侍女と人間貴族
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次に目を目を覚ますと、黒髪の、目元のやさしい女性が沸かした湯をバスタブに流しいれているのが見えた。
眠ったおかげで頭はすっきりとしている。
シーツに手をついて起き上がると、黒髪の女性が起きたエリナに気づいてぱあっと笑顔になった。
「目を覚まされたのですね」
少し目じりにしわの寄ったふくよか女性は、その豊満な体でエリナを抱きしめる。
前世、今世とも――今世に関してはエリナは母の顔も知らない――母と似たところの何もない女性だが、その抱擁には母親の懐かしさを感じた。
「ぷは、ええと、はい。あなたは?」
「ああ、申し遅れました。私はダーナと申します。ダーナ・ウィロウ。竜王陛下にやとわれた、番さまの侍女ですわ」
「侍女」
「身の回りの世話をする女性のことです」
侍女を知らない、というわけではないけれど、平民だから知らないかも、と思われたのだろう。ダーナと名乗った侍女は、にこにこと笑いながら侍女について説明してくれた。
けれどそのまなざしにはただただ優しい色が宿っているのみで、エリナへ対しての蔑みだとか、嫌味だとかはなかった。
「さ、シーツを変えましょうね。その前にお風呂に入りましょうか。服はこのままがよろしければ、急いで洗濯をしてまいります」
「え、あの」
「もちろん、竜王陛下がご用意された素晴らしいご衣裳もありますから、番さまさえよろしければ、そちらをご用意させていただきたいのですが……」
「……まず、番さま、というのをやめてもらえませんか?」
「ああ、慣れない呼び名は気後れしますわよね。ええ、ええ、かまいませんとも。エリナさまとお呼びしても?それから、私は侍女ですから、エリナさまが敬語を使う必要はございませんわ」
「……わかったわ」
エリナに対して、ダーナはひたすらにやさしい。
いつくしむような目は、まるで娘を見るようだった。
「ダーナ、お風呂に入りたいの。手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん!」
ダーナに導かれて、湯を張ったバスタブに肩まで浸かる。
ふう、と息をつくと、ダーナがエリナの体をマッサージしてくれる。
バスタブに数滴こぼした香油の香りがふわりと広がって、エリナは頬をほころばせた。
「薔薇の香油です。お気に召すといいのですが」
「ありがとう、とっても気持ちいいわ」
「それはよかったですわ」
エリナが笑顔でお礼を言うと、ダーナも目じりのしわを深めて微笑んでくれる。
「ねえ、ダーナ、聞いてもいい?」
「なんなりと」
「ダーナは、どうして私のわがままを聞いてくれるの?」
「出会ったエリナさまが、とても素敵な方だったからですよ」
ダーナは言って、でも、と付け加えた。
「最初は、竜王陛下のご命令だから、だったのです。もちろん、こうして少しお世話しただけで、エリナさまが愛らしいお方だとわかりましたから、お世話をするのが楽しくて、こうしていますが」
「竜王陛下の?」
「ええ」
「エリナさまの願いはできる限り叶えて差し上げてほしい、大切な、本当に大切な方だから、と、私や、メイド、厨房の人間のような使用人にまで頭を下げて。ご命令、というより、お願いに見えましたわ」
このように、と言って、ダーナは右手を曲げて、手でお辞儀をするような仕草をした。
その表情は、とてもいつわりを言っているようには見えない。
竜王が……この世界の最強の存在が、頭を下げた?
かつての竜王リーハでもそんなことはしなかった。
エリナが怪訝な顔をすると、ダーナはそうですよねえ、と笑う。
「不思議でしょう。最強の竜王陛下が、って。でも、本当なんですよ」
ダーナはエリナの髪を、薔薇の匂いのする髪用石鹸をつけて泡立てながら、少ししわの寄った手でやさしく撫でた。
「エリナさまは本当に愛されておいでですわね」
「そんな、こと……。きっと、番に生まれなければ、そんな風にやさしくされないわ」
人間貴族だったエリスティナ。番でないというだけで虐げられた過去が首をもたげて、ちくちくと今のエリナの胸を刺す。
人間貴族……人間貴族?
ダーナ・ウィロウと名乗ったダーナ。その家名に覚えがあって、エリナはぱっと顔を上げた。
「ウィロウ……って、人間貴族の?侯爵家の、ウィロウ家?」
「まあ、よくご存じですのね。ええ、そうですわ。ウィロウ家は侯爵家です。私はウィロウ侯爵の妻ですの」
人間貴族は竜種の家畜だ。
きっと、ダーナもつらい思いをしてきたのだわ、と痛ましい気持ちになってエリナは目を伏せる。
けれど、ダーナはあっけらかんと続けた。
「もっとも、人間貴族、という言葉は、もう20年も前に廃止されてしまったのですけれど。エリナさまは歴史にも明るくていらっしゃるのですね」
ダーナはそう言って、エリナの髪を桶に張った湯で流していく。
エリナの、深紅より少し薄いような赤い髪が、泡から現れ、その色を濃くしている。
「人間貴族が、廃止?」
「ええ、その通りです。ご存じなかったのですか?」
意外そうにダーナが目を丸くする。
人間貴族という言葉を知っていたのに、廃止されたことを知らない、アンバランスな知識を不思議に思ったらしい。
「今代の竜王陛下が、人間貴族という制度を嫌って廃止なさったのです。私がまだ若い時分のことでしたが、それはもう大騒ぎになって」
「人間貴族は、竜種の家畜、だもの」
「だった、ですわ。エリナさま」
ダーナがエリナの髪をふかふかのタオルで拭う。面白いように水を吸うタオル地は、エリナの知るそれよりずっとずっと高価なのだろう。