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ハロー、ハロー。
わたしの声が聞こえますか?
今日も良いお天気ですね。
こちらは何事も変わりありません。
お城のみんなも元気です。
城下町も平和な日々が続いています。
みんなみんな、眠っています。
国は今日も静かです。
ハロー、ハロー。
わたしの声が聞こえますか?
○
空の彼方に呼びかけるのをやめて、アンジェはそっと、ため息をついた。
城下町から国境の果てまでを見渡せる城の塔は、のぼるといつも風に髪をさらわれてしまう。豊かにうねる黒髪を耳にかけながら、アンジェはぼんやりと、静まりかえった国を見下ろしていた。
この国に眠り病が広がって、一年がたとうとしていた。
アンジェが十七になる誕生日の朝。目を覚ますと、自分以外の人たちがすべて、深い眠りに落ちてしまっていた。
両親である国王も王妃も、寝室で仲睦まじく寄り添いながら静かな寝息をたてていた。朝早く仕事をする厨房の人たちは、それぞれ手に包丁や野菜を握ったまま床に眠り落ちていた。夜通し城を見張る衛兵たちは、立ったまま頭を垂れて眠っていた。
城の中をくまなく探しても、起きている者はアンジェ以外にいなかった。そしてそれは城だけのことではなく、この国の人々までもが、同じように深い深い眠りの底に落ちてしまっていた。
どんなに声をかけても、大きな音を鳴らしても、身体を揺らしても水をかけても、一度眠ってしまった者は決して起きることがなかった。命が尽きたわけではなく、ただ静かな寝息をたてるだけ。飲まず食わずで昏々と眠り続けているというのに、不思議と命を落とす者は誰一人としていなかった。
眠り病の噂を聞きつけた近隣の国の医師たちがかけつけても、みな原因を解明する以前に、国に足を踏み入れるなりころんと眠ってしまうのだった。そしてそのまま目覚めることなく、今もこの国のどこかで、規則正しい寝息をたてているに違いない。
手薄になった国を狙う賊が入ってきたとしても、それもまた医師たちと同じように、睡魔に襲われて眠ってしまう。アンジェのいる城にまでたどり着ける者は、誰もいなかった。
かろうじて眠りから逃れて国を出た人々の口から、この国の話はすぐに広がった。だからはじめの三月ほどは、国を心配してひっきりなしに人が訪れていたけれど、今となっては病がうつると近寄る者もいない。小さな国々が集まる中で、ただ一国だけ陸の孤島になってしまっていた。
アンジェはひとり、城に残され、再びこの国が目覚めるのを待ち続けていた。
毎朝の日課は、城の塔にのぼり、目を凝らして城下を誰か歩いていないか探すこと。そして、誰かの耳に届くようにと、塔の上から呼びかけること。
――みんな、そろそろ起きませんか?
そう呼びかけ続けるうちに、すぎた日々は気が遠くなるほどに長かった。
「――こんにちは、アンジェ姫」
そんなアンジェのもとに、病を治せるという魔術師が現れたのは、つい最近のことだった。
ロイ、と名乗った魔術師は、アンジェとさほど年の変わらない、精悍な顔つきをした二十歳前後の青年だった。
「あいかわず今日も、この国は静かだね」
「起きてるのは、わたしとロイだけよ」
普段は吟遊詩人として諸国を漫遊している彼は、風の噂にこの国を知り、好奇心で立ち寄ってみることにしたらしい。自分は眠り病にかからないことに気づき、国の中を散策しているうちに、かすかに聞こえてくるアンジェの声に呼ばれて出会ったのだった。
「ざっと歩いてみたけど、やっぱりみんな、すやすや寝てたわ。よくもまぁ、飲まず食わずで一年も眠れるもんだよな」
砂漠の砂のような黄土色のローブに身を包み、背中に古びたギターをかけた姿で、『この国を助けにきた』と言われても、アンジェははじめ、素直に信じることができなかった。
今まで手の施しようのなかった奇病を、こんな若い魔術師に治せるわけがない。いずれ彼も眠ってしまい、城に来なくなるだろうと思っていたのに。ロイは隣国に滞在を決め、毎日アンジェのもとを訪れてくれるようになった。