10.先輩たちの過去(3)
奈菜が入院してから1週間後。
突然の発作が起きたあの日以来、特に心臓に異常が見られなかった事もあって、奈菜は無事に退院した。
完治からの退院というわけではないが、ひとまず身体の機能に問題ないようで、退院から数日が経った奈菜は、いつも通りの生活を送ることができている。
とはいえ、いきなり全て元通りというわけにもいかず、退院から1週間後に奈菜はようやく学校に復帰した。登校を再開してから数日が経った今の奈菜は、入院以前とは比べ物にならないほど、性格が明るくなっている。
今の奈菜は、確実に前へ進んでいる。未来を見据え始めている。
家族となって約1ヶ月。最初は正直戸惑いばかりだった拓也は、いつの間にか“奈菜が元にいた環境以上に、自分らしく生活できたらいいな“と素直に感じ始めていた。
そんな、奈菜が小学校にも慣れ始めたある日のこと。
拓也と奈菜がいつものように二人で下校して、たわいの無い話をしながら家の門のすぐそばまで着いた時、
「帰ってくださいッ!!」
けたたましい叫び声と共に、自宅の門から勢いよく2人の男女が逃げていった。
「どうしたんだろう?」
「さぁ?」
ひとまず二人は、少し恐る恐ると門の前まで近づいてみる。
家の玄関には、珍しく険しい表情で門を睨みつける母の姿があった。
だが二人の姿を目にした瞬間、
「あら、2人ともおかえりなさい」
いつもの融和な表情に戻って二人に声をかける。
「「た、ただいま」」
二人は声を揃えて、戸惑いまじりの返事を返した。
そこですかさず、奈菜は母に疑問を投げかける。
「お母さん、さっきのは?」
「奈菜ちゃんには関係ない」
一間もおかず母が返したのは、驚くほど冷たく低い否定だった。
奈菜の素直な疑問によって、母の機嫌が悪くなってしまったのは言わずと知れている。
誰かを殺すことすら厭わないと思えるほどの母の曇った表情。だがそれは奈菜に対してではなく、すでに誰も居ないはずの門の先に向けられたものだった。母が門に向けるその冷たい視線は、嫌悪感を隠しもしていない。
そんな母の剣のある顔を見るのは、奈菜どころか実の息子である拓也も初めてだった。
思わず固まってしまった子供二人の様子を見て、また明らかに“しまった“という表情になると、
「いいから二人とも、早く中に入って手を洗ってらっしゃい。おやつ用意してるから」
表情をわざとらしく崩しならが、いつもの優しげな口調で二人を促す。
それ以来、母はいたっていつも通りの様子だった。
おやつを食べる時も、料理を作っている時も、洗い物をしているときもーーー。
普段と何ら変わらない母の様子に、拓也と奈菜は先ほどの出来事に興味が湧く一方だった。
それでも拓也と奈菜は、たとえ母がいない場所ですら、あの時の話題を出すことはなかった。
多分それは、小学生なりの線引きがあったのだろう。
“これ以上踏み込んだら、何かが壊れる“。
心のどこかで悟ったが故に、二人はあの出来事に興味があっても、邪推するような真似はしなかったのだ。
そしてその翌日。
前日同様に拓也と奈菜が一緒に下校していると、また例の二人が門から飛び出して行く姿が見えた。
それでも拓也と奈菜は、「どうしたんだろう?」と気に留めることすら、お互いに避ける。
今の生活が壊れるのは嫌だ。
心のどこかで拓也と奈菜ーーー、いや、母を含めて家族全員が願っていることだから。
だがその翌日も、さらにその翌日も、決まって夕方の4時過ぎに例の2人は家に現れては、決まって母に追い出される姿を目にする日々が続いた。
これには流石の拓也と奈菜も、しつこいと思う以上に不安が募っていく。
多分、すでに取り返しのつかない何かが動き始めているのかもしれない。
そして奈菜は、この感覚に近いものを知っている。
それは、“また自分の周りから、人が離れてしまう“予感。
決して当たってほしくない、恐怖と呼ぶにふさわしい最悪の未来。
だがそれは、後に自らが望む形で現実となることを、この時の奈菜は知らなかった。
謎の訪問者によって、黒崎家に暗雲が流れ始めたある日の夜中。
事が大きく動き始めたのは、拓也がたまたま夜中にトイレへ行くために起きた時のことだった。
「いやよっ!そんなッ、私……」
トイレのために1階のリビング脇を通り過ぎようとした時、母のそんな一言が耳に止まった。
怪訝に思いながら、薄明かりに照らされたドアの隙間を覗き込んでみる。
するとそこには、両手を顔にあてがって俯く母と、スーツ姿の父親が向かい合うようにダイニングテーブルに座って話している所だった。
とても間に割って、話しかける雰囲気ではない。
背徳感を感じつつも、拓也はその場でそっと二人の会話に聞き耳を立てた。
「渡すとは言ってない。ただ、彼らは菜奈ちゃんに会う権利と義務がある。そこでもし仮に、仮にだぞ?奈菜ちゃんが彼らの提案を受け入れるのなら、私たちも受け入れるしかないだろ……」
「いやよ……、いや……」
とても重々しい空気に、拓哉はその場で立ち尽くす。
話題の内容はさっぱり分からないが、それが未来の黒崎家にとって明るいものでないことくらいは察しがついた。
しばしの沈黙。
そして数十秒ほどが経った時、拓也の父はその沈黙を衝撃的な事実とともに打ち破った。
「だが、まさかあの男の親が菜奈ちゃんを引き取りたいだなんてな……」
言葉を失う。
“あの男の親“。“奈菜を引き取る“。
この二つのキーワードがどう紐づくのか、この時の拓也は父の言ったことを理解できなかった。
だが、これだけは分かる。
“もしかすると、奈菜が黒崎家を出ていく未来があるかもしれない“。
それは拓也が思いつく限り、黒崎家にとって最も最悪な未来だ。
今すぐにでも、両親から話を聞きたい。
拓也がそう思った刹那、
「ねぇ……。それって、どういう事?」
急に目の前の扉が奥に開かれると同時に、震えた声で奈菜が背後から両親に説明を求めていた。
突然背後から聞こえた彼女の声に、「うわっ!」と拓也は驚きながらリビングの方へとバランスを崩す。
驚いたのは両親も同じだったようで、
「菜奈ちゃんっ⁈ 」
「聞いていたのか……」
母の驚きの声と、父の諦めの籠った冷静な声が順に響いた。
ひとまず拓也と奈菜は、父の声に対して、「うん、、、」と肯定する。
「菜奈ちゃん達には関係ないことよ、さあ、早く部屋に戻ってーーー」
少し遅れて慌てながら、そう言いかけた拓也の母親の肩に、拓也の父はそっと右手を置いて静止する。
「あなたーーー」
「触りとはいえ、聞かせてしまったんだ。菜奈ちゃんにだって、知る権利はある」
拓也の父はゆっくりと奈菜に視線を向けると、
「菜奈ちゃん、こっちにおいで」
小さく手招きしながら、そう呼び寄せる。
言われた通りリビングに入っていく奈菜の様子を拓也はただ眺めていると、
「拓哉も来い、これは大切な家族の話だ」
拓也の父は、拓哉にもそう言って呼び寄せた。
状況に理解が追いつかない拓也は、
「わ、分かった」
戸惑いつつも素直に父の言う通りにしたがって席につく。
「母さん、悪いが二人にも何か飲み物を」
「え、えぇ……」
父の落ち着いたその口調に腑に落ちない様子ながらも、母は台所に向かっていく。
そんな母の後ろ姿を見送りながら、父は徐に口を開いた。
「前もって聞いておくけど、菜奈ちゃん達はさっきの話何処まで聞いていた?」
「私を引き取りたい人がいて、その人は金融のおじさんと関わりがある人って所まで」
憶測も混じっているであろうそれを、菜奈は淡々と言葉にする。
だが奈菜が言ったその憶測は、拓也も概ね察していたことだった。
どうやら奈菜が言ったその憶測は当たっていたらしく、
「そうか、ならほとんど全部だな」
拓也の父親は言いながら、緑茶を一口ふくんだ。
そのタイミングで、拓也の母が2人分のオレンジジュースが入ったお盆を持ってテーブルに戻ってくる。
二人の前にコースターとオレンジジュースの入ったコップを置くと、拓也の母は元いた席に座った。
ちなみに今の席順は、拓也の父の隣に息子の拓也。その対面に拓也の母に奈菜と、男女別に向かい合う形だ。
拓也の母が座ったタイミングを見計らい、拓也の父は新たな話題を切り出す。
「私も最近知ったが、最近奈菜ちゃんに会いたがっている人の息子と、奈菜ちゃんのご両親は複雑な関係があったみたいでなーーー」
どこか躊躇いがちに説明を濁す拓也の父。
珍しく歯切れが悪いその様子に、拓也は気づいたことを半ば確信を持って口にした。
「それって、借金とりのこと?」
流石の拓也の父親も、拓也の一言には驚いたのか目を見開く。
それもそうだ。奈菜から直接聞かされてもいない限り知る由もない、一番デリケートな奈菜の家庭事情を息子が唐突に口にしたのだ。
「お前、何故それをーーーって……」
疑問を口にすると同時に、拓也の父は奈菜方へと視線が向けられる。
その視線に応えるかのように奈菜は頷きながら、
「はい、たっくんには全部話してます」
暗に問われた答えをそのまま返した。
「そうか……。ということは、奈菜ちゃんも知ってたのか……」
戸惑いと安心が入り交じったような表情で、拓也の父は淡々と言葉を漏らす。
奈菜はそんな父の様子に、
「はい……、ごめんなさい、話す機会がなくて……」
目の前に置かれたコップの下の方へ視線を落とすと、俯くように謝った。
恐らく息子である拓也には話して、親である父に話さなかったことに対して罪悪感を覚えたのだろう。
そんな義娘の申し訳なさそうな様子に、
「いや、いいんだ。こちらこそ辛い過去を思い出させてしまって申し訳ない」
拓也の父も淡々と謝った。
そして、肝心の本題を拓也の父が切り出し始める。
「でもそれなら話が早い。実はその例の男の両親が、奈菜ちゃんと会いたがってるらしい」
もう言葉を選ぶ必要がないと判断したのか、拓也の父はそれまであった躊躇いを捨てて言い切った。
『奈菜と会いたがっている』
その一言を耳にした奈菜の肩は、微かに震えていた。
彼女は言葉を失い、視線を下に向け続けている。
今の奈菜は恐らく、未来に向かって歩みを始めた今の環境から、一瞬で過去に経験した現実に引き戻されてしまったのだろう。
これには流石の拓也の父も、“しまった“と言わんばかりの表情を浮かべていた。
空気がより一層重くなる。
だがここで拓也は、沈黙の時間を作らないためにも、あえて父に疑問をぶつけることにした。
「それって、前に母さんが言ってた“五十島さん“って人?」
「そうよ……」
それに答えたのは、奈菜の隣に座る母だった。
相変わらず言葉を詰まらせている奈菜の代わりに、拓也は続けて口を挟む。
「なんでそんな人たちが、奈菜に会いたがってるの?」
「一言で言えば、謝りたいそうだ」
「謝る……?」
ようやく顔をあげた奈菜は、訝しむような表情で言葉を返した。
拓也の父親は無言で頷く。
「今回、奈菜ちゃんの母親が亡くなった際に見つかった遺書を機に、田辺金融を警察の方でも調べることになったんだ。まぁ案の定、奴らの事務所からは違法なものばかり見つかって、その場にいた五十島と数名の社員を現行犯で逮捕した。その後日に五十島が勾留されている留置所で、彼の両親と面会したらしいんだが、その時に奈菜ちゃんのことを五十島が両親に話したそうだ」
「だからって、別に奈菜に会う理由なんて―――」
「俺も最初は同じことを思った。だがある日の夕方に私も夫婦と会って話したら、そもそも息子が闇金で働いていたことを微塵も知らなかったらしくてな。間接的にでも人が亡くなったことに関与したのが許せなかったのかは分からないが、親子の縁を切ったそうだ」
「っ……」
想像もしなかった事実を知った二人は、ただ唖然と耳を傾ける他ない。
「その上で、あの二人が唯一知る被害者である奈菜ちゃんに直接謝罪したいそうだ」
「そっか……」
菜奈はそれだけ言うと、何か深く考え込み始める。
またも訪れたしばしの沈黙。
そこでふと、拓也は思い出したかのように、一番確認すべき問題を両親にぶつけた。
「そういえばさっき、父さんが”あの男の親が菜奈を引き取りたいだなんて”みたいなこと言ってたけど、あれって?」
またも奈菜の肩が一瞬震えた。
拓也の母は唇を噛み締めるように口を強く紡ぐ。
この話し合いの中で、一番空気が重くなった瞬間だった。
だがここで、話を濁されるわけにはいかない。
拓也は隣に座る父にまっすぐと視線を向ける。
奈菜も恐る恐るといった様子で、拓也の父に視線を向けた。
二人からの視線を受け止めざるを得なくなった拓也の父は、
「言葉通りの意味だ。実はもう一つ、あの夫婦から”奈菜ちゃんを引き取りたい”っていう申し出があった」
言葉を濁さずに事実を伝えた。
相変わらず、拓也の母は口を紡いだまま何も喋らない。
「意味が、わからない……」
拓也が思わず思ったことを口からこぼす。
そんな戸惑い混じりの息子の一言に、
「拓也もそう思うわよね!」
拓也の母親は強く同情しながら、前のめりになって叫んだ。
いつもの母親らしからぬ、必死さが声に乗っている。
そんな少し興奮気味の拓也の母に対して拓也の父は、
「母さん、少し落ち着け」
宥めるように言う。
だがそれは逆効果だったようで、
「落ち着いてなんかいられないわよ!なんであなたはそんなに冷静でいられるの⁉︎」
火に油が注がれたかのように、拓也の母はヒステリックに叫んだ。
一方の拓也の父は、淡々とした口調で反論する。
「感情的になったところで、冷静な判断ができないだろ。俺だって、本音は会わせたくもないし、すでに大切な娘のひとりを渡すなんて絶対に御免だ」
言葉に熱が篭りながらも、拓也の父は必死に自分の感情を押さえながら言った。
そんな彼の様子を、他の3人は皆少し驚いた表情を浮かべながら言葉の続きを待つ。
「でも、それを決めるのは俺らじゃない」
拓也の父は言いながら、奈菜の目をまっすぐと受け止める。
「ここまでが、さっきお母さんと二人で話していた話の内容だ。それを踏まえて、奈菜ちゃんに聞いておきたい」
首を横に傾けて、“なんだろう?“と、奈菜は拓也の父の言葉を待つ。
「奈菜ちゃんがこの家を離れるかどうかはとりあえず置いておいて、奈菜ちゃんはその2人とどうしたい?」
「どうって……」
「会いたいか、会いたくないか。もちろん無理して今答えを出そうとしなくてもいい。答えは強要しないし、もし仮に会いたいというのなら、もちろんその機会は設けようと思う」
奈菜は下に視線を俯かせ、無言でしばし考え込む。
「私は……」
言葉に詰まらせるが、拓也を含めて誰も彼女の言葉に対してを急かすことはしない。
そして数秒が経った時、奈菜は決心を固めたのか、拓也の父の目にまっすぐと視線を向けると、
「私は、会いたいです。会って、ちゃんと話を聞きたい」
自分の意思を口にした。
「奈菜ちゃん……」
否定も肯定もできず、ただ奈菜の名を口にすることしか出来ずにいる拓也の母。
一方で、拓也の父は淡々と、
「そうか、分かった」
彼女の望みを受け入れるだけだった。
「ならそのように私の方でも動いてみる。拓也もそれでいいな?」
「えっ、う、うん……」
何故か唐突に確認を振られた拓也は、戸惑い混じりに頷く。
拓也の父はそんな拓也の答えを受けるや否や、
「よし、なら今日はこの話はもうおしまいだ。夜も遅いし、皆早く寝るぞ」
立ち上がりながら言って、この場はお開きとなった。
拓也の母は、ほとんど口をつけていないコップを持って台所へ向かい、奈菜はそれを手伝う。
拓也は自室に戻ろうとリビングの扉に手をかけようとした時、
「拓也」
唐突に拓也の父に呼び止められた。
「なに?」
「奈菜ちゃんのこと、頼んだぞ」
「いきなりなに?どういうこと?」
らしくないことを言い始める拓也の父に、思わず振り返って聞き返す。
「お前は奈菜ちゃんにとって、家族の中で一番心を開いているみたいだからな。そばで気にかけていてくれると嬉しい」
「言われなくてもそのつもり」
「そうか、ありがとう」
「こっちこそ」
いつもならあまり言われることがない、父親からの“ありがとう“に、拓也はそっぽを向きながら応えた。
「それじゃあ、おやすみ」
そして拓也は言いながら、足早にリビングを後にする。
この時拓也は生まれて初めて、父親に頼られる嬉しさとプレッシャーを同時に感じた。