祝祭と花嫁と、交声曲 上
『大丈夫。無駄に苦しめる気はないよ』
突きつけられた刃の鈍い光。それは明らかにフリデリケの命を奪うためのもので……どうしようもなく恐ろしかった。フリデリケはいつだって臆病で、死を前にして毅然としていられるほど強い人間ではなかったから。
ただただ怖くてたまらなかった。
『すぐに終わるから』
この凶刃が私の体に沈んで、それで終わり?
恐ろしかった。こんなふうに死にたくなかった。
だって、なにより……。
────あなたにあえないままのおわりはいや。
どうしても、それは嫌だった。
せめて歯がカチカチ鳴るのをおさえようとしながら、フリデリケは彼のことを考えた。彼女の髪をすくときの手付きや、振り向くときに揺れる耳飾りのこと。黒っぽい前髪からのぞく冷たい横顔のことや、読み取れない感情をそれでも確かに映す瞳のことを。
これが最期なら逢いたいと思った。呼ばなかったのは、ただ、それがわがままでしかないと理解していたから。
わがまま。身勝手な願い。そう、そういうものだ。死ぬべき時に救ってもらい、こんなにも長い間そばにいさせてもらえた。望外の、ありえないほどの幸せ。
────なのに、それ以上を望むことなんて、どうしてできる?
だから……彼があの物置小屋に来てくれたとき、フリデリケは本当に嬉しかったのだ。幸福だった。彼の瞳はいつもの通り炎のようで、いつもよりさらに不機嫌そうだったけれど。
彼がいれば怖いものなど、もうひとつもなかった。
恐怖は消え去った。彼のそばで、その姿を見つめたまま終われるのならば、それだけでもう充分だと思った。
そうして意識を手放したのに。────……彼はまたフリデリケの命をこの世に繋ぎ止めたのだ。
目を覚ました彼女を見下ろし、かすかに苛立ったように「今は笑うな」と言ったグラオザーム。それ以上は何も言わなかったけれど……フリデリケはそれからずっと、彼が怒り続けているような気がしてならないのだった。
──でも、何に対してなのかがわからない。
*・*・*
その日、町は領主軍による盗賊団掃討の報に沸いていた。神と英雄の名が叫ばれ、凱旋する軍隊をひと目見ようとする人々が町の門へと向かって行く。
フリデリケが開け放した窓から外を見渡せば、多種多様な人種の行き交う大通りが見えた。天では大きな太陽が自らの存在を誇るように輝き、地上に金の光と黒々とした濃い影をばらまいている。空から降った光は、家々の砂色の壁や人々の宝飾品の上で砕け、生き物の歓喜を乗せて世界へ散らばってゆく。
隊商に混ざって砂漠を越えたのは、すでに数週間前のことであったが、この町は未だその名残をとどめているようだった。いや、砂漠のだけではない。交通の要地であるこの町は東西南北あらゆる地の要素で溢れていた。
陽光降り注ぐ混交の町……。
フリデリケは窓辺に手を置いたまま、より眼下を見ようと身を乗り出した。この地方の特徴である直線裁ちの鮮やかな色の長衣と、下ろしたままの髪が乾いた風に揺れる。
「ピギョ!」
窓から転げ落ちそうにでも見えたのだろうか。寝台で飛び跳ねて遊んでいた小さな鳥が慌てた様子で飛んできて、焦げ茶に染まった髪を銀のくちばしで引っ張った。
「っ……大丈夫ですよ、バル」
呼んで、安心させるようににっこりしたフリデリケはけれど、外を見ることをやめはしなかった。小鳥のバルもやがてあきらめたように、髪をくわえたまま彼女の華奢な肩に止まる。
そうして一緒に賑やかな往来を見下ろす一人と一羽が共に想い、探すのは同じ人物の姿だった。
グラオザーム……
思い出すのは、砂漠の旅の途中のこと。どこからかまっすぐに飛んできた青い青い鳥と、それを指に止まらせて『来たのか』とだけつぶやいた彼──グラオザーム。
かの魔術師はこの町についてすぐに姿を消し、バルと共に宿に残されたフリデリケは、もう十日以上も彼の姿を見ていない。彼が彼女の前から姿を消すことはままあることであったが、これほど長いのは珍しかった。
残された彼女は、隣室に泊まっている学者に言葉と読み書きを習い、下の階に居候している歌姫に歌を習い、時には彼女と共に宿の女将に料理を教わり、近所の子供たちと遊び……暇さえあれば魔術師の姿を探して。そうして過ごしてきたのだけれど。
「どこに行ったのでしょうね」
「ギギョ」
何十回めかの独り言にも、バルはいつも通り可愛らしく首をかしげてみせるだけ。去り際のグラオザームに「彼女のそばに」と言われた賢い小鳥は、忠実にその言い付けを守っていた。
賑やかな室外とは反対に部屋の中は静まりかえり、薄暗い室内で万に砕けた陽光の欠片が舞っている……。
と、この二階の隅の部屋まで一直線に駆けてくる慌ただしい足音が聞こえた。魔術師のものではない。もっと軽い、けれど聞き覚えのある足音だ。
「リーケちゃん!」
「ひゃ、マカレナ……!?」
扉を叩くことも忘れたように、金茶の髪を乱して勢いよく飛び込んできた娘マカレナが呼んだのは、フリデリケの偽名だった。やや日に焼けた美しい顔を歓喜で紅潮させた少女は、そのままフリデリケを押し倒そうとするかのような勢いでに抱きついてくる。実際後ろに壁がなかったらフリデリケはひっくり返っていただろう。
「どう、したのですか、パレードを観に行ったんじゃ……?」
「ヤダあんな人混み行かないわよ! そんなことよりっ」
再びフリデリケの背が壁に当たる衝撃に、肩に止まっていたバルが飛び上がったが、マカレナに鳥を気にする余裕はないようだった。
「ねリーケちゃん、聞いて聞いて! ドナトが言付けをよこしたの。『領主様が取り立ててくださるそうです。夜には会いに行きますから、それまでにこれからどうしたいか決めておいてください』だって!!」
「わ……ということは」
「そうよ、あの馬鹿ようやく腹を括ったんだわ! ドナトったら、あたしが決めていいって言うのなら、当然結婚してもらうんだから」
ドナトという名前は窓の外で盛んに叫ばれている。それは今回の盗賊討伐に一般から志願して参加した剣士であり、最も手柄を立てたという勇者であり、そしてこの町で最人気の歌姫マカレナの恋人の名であった。
フリデリケはまだドナト本人に会ったことはなかったが、この同年の友人がずっと花嫁衣装を縫い、宿屋の主でもある叔母夫婦と共に式の準備をしていたことは知っていた。もちろん──マカレナが毎夜神々に彼の無事を祈っていたことも。フリデリケはにっこり笑った。
「おめでとうございます、マカレナ」
「ありがとう、リーケちゃん」
やや訛りのある抑揚で紡がれる祝福の言葉に、マカレナもちょっと体を離して、幸せそうにほほえみ返す。
「式には絶対来てね」
「ええ。もちろん。……でも、いつ?」
「あら、もちろん明日からよ」
さも当然とばかりに町一番の歌姫は言った。
「せっかくドナトがやる気になってるんだから、逃がすわけにはいかないわ。ちゃちゃっと済ませないと、また尻込みしだすにきまってるんだから」
やる気満々に腕まくりまでしだすマカレナに、フリデリケは小鳥のバルと顔を見合わせ、また笑った。後ろでひとつにくくられた歌姫の髪が揺れると、部屋中が光で満たされるかのようだった。色味自体はフリデリケの地毛のほうが明るいが、フリデリケの髪がそんな特殊効果を出したことは一度もない。
刺客の存在を恐れて宿に引きこもっていたフリデリケに話しかけ、歌を教え、外に連れ出してくれたこの歌姫マカレナは、そういう滅多に人が持たないような、特別な輝きを纏った少女だった。……幸せがとても似つかわしい。
そんな彼女は腕まくりを終えたあと、ふと真顔になって、似合わない焦茶の髪をした友人の、この地のものではない空色の瞳を見た。
「リーケちゃんの待っている人は、何か便りをくれた?」
「……いいえ、まだ……ひょっとしたら、討伐隊に混ざっているのではないかとも考えたのですが」
「その人、腕は立つの?」
「とても……」
フリデリケは瞳を伏せた。旅の途中、時々いなくなるグラオザーム。いつもまとわりついている微かな、薄れても決して消えることのない血の臭い。尽きない路銀。残酷の名。そう、彼は……。
「とても、強い人です」
哀しいくらいに。
辛いような響きをまとった答えにマカレナはわずかに首を傾げた後、何かを悟ったように、控えめに「そう」とだけ言った。それからフリデリケのためにか、つとめて明るい声を出す。
「うん、やっぱりリーケちゃんって私に似てるみたい。大丈夫、大丈夫よ! 夜にドナトが来たらその人のこと聞いてみよ。もしかしたら知ってるかもしれないし」
「はい……」
「ああもう暗い顔しないの。ね、今女将さんが明日のためのお菓子を作ってくれてるの。一緒に手伝いに行きましょうよ」
頷いたフリデリケの手を取ってマカレナが駆け出した。
二人のまとう、よく似た長衣の裾がひるがえる。階段の踊り場まで来たとき、足を緩めることはないままながら、ふとフリデリケが聞いた。
「あの、マカレナ、私とあなたが似てるって……?」
マカレナも足を緩めず、振り返りもしないまま首を傾けた。
「んー。正確には、愛してる人のタイプが似てる気がしたの。……強くて、不器用で、ひどい男なんでしょ」
「そんなことは」
「そう? ドナトはひどい男よ」
握った手にかすかな力が込められたが、それ以上にフリデリケは友人の声に込められた感情に驚いた。明日花嫁になる歌姫は、暗い響きをもった声でフリデリケを見ないまま続ける。
「ドナトは────わたくしの家族を殺したの」
*・*・*
盗賊退治における『英雄』あるいは『勇者』ドナト・オロスには、街道の安全を手に入れて上機嫌の領主により、それなりの地位と、町の中の一軒の家とが与えられた。根無し草の生活を送っていたような人間なら、なかなかの確率で有頂天になりそうな状況である。
しかし彼が一旦領主の執務室から退出し祝宴の準備のため与えられた部屋に入ったとき、すでにその眉間にはしわが寄っていた。しかもそのしわは室内に視線をやった瞬間倍の深さになる。
「……………誰だ?」
視線の先には闇色の人影。室内にはすでに先客がいたのだ。手伝いは断ったから、館の人間ではない。だが、警戒するドナトのほうへゆっくりと振り向いたその顔は…………知ったものだった。
あまりにも印象的な、炎のごとき目をした男。
「あんたか」
警戒を解き、上着を脱ぎ捨てながら、ドナトはソファーに座る彼に声をかけた。ある日ドナトの前に現れ、どういった手段でか討伐隊が戦うべき盗賊の数を、ひそかに、あっけなく五分の三にまで減らしてくれた男だ。ついでに盗賊達が溜め込んでいた財宝の三分の二を、報酬だと言って無断で持っていった男。
ドナト以外の前に姿を現さなかったこともあるが、それだけでなく、なんとなくひと目見たときから同類意識のようなものを感じて気が合った。……とはいえ、だからといって正体やら名前やらはべつに知らない。もちろん、ここにいる目的も。
「何しに来た。俺の代わりに祝宴に出る気にでもなったか? 真の今回の一番の功労者はあんただからな」
「功労者?」
男は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの目つきをした。
「……お前は明日結婚式だと聞いたが、祝宴になど出ている暇があるのか」
「出たくなくとも、祝宴の主役扱いらしいから出ないわけにもいかないだろう。だいたい、たとえ宴に出なくても良いと言われたところで、彼女のもとに戻るのには盗賊十人を一度に相手にする以上に気合が必要で……って……は? 結婚式? 明日!? 俺が? 誰と? どこで聞いた」
「来る途中至るところで耳にした。歌姫が相手だとか」
「そ、そうか、いや、それは俺で間違いないな。俺以外だったら困る。困るが、しかし……結婚か。やはり彼女はそれを望むか。もちろん俺の望みも同じだ……が、そうか明日か、明日……」
悪い冗談だ、とドナトはうめいた。気乗りしないわけではなく、逃げる気もないが、なんとなくせめて三日くらいは猶予が欲しかった。今すぐ盗賊の残党が暴れだしてくれないだろうか。今ならたとえ相手がどんなにヘボくても、なんとか三日稼いでみせる自信があるのに。
グラオザームは頭痛でもしているらしいドナトから視線を外し、勝手に淹れた茶を一口飲んだ。べつに、何かを言うつもりがあってここに来たわけではない。町に戻ってきても宿屋に────彼女のもとになかなか足が向かない理由は、たぶんこの男と似たようなものだった。
『……グラオザーム』
柔らかな幻聴から逃れるためであるかのように、もう一口、暗い色をした茶を飲み込む。薬効のある茶葉独特の苦味が口腔に広がった。
「──私がここに来たのは、先日お前の語った話に興味があったからだ」
「俺が? いつ」
「首領が森の中を逃げ回っていたとき。大切な女性の家族をその手にかけたと言っていた」
「ああそれか。だがそれならあれ以上特に語れることはないぞ」
今は宿で待つ、大切な大切な、じきに自分の花嫁となる娘の故郷。かつて仕えた地主の家。そこで令嬢と恋仲であることが主の耳に入り追い出され……。路頭に迷った末に山賊の仲間になり、何度目かに襲った馬車の中にいたのが懐かしい地主一家だった。
地主とその妻が死んだのは半分近く事故のようなものだったが、彼らを守ることなく、ただ令嬢のみをかばい、さらって逃げたのはトナドの意思で。
彼らは逃げた。ふたりきりで。
国境を越え、遠く遠く……。
「俺は彼女を絶望から引き上げるために、俺を憎むようにしむけた。実際彼女は……憎んでいたよ。でも、それでもマカレナは俺のことを愛してくれていた。そして、だからこそ、どうしようもなかったんだ。『殺してちょうだい』といわれたこともある。あの笑顔で──俺に。その時の最悪の気分がわかるか?」
グラオザームは沈黙を保っていたが、彼を見たドナトは一瞬、相手の瞳の奥に自分がかつて持っていたのと同様の、仄暗い色を見た気がした。同様の……負の感情。それはドナトが初めて彼に相対したときに感じた、奇妙な共感の中身を確信させるものだった。恐らくは、相手にとってもまた。
ゆえにドナトは続けた。
「それから幾千もの夜が過ぎた。万もの出来事があった。気付けば彼女は評判の歌姫になってて、俺たちは昔料理人と駆け落ちしていなくなったとかいう、彼女の叔母のいる町になんかたどり着いていた。そして結局俺たちは愛し合ってた。だから──それで、このあたりで落ち着くかということになって、俺は領主の私兵に志願したというわけだ」
「……そうか」
もとの読み取れない炎の色に変わった瞳が、話を終え口を閉じたドナトを見ていた。無言の彼と目を合わせ、数秒間考えたあと、ドナトは言う。
「結婚式、来たければ来るといい。べつにあんたひとり増えたところで彼女は気にしないだろうから」
しかし明日か……と、もう一度天を仰いでつぶやいたドナトが再びソファーを見たとき、すでに男の姿は消えていた。