9.先輩達の過去(2)
薬品を染み込ませたような布の臭い。
そんな日常ではあまり縁のない臭いに鼻を刺激された奈菜は、数時間ぶりにようやく意識を取り戻した。
「んっ……、ん……?」
ゆっくりと瞼を開けてみる。
するとそこは、淡いピンク色のカーテンに締め切れられた知らない空間だった。
おまけに少し、左腕に違和感を感じる。
布団から腕を捲ってみると、腕に一本の透明な管が繋がれていることに奈菜は気づいた。
繋がれた管を辿って上を見上げてみると、そこにはよくわからない透明ない液体が入った袋が吊るされている。
見るからにそれは、久しぶりに目にする点滴袋だった。
「ここって……」
久しぶりの感覚。
久しぶりの光景。
そして久しぶりに感じた、あの胸の苦しみ。
今いる状況を概ね理解した奈菜は、自分がまた倒れてしまったらしいことに気づく。
「はぁ……」
奈菜は深いため息をついた。
どうやら自分はまた、いつもの病院の個室にいるらしい。
「私、迷惑かけてばっかりだな……」
そんな独り言を溢した刹那、2度部屋の扉が叩かれた。
奈菜の返事を待たず、扉は勝手に開く。
そこにいたのは、驚きで目を見開いている拓哉の姿があった。
まだ寝ているとでも思っていたのか、奈菜が既に目を覚ましていたことなど予想できなかったのだろう。
「もう起きてたんだ」
「うん……」
「もう大丈夫なの?」
「うん、もう平気」
お互い最低限の言葉を交わす。
「拓也くん、学校は?」
「サボった」
「え、大丈夫なの?」
「んなわけないじゃん」
「じゃあ、なんで……」
「心配だからに決まってんじゃん」
さも当たり前のように言い切った拓也のその一言に、
「心配、してくれてたんだ……」
奈菜は再び申し訳ない気持ちになりながら言った。
「当たり前じゃん、家族なんだから」
「ごめん、心配かけちゃって……」
「別に謝らなくていい」
口ではそう言いながら、拓也はどこか納得していなさそうだ。
「お前、身体弱いんだな」
拓也のその一言に、奈菜は肩をわずかに振るわせる。
下を俯いたまま、奈菜はおずおずと言葉を絞り出した。
「私、心臓に持病あるの」
奈菜のその一言に、拓也は息を呑む。
だが途中で話を遮ることをせず、拓也は静かに奈菜の言葉の続きを待った。
「生まれた時から心臓は人より低くて、このまま心臓移植しないと20歳くらいまでが限界なんだって」
「そっか……」
「うん……」
小さな沈黙。
気まずさを打ち払うために、拓也が何とか絞り出したのは、
「その、心臓移植はできないの?」
素直な疑問だった。
「本当はすぐにした方がいいらしいけど、私の歳と身体に合った心臓ってなかなか無いんだって……。それに、私たちくらいの歳の心臓移植は、大人よりもちょっと危ないらしいんだ」
「だからまだ、心臓移植できないってこと?」
「うん」
奈菜は短く肯定の言葉を返すと、毛布の裾をギュッと掴んで、
「ごめん、ずっと黙ってて」
罪悪感のせいか、小さな声で弱々しく拓也に謝った。
そんな奈菜に拓也は顔を顰めると、
「だからなんで謝るんだよ」
少し責めるような口調で言ってしまう。
一方の奈菜はどこか言い訳をするように、
「だって、今も迷惑かけちゃってるから」
「言ってるじゃん、家族なんだから気にするなって」
拓也のそんな言葉に、奈菜は強張らせていた表情を少し緩ませた。
「拓也くんは優しいよね」
「えっ」
「私てっきり、“なんで言ってくれなかったんだよ”って責められるかと思ってたから……」
奈菜は拓也が言いそうなセリフを、彼の口調に真似ながら言った。
「お前、それ僕の真似?」
拓也はジトっとした目で奈菜に問いかけると、
「ぷっ、似てないな」
拓也は少し吹き出しながら言った。
だが直ぐ様拓也の表情は、また真面目な物に戻る。
「正直、そういう気持ちはあるよ」
「じゃあ何で……」
暗に、“怒っていないの?”と彼に視線を向ける。
「実は父さんから、奈菜の事情を一通り聞いた」
「ッ……」
拓也のその一言に、奈菜は肩をビックっと震わせた。
表情がまた怖ばってしまう。
「そう、だったんだ……」
「でも父さんも漠然としたことしか分かってないみたい。ずっと大雑把なことしか言ってなかった」
流石にそっか。
奈菜は自分の身に起きた過去については、警察関係者どころか、拾ってくれた義理の父にすら話したことはない。
でも今ならーーー、彼なら話せる。
覚悟はもう決めたんだ。
「ねぇ、拓也くん」
奈菜は決意を込めた口調で、拓也の名を呼んだ。
「私の過去、聞いてくれる?」
「っ……、いいのか?」
どこか遠慮がちに、拓也は質問を質問で返す。
「うん。拓也くんには知ってほしい。ここに来るまであった事も、感じたこともーーー全部知ってほしい」
奈菜真剣な眼差しを、拓也はまっすぐと受け止める。
すぐに返事はない。
一体拓也が今何を考えているのか、奈菜には分からない。
それでも、拓也が本気で奈菜の覚悟を感じ取ってくれていることは分かった。
だから拓也は決して軽い調子で、「いいよ」とは言わない。
彼なりに奈菜のことを本気で考えてくれていることが改めて分かって、奈菜はまた少し暖かな気持ちで満たされていくのを感じた。
そんな奈菜の表情は、彼女自身も知らない間に慈しみに満ちたような柔らかなものになっていく。
一方の拓也は、そんな彼女の表情に見惚れてしまっていた。
多分出会ってから初めて見る、奈菜の微笑み。
拓也は内心で心を掻き乱されるような感覚を必死に振り払うようにして、
「……分かった。聞かせて」
彼は短くそう肯定した。
「ありがと」
拓也の了承を得た奈菜は、大きく深呼吸を一つ吐く。
そして奈菜は、今まで自分が経験してきた全て語り始めた。
突然ある日を境に、両親と過ごす時間が無くなっていったこと。
一人で過ごす時間が増えて、どこか不安な気持ちに怯えながら毎日を過ごしていたこと。
そんなある日に突然、拓也の家の近所に住んでいた闇金のおじさんが家に来たこと。
その翌日、母親が自殺してしまったこと。
その時々で感じた自身の心情も余すことなく、奈菜は拓也にありのままを語った。
一方の拓也は、そんな奈菜の静かながら、壮絶な過去を語る彼女の話に静かに耳を傾けてた。
いや、正確に言えば菜奈が語る内容を噛み砕きれずに、ただ押し黙ってしまっていたと言うのが正しいのかもしれない。
自分と同じ8歳の少女が経験するには、あまりにも壮絶で、筆舌に尽くしがたい彼女の過去。
拓也はそんな彼女の一言一言に他人事ではない痛みを感じながら、最後まで耳を傾け続けていた。
「これが、今まであったこと」
「そっか……」
言葉の続きがすぐには出てこない。
一呼吸おいて、ようやく拓也が口から溢したのは、
「強いんだね、奈菜は」
純粋に感じた感想だった。
「えっ?」
「奈菜は強いと思う」
「いや、そんなことはーーー」
「ある」
拓也は奈菜の目をまっすぐに見て、強く肯定した。
「だってそうじゃん。辛い思いしてきたのは奈菜なのに、誰のせいにもしてない。普通そう言うのってさ、勝手に置いてった父親とか死んじゃった母親を責めるもんじゃない?」
「そう言う、ものかな?」
「少なくても僕たちの年って、とにかく親に守ってもらおうって思うものだと思う。知らないけど」
「…………」
奈菜は納得はしていないのか、ただ視線で言葉の続きを促す。
「だから、その……、別に今ままでの奈菜の全部を知ったわけじゃないけどさ、もう“誰か”を気遣わなくてもいいんじゃない?」
「っ!」
奈菜は思わず目を見開く。
拓也の言う通りだと思った。
多分自分の両親にさえ心のどこかで気遣っている自分がいたのだ。
楽しそうにしている自分を見て喜んでくれる両親に、もっと喜んでもらいたい。
そうやっていつの間にか、無意識に両親の期待に応えようと必死になっていた自分がいたことを拓也が気づかせてくれたのだ。
「そう、だね……」
しみじみと噛み締めるように、奈菜は呟く。
「うんっ、ほんとにそうだ……」
心の底から納得して、奈菜は拓也に言った。
「拓也くん」
拓也は視線だけで答える。
「私、これからは無理しなくていいと思う?」
「当たり前じゃん」
「自分のためだけに、わがままいっぱい言っていいのかな……」
「むしろやれるもんならやってみろよ」
どこか挑発的に言う拓也に、奈菜は涙目で笑って見せる。
「じゃあ、拓也くんには特に、わがままなこと言ってくね」
涙を指先で拭いながら、本来の奈菜であろう遠慮のなさそうな口調で拓也に宣言した。
そんな初めて見せる奈菜の笑みに、拓也は思わず目を逸らす。
気恥ずかしさからか、顔に熱を帯びていた。
その熱を紛らわせるように、拓也は話題を続ける。
「ちなみにさ、奈菜は僕にどんなわがまま言うつもり?」
急にそんなこと言われても分からない。
んー、と考えること数秒。
奈菜が出した答えは、
「じゃあ、呼び方から変えてみようかな」
「呼び方?」
「拓也くん、ってさ、なんか少し距離ある感じしない?」
「そうかな?」
「うん、学校だったら自然かもしれないけど、その、家族……に対して君付けって、少し遠い感じがするっていうか……」
「言われてみれば確かに……」
拓也はうーんと唸りながら、
「じゃあ今度から、どう呼ぶの?」
どうしよっか?と、困惑の混じった視線を奈菜向ける。
しばし思考を巡らせる。
どうしたらいいのか分からないのは、言い出した奈菜も一緒だった。
「呼び捨てってなんか馴れ馴れしすぎる感じがするし……」
「別にいいんじゃない?っていうかそれ、わがままなの?」
「わがままじゃないかもしれないけど、呼び方が硬いままじゃ言いたいことも言いづらいっていうか……」
「確かに、そう言うことなら変えたほうがいいかも」
「んー……」
二人して唸る。
そして、
「あっ」
ふと一つ、急にある一つの疑問が奈菜の頭の中に浮かんだ。
「そういえば拓也くんって、誕生日いつ?」
「えっ、6月13日だけど、、、急になんだよ」
「私、9月20日なんだ。ってことは私の方が年下だよね」
自分の方が年下で、しかも家族。
「じゃあ、“お兄ちゃん“、とかどう?」
一番しっくりくる呼び方が思いついた。
「な、なんか、落ち着かないな……」
「? ”兄さん”のほうがよかった?」
「いや、そう言うことじゃなくて……」
どこか歯切れの悪い彼の答えに、奈菜は首を少し傾ける。
「嫌、だった?」
「嫌ってわけじゃないけど、なんかその呼び方は落ち着かないから違うやつがいい」
「んー、じゃあ拓也君はどんな呼び方がいい?」
「急にそんなこと言われても……」
お互いにしばらく黙り込むようにして考える。
すると突然、
「拓也くん、たくくん……、あっ!」
それまでぶつぶつ何かを呟いていた奈菜が突如声を上げた。
「な、なんだよっ」
「たっくんってどう?」
「た、たっくん?」
「うん!なんか拓也君って、たっくんって感じする!これで決定!」
「えっ、マジで?」
「うん!たっくんに拒否権はありません!」
困惑する拓也を置き去りにして、奈菜はビシッと人差し指を彼に向けながら、明るく威勢のいい口調で答えた。
「ま、まぁ……、いっか……」
拓也は納得はしていなさそうだが、渋々と言った様子で新しい呼び方を受け入れる。
そして、
「ぷっ」
どちらともなく小さく吹き出した。
そうだ、私はもっと我儘でいていいんだ。
そう言って受け入れてくれる拓也の存在は、今後の彼女を前向きなものにしていくきっかけだったのだろう。
こうしてこの日をきっかけに、拓也と奈菜の距離は呼び方やお互いの心理的な距離も含めて、それまでとは比較にならないほどグッと近づいた。