことがあった。
それは今まで起きている殺人事件が、すべて海斗の家の半径1キロ圏内で発生していること。
最初の事件が割と近所で起きた時は、流石の海斗もかなり驚かされたものだが、正直ただの偶然かと思っていた。だが流石に2回目も自宅の近所で事件が起きたとなると、相手がただ闇雲に事件を起こしているわけではないだろう。
そして来る3回目の事件。
案の定、海斗の自宅から半径1キロ圏内で事件が発生した。
海斗はこの事件が報道されたとき、過去2回の事件が発生した現場と、3回目の事件現場、そして自分の自宅の場所をマップアプリを使ってマーキングしてみる。
「やっぱり……」
結果は、海斗が薄々感じていた通り。
少しずつではあるものの、海斗の自宅に近づくようにして事件は起きている。
どうやら相手は、ある程度の地域まで海斗の住む地域を絞り込んでいるようだが、肝心な住所までは特定に難航しているらしい。
「まぁ……、まだ、大丈夫……」
海斗はこれでも、『クラクラ』どころかダークウェブでもトップクラスのハッカーだ。
この時の海斗は、ネットワークの偽装など何とか誤魔化し通せると安易ながら思っていた。
そう、これは本当に安易な考えだった。
ネットワークの偽装、接続サーバーの偽装、IPアドレスの偽装。
他にできることも含めて、やれることはすべてやってみたが、結局事件現場が海斗の近所から逸れることはなかった。
それどころか、徐々に海斗の自宅がある住所に近づいてきている始末だ。
流石の海斗も、今回の事件を受けて不安と焦燥感を感じ始めていた。
「流石にヤバい……」
海斗は思わず声を漏らす。
このままでは自分だけでなく、家族や幼馴染のかなも巻き込んでしまうかもしれない。
外の顔も名前も知らないような人たちならともかく、流石に自分の身近な人たちまでは巻き込みたくなかった。
正直、幼馴染のかなは、口うるさくて鬱陶しいと思うことばかりで、幼馴染でもなければどうでもいいって思っていたかもしれない。だが今の海斗にとって彼女の存在は、なんだかんだ言っても、もはや腐れ縁以上に家族も同然と言っていいほど、見捨てることはできない存在だ。
逆に海斗にとって、大切だと思える存在は家族とかなだけだけど、だからこそ絶対に傷つけたくはない。
なら、どうするべきだ?
海斗は立ち上げたパソコンとスマホを前に、しばらく思考を巡らせる。
そして時間が経つこと30分。
「もう、"アレ"しかないかな……」
海斗は前から薄々考えていた"ある事"を、実行に移す覚悟を決めた。