14.彼女の覚悟(改)
五十島家夫妻との対話が終わり、喫茶店のボックス席は一転して静かになった。
今席にいるのは拓也と菜奈の二人だけで、残りの大人3人は恐らく外で話でもしているのだろう。
店内は落ち着いた雰囲気を保ちつつ、BGMや客の会話で程よく賑やかだが、二人のいるボックス席だけは何処か熱を奪われたかのような静かさが立ち込めている。だがその理由は、今の二人には言わずもながら明白だった。
「ねぇ」
「なに?たっくん……」
どこか重々しい口調で声をかける拓也に、気まずそうな声音で返す奈菜。
「もしかして、家から出ていく気?」
「っ……」
拓也の単刀直入なその問いに、奈菜は汗をかいている丸いガラスのコップに視線を向けたまま無言を貫く。
だが彼女のその反応は、拓也の問いに肯定しているようなものだ。
「どうして家族を辞めるの?」
拓也はわざと言葉を選んで、さらに切り込む。
菜奈はそこでようやく、重々しい口ぶりで、ようやく言葉を発した。
「私、たっくん達と暮らせてすごく幸せ。もともと違う家の子供なのに、本当の家族みたいに大切にしてくれて、本当の兄妹みたいに過ごせて、すごく楽しいよ」
「だったら―――」
「だけどッ!」
拓也の言葉を遮った奈菜の声は、初めて聴く強烈な叫びだった。
近くの席の客が一瞬こちらをチラ見するくらいには、声を張り上げている。
だが奈菜はそんな視線を気にすることなく、さっきとは打って変わって落ち着いた声音で続けた。
「だけど今のままじゃ、私ダメなんだよ……」
「ダメって、何が?」
「私は、今家族のこと大好き。でも同じくらい、前のお父さんとお母さんのことも大好きなの。でももし、このまま今の大好きな家族と一緒に居たら、私はもう、ほんとのお母さん達のこと―――私に起きた過去を避け続けちゃうかもしれない……。それは私、嫌だ……」
「そっか……」
彼女の本心を真に受けて、拓也はただ返す言葉がなかった。
今の家族も大切。そして、前の家族も大切。
それは当の奈菜にとっては、当たり前のことだ。
今の家族で幸せな日々を過ごすこと―――それは同時に、前の家族を意識する時間を失うことでもあるのだ。
「だから家族を離れる……」
「離れるわけじゃない!」
拓也が彼女の意図したことをポツリと溢した時、奈菜はそれをまたも大きな声で否定した。
「え……?」
「私はたっくんとずっと一緒にいたい!優しいし、頼りになるし、それに、わがまま言い放題だし!」
「最後のは褒め言葉なの……?」
「今の私があるのは、たっくんのおかげだよ。たっくんがいなかったら、ずっと塞ぎ込んでたままだったと思う」
奈菜は拓也のツッコミはスルーしつつ、今一度真剣な表情で彼の目をまっすぐと捉えた。
拓也もその雰囲気に圧倒されて、彼女の視線を素直に受け止める。
「だから、私はたっくんと離れたくない!だけど学校は変わらないし、五十島さんのお家と今のお家は近いでしょ?だから、住む場所が違うだけ。だから、その……、これからも一緒にいてほしい……」
どこかモジモジとしながら言う奈菜。
そんな彼女の願いに対する拓也の答えは、既に決まり切っていた。
「今更なに言ってるだよ」
「えっ……?」
「当たり前でしょ。別に学校変わらないなら、また一緒に通えばいいじゃん」
「ほ、ホントに、いいの……?」
「逆になんで今更ダメなんて言う理由あるの?」
「っ、それもそうだね」
クスっと笑いながら、奈菜はこれまで以上に満面の笑みを浮かべながら言う。
「たっくん、ありがと。やっぱりたっくんは、優しい男の子だね」
「だからそう言うの、恥ずかしくないのかよ……」
「ちょっぴり恥ずかしいかも……。だけど、これは今のホントの私の気持ちだから」
急に言葉尻が汐らしくなった奈菜の言葉に、拓也は目の前で汗をかいている長靴コップに視線を落とすことしかできない。
すると突然、
「だからこれは、たっくんへのお礼!」
菜奈は言いながら、突然両手を机について席から立ち上がる。
その刹那、拓也は自分の頬に少し湿った温かみを感じた。
チュッ、と耳元にはっきり聞こえるそれは、紛れもないキスだ。
初めてされる同じ年の女の子からの口づけに、拓也は反射的に後ずさりして、ワナワナと震え混乱しながら、
「お、お、お、お、おいっ!今、なにをっ!?」
想像以上に驚きふためく拓也の様子に、奈菜は小学生には似合わない艶めかしい笑みを浮かべていた。
「私の気持ち、伝わった?」
出会ってからは想像もできなかったこのシチュエーションに、拓也の心臓は激しく鼓動する。
顔を真っ赤にしながらそっぽを向いて、自分でもどうなっているか分からない表情を隠すのに精いっぱいだった。
「よしっ!これで私の勝ちだね!」
必死になんとかいつもの表情を取り繕って、拓也は奈菜の声が聞こえた方へと視線を向けてみる。
するといつの間にか彼女は、店のメニューブックを開いて次のオーダーを呑気に考えているようだった。だが奈菜は拓也の視線に気づくと、メニューブックを自分の目線より気持ち下げるなり、ニンマリとした視線をこちらに向けている。
「な、何の勝負だよ……」
訳も分からず少し涙目になりながら、拓也は朱色に染まった顔で奈菜に睨みを利かせる。
菜奈は拓也の僅かながらの抵抗に屈する様子はなく、奈菜は相変わらずの余裕そうな表情で、
「ん?どうかしたの?」
すっとぼけるだけだった。
そんなやりとりをしていたタイミングで、拓也の父が外から帰ってきてしまった。
結局その日は突然のキスのことについて追及できず終いに終わり、その一週間後に奈菜は五十島家の養子になることを自らの意志で決めた。
いや、結論自体はもうこの時すでに決めていたのかもしれない。
だがその決意を拓也の両親に打ち明け、説得し、奈菜は自らの未来を切り開いていったのだ。
とはいえども、別に何百キロと離れた県外や外国に行ったわけではない。
むしろ中学に上がるくらいまでは、週に1度は黒崎家に泊りがけで遊びに行くほど、関係性は深くなっていた。
そのたびに奈菜の拓也への絡みは、あの時のキスほどではないがエスカレートしていったと思う。
結局のところ、家族かそうじゃないかだけで、拓也と菜奈の関係性は大きく変わらなかった。
楽しかった日も、辛かった日も。ムカついた日も、喧嘩した日も。
菜奈が五十島家に引き取られることになってからも、ささいで賑やかな時間を共に過ごして、大学生となった今に至る。