大切なあの子、クリス
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離宮。それは、エリナがまだエリスティナだったころに住んでいた場所だ。
あの頃にはつらい思い出しかなかったが、今の離宮は季節のたくさんの花が咲き乱れる庭園になっているらしい。
竜王であるクーが、この場所をどうして重要視して花を植えさせたのかはわからない。
知らないからこそ、少し興味がわいたのかもしれなかった。
「わあ、綺麗ねえ!」
「本当に」
日傘をさしてくれるダーナの隣を歩きながら、エリナはすっかりあの頃から様変わりした離宮の庭を眺めた。
ネモフィラや薔薇、スズランやポピー。
色とりどりの花が咲き誇り、一面に青や赤、白の美しい花壇が広がるそこは、たしかに離宮というよりは庭園といったほうが正しい様子だった。
その一角に、当然のように綿毛をふわふわと揺らしているタンポポがほほえましくて、エリナはしゃがんで綿毛の一つに手をそえる。
ふんわりとほどけて飛んでいく種がかわいらしい。
「ダーナ、どうしてここにはこんなに花が植えられているの?」
少なくとも、エリナがエリスティナだったころはここはうらぶれていて、花の一輪だってありはしなかった。エリナが野菜ばかり育てていたのもあるけれど。
そういう極限状態の離宮ばかり知っているから、今のこの庭園には違和感すら覚える。
ダーナは、少し寂しそうな顔をして言う。
「竜王陛下の、大切なお方が住んでいた場所だからです」
「大切な、かた」
――まただ。
脳がきしきしと歪むような痛み。うずくようなそれは、いつもわずかな鐘の音とともにやってくる。
ぐるぐる回る視界に、目を閉じる。
竜王陛下の大切なひと――育ての親――離宮に住んでいた。
もう少し、もう少しで何かがつながりそうなのに、からん、からんと響く鐘の音に邪魔されて、浮かんだそばからかき消されてしまう。
思い出して――思い出したい。思い出さないといけない。
エリナは目をぎゅっと閉じる瞼に力を入れる。
ダーナが「エリナさま?」と心配げな声をあげる。それに大丈夫よ、と手をあげて、そして。
ふっと懐かしい気配がした。
はたと目を開けたエリナは、呼ばれている気がして振り返る。
懐かしい?違う、これは懐かしい、とか、そんなものじゃなくて、もっと近しい、そう、自分自身を、鏡で見たときのような感覚。
そこには――そこには、白く、よく磨かれているらしい石。こぢんまりとしたその石は、墓石のようだった。
たくさんの花に他よりずっと多く囲まれて、まるで花に埋もれるようにして鎮座している。
エリナは恐る恐る墓石に近づいた。
名前、名前が、知りたかった。この墓の下に眠る人の名前――が……。
……はたして。
「最愛の人、エリスティナ・ハーバル」
字を指でなぞるようにして読み上げる。ダーナがはっと息を呑む音。エリナを案じているのがわかって、だからエリナは大丈夫よって、そう言わないといけないのに、ああ――ああ――!
エリナの眦から涙がこぼれる。
頭が痛い。がんがんと鳴る頭、からんからんと響く鐘の音。
この鐘が、エリナの記憶を邪魔しているのだ、エリナは頭を振って、その場にしゃがみこんだ。
「エリー!」
遠くから、エリナの様子を見ていたのだろう、クーの声がする。近づいてくる。
さっき分かれたばかりじゃない、と笑わないと。ああ、でも、今それどころじゃなくて。
あと少しで手繰り寄せられそうな記憶の欠片に手を伸ばす。
背の高い薔薇の生垣に見下ろされている。不安に目を揺らしたエリナを抱き留めるようにして両の腕で包んでくれたのは、誰より、何より慕わしいひとで――大好きな――守りたかった――愛してもいい、大切なひとで。
「ああ……」
エリナはその空色の目に涙をためた。たたえた涙がすぐにこぼれる。あとからあふれてやまない。
はちみつ色の髪が風にそよいでいる。
どうして、どうして気付かなかったのだろう。
答えはずっと、ここにあった。会いたかったあの子は、ずっとここにいてくれたのに。
「エリー、どうしたんですか」
「……ス」
「え……?」
最初にこぼした声は、ささやきのようになってしまった。
震えた声が、もう一度を繰り返す。
「クリス……」
クリスの、緑色をしたアーモンド形の目が驚きに見開かれる。
エリナはその背に手を回して、縋り付くようにして抱き着いた。
「クリス、クリス、クリス……!」
「エリー、僕のことが……?」
「クリス、ずっと、私、わからなくてごめんなさい、ずっとあなたは死んだと思っていたの、もう会えないと思っていたの、ずっと、会いたくて、でも、あなた、ねえ」
顔を上げる。クリスの目を視線がまじりあう。生きている目、あの子と同じ色をした、クリスの、クーの、大好きな、慕わしい目。
「生きていてくれて、ありがとう」




