1.彼女の未来(改)
職場の上司から急な出勤を命ぜられてから数分後。
かなが海斗の部屋を出て階段を降りると、
「あらっ、かなちゃん今日は早いのね」
聞き馴染みのある柔らかい女性の声に呼び止められた。
声がした方を振り返ってみると、そこには一人の見知った顔の女性が、かなに不思議そうな視線を向けている。
おっとりとした優しい顔つきが印象的で、シンプルな青色のエプロン姿が様になっている、自分の母親と同じ年くらい女性。かなが昔からお世話になっているこの人は、海斗の母親の小高 沙紀子その人だった。
海斗の母は、
「もしかして海斗と何かあった?」
何処か少し含みを持たせた聞き方をしてくる。
ハッとその意味を察したかなは、
「な、なんでもないですよっ」
少し慌てて、両手を振りながら否定した。
「実は今から、また仕事に戻らなきゃいけなくなって……」
「あら、それは大変ね……」
かながいつもより早く家を出ていく理由を知った海斗の母は、彼女の苦労に同情の声をかける。
すると海斗の母は一呼吸おいて、不安げな表情を浮かべながら、
「もしかして、また事件?」
半ば確信を持った声音でかなに聞いてきた。
「はい、細かいことはまだ分からないですけど、多分また誰かが……」
かなは海斗の母からの問いに、深妙な面持ちで返す。
言葉通り、おそらく今日もまた、何処かの誰かが命を奪われた。
かなが警察官になってから1年ちょっと。今年の春頃から、彼女の管轄地域一帯で無差別殺人事件が発生している。
2、3週間に1回のペースと、かなり高頻度で起きているこの悲惨な事件は、被害者の性別や年齢はバラバラで、被害者自身の共通点は全く見られない。
だが唯一、この事件には共通している点があった。このそれは犯人と思しき人物が、被害者の遺体の横に必ず“手紙“を置いているという、なんともふざけたものだ。その手紙は筆跡を隠すためかパソコンを使って、『必ず探し出す』や、『また一人、君のせいで犠牲者が出た』といった、不気味なメッセージが綴られている。差出人こそ不明だが、メッセージの前には必ず『Dear Banker(バンカーの君へ)』と宛名が添えられていることから、警察は一連の殺人事件の犯人を、全て同一人物とみているらしい。
犯人に一体どういう意図があるのか定かではないが、全てにおいて不気味な事件だ。
「いやね、私たちも他人事じゃないわ……」
実のところ、かなの管轄地域は海斗の家も含まれている。海斗の母が不安に思うのも無理はないだろう。
「そうですね……」
かなも海斗の母の言葉に肯定する。
「おばさんも気を付けてください。私も早く犯人を捕まえられるように、全力で捜査に参加してますから」
真剣な表情でかなが言うと、
「それはこっちのセリフよ、かなちゃんも無理はしないでね」
海斗の母はまるで自分の子のように、心配と不安の色を混ぜた表情を浮かべて返す。
昔からの付き合いであるとはいえ、ここまで大切にしてもらえていると思うと感謝しかない。
かなはそんな海斗の母に、
「はい、ありがとうございます」
少し表情を緩ませて、大人らしい落ち着いた笑みを浮かべて返した。
「すみません、そろそろ行かないとなので、今日はここで」
かなはそう言って、玄関に揃えておいたヒールに片足を入れる。
すると何かを思い出したのか、「あっ」と海斗の母が声を上げた。
「どうしました?」とかなが少し怪訝な様子で聞くと、
「かなちゃん、ちょっと待っててね!」
そそくさと海斗の母はリビングのほうへ小走りで引っ込んでしまう。
ヒールをしっかりと履きながら待つこと数十秒。
再び姿を現した海斗の母の手には、ピンク色を基調とした可愛らしいチェック柄の巾着袋があった。
かなはその巾着を目にした瞬間、「うわぁ、懐かしい!」と思わず声を上げた。
この巾着袋はかなと海斗がまだ高校生だった時に、海斗の母がよくお昼ご飯を入れて持たせてくれたものだ。
かなの両親は昔から共働きで、中学校まであった学校給食が終わったのを機に、高校入学当初のかなは昼食を適当なコンビニ弁当や購買のパンですませていた。
そんなある日の朝、かながいつも通り海斗を起こしに来た時、
「かなちゃんって、お昼はいつもどうしているの?」
何気なく海斗の母に聞かれたことがあった。
かなは適当に買ってお昼を済ませていることを言うと、
「そんなじゃ栄養とれないわよ!」
と怒られたことがある。
「よしっ、なら明日からかなちゃんのお弁当は私が作るわ!」
そう唐突に言われ、かなは流石にそこまでしてもらうのは申し訳ないと思い、
「そんな、悪いですよ!」
と断ったのだが、
「遠慮しないでっ、二人分も三人分も変わらないから」
そう押し切られてしまった。
わざわざその日のうちに、かな用の弁当箱と巾着袋を用意してくれていたらしく、翌日の朝から早速お弁当を作ってくれるようになった。
海斗の母のお弁当は、とても美味しいし嬉しいものだったが、同じくらい申し訳ない気持ちも大きかった。
でもすでに弁当用具一式をそろえられてしまったこともあり、途中から断りづらくなってしまったかなは、結局そのまま高校卒業までお世話になった。
海斗たち二人が大学に進学してからは、そもそもかなが朝に海斗を起こしに来る機会が減ったこともあって、お弁当を作ってもらうことが完全に無くなってしまっていたが、5年近く経った今でもこの巾着袋は残していてくれたらしい。
当時のことを思い出して感慨に耽ていると、
「中身は海斗の朝食用に作った梅おにぎりなんだけど、ご飯はまだいっぱいあるから持って行っちゃって」
そう言って、かなに持っていた巾着袋を持たせてくれた。
「え、本当にいいんですか?」
かなは申し訳なさそうに聞くと、
「いいのいいのっ。どうせ海斗ったら、またお昼近くまで寝てるかパソコンいじっててご飯取りに来ないんだから」
海斗の母は少し呆れた様子で答える。
かなは思わず「あはは」と苦笑いを浮かべるが、それ以上のことに触れないで、
「それじゃあ、ありがたくいただきます」
素直に巾着袋を受け取った。
玄関の床に置いていたカバンを手に取って、玄関の扉に手をかけると、
「それじゃあ、行ってきます」
海斗の母に身体を向けて言った。
一方の海斗の母は、
「うん、いってらっしゃい」
と、いつもの優しい表情とやわらかい口調で返してくれる。
そんな第二の母親に見送られながら、かなはようやく海斗の家を出て職場へ急いだ。