宿屋の刺客の、追走曲*下
音にすると「てくてく」というより、王女様の歩みは「とんとっと」といった感じだった。
足の速い人に合わせるのに馴染んでいるような、どこか跳ねゆく小鳥みたいな印象の後ろ姿。だからといって、べつに軽やか、という表現が似合うわけでもないけれど。
強いて言うなら……そう、雨音みたいな。
注意していないと耳にも入らない自然の音。聞こえても、たいして人の注意をひくことない地味な音だ。
――――やはり、あの特別なひとが興味を覚えるような、何かを持っているとはとうてい思えない。
王女様は市場通りの人混みに溺れるように、ときおりうっかり流されながらもどこかに向かっている。
その小さな姿が何度目かに流され、横道に押し出されたとき、見かねたヴァルトは彼女に近付いた。あまりにも尾行しにくくて、おまけに不憫だったから。
「あー、そこの可憐なお嬢さん」
数歩ぶんの距離を詰める間考え、結局、こちらの大陸の公用語で話しかける。同時にそっと肩を叩けば、王女は振り返り、大きな目をきょとんと見開いた。
「……わたし、です?」
「そうきみ。どこへいくんだい」
「あ、なた……は、どこか会ったこと?」
ぜんぜん慣れていないのがよく分かる、少し震えたかたことの声だった。瞳の奥には幼い子供が人見知りするような、他人に対する不安と怯えが覗いている。
それが生まれたときから安穏と、王女として守られるのに馴れきっている証拠のように思えて。――――ヴァルトはなんとか表情を苦笑の形に整えた。
「そんなに警戒しないでよ。同じ宿に泊まってるんだから。うーん、ギタって言ってわかるかな? 宿屋の娘なんだけど。俺はその友達で。彼女、病み上がりのきみがひとりで出かけるのを見かけて心配しててさ」
ゆっくりと聞き取りやすいように、べつに嘘ではないはずだがテキトーな理由を話してやると、長いまつ毛が一回ぱたんと伏せられた。
王女が理解するまで数秒。
戸惑ったように開かれた目がヴァルトを見上げる。
淡い色の唇から発せられた「ごめんなさい」 だけは、全然かたことに聞こえない見事な発音だった。
「大丈夫です、わたし健康」
「うん。でも言葉も不自由なのに、きみみたいなお嬢さんがひとりじゃ危ないな。どこいくの?」
「あの……あちら、店」
「ん?」
ひとり、というところを否定されなかったのに、心のなかで微かに安堵しつつ、指し示された方角、市場の向こうを見やる。この方角で、王女様なんかが用事がありそうなところは……。
「もしかしてジャミラ宝飾店かな」
知っている中で一番の高級店の名を挙げれば、案の定王女様はこくりと頷く。普通の女の子たちと変わらないなと、ヴァルトは普通の少女に対するように「じゃあ連れて行ってあげるよ」とにこやかに言う。
やはりどこか警戒するように不安げにしながらも、宿屋の娘の知り合いだと言ったおいたおかげか、王女がまた頷いた。そういえば、とヴァルトは思う。
――そういえば、ギタが宝石を身に着けているのを見たことがないけれど。
欲しいと言っていたこともない。ヴァルトが会うときの彼女は、いつもヴァルトの瞳みたいな青い服を着て、黒髪で、それだけで魅力的だ。
でもたまには、あの黒髪に似合う髪飾りでも買って行ってみようかな。懐の硬貨の種類と枚数について考えつつ、王女様をうながして歩き出す。
ちょっと盾になるようにして歩いてやれば、王女が人混みに流されることはもうなかった。
「ジャミラの扱う宝飾品は一流で、王様のお妃たちなんかにも人気だって話だよ。何がほしいの?」
歩調を合わせながら聞くと、王女は不思議そうな顔をしながらも、恥ずかしそうに、何か首飾りでもとつぶやく。買えるかどうかわかりませんけど。
「もしかして買い物したことがないのかな」
「……あまり」
「じゃあいつもはお連れさんが買ってくれてるんだ。ふぅん、いいな。なのに今日はひとりなんだね」
「いつも、世話される、してる、から」
だから、お返しを。うつむいて頬を染めた王女様。
ではこの小さな王女が買おうとしているのは、あのひとのための物なのだ。自身のための装飾品でなく。
我慢できなくなったヴァルトは、王女がこちらを見ていないのをいいことに、にせものの微笑を消した。
「お世話になっているひとへの贈り物か。じゃあ俺も選ぶのを手伝ってあげるよ。確か男のひとだもんね」
声だけは朗らかに提案する。すると王女がぱっと顔を上げたので、慌ててまた微笑を顔に貼り付けるはめになった。その違和感にも気付かないらしい王女の瞳は、困惑だか申し訳なさだかでいっぱいだ。
「いいの、ですか?」
「うん、きみさえ良ければね。気にすることはないよ。かわいいお嬢さんの役には誰だって立ちたいものだから。ああ、着いた」
二歩ぶん前に出て店の扉を開けてやる。王女はやはり謝罪と同じく、そこだけかたことじゃない「ありがとうございます」を言った。
ヴァルトも彼女のあとについて店内に入りながら、そういえばいくら持ってるのと小声で聞く。もっと小さく、この国の金貨一枚ですと返ってきた。
思わず片眉を上げる。
使いやすい銅貨でも銀貨でもなく、金貨。
一瞬、高価なものしか周囲に置かない身分だった王女様が、あのひとに頼んだのかと思ったけれど。すぐに、やはりなんだかそうではないという気がした。
――――どうして。
昔むかし、ヴァルトはあのひとの背を追って走った。森の中で必死に手を伸ばして、待ってと叫んだ。助けてと。体が衰弱していたため途中で倒れ、目覚めたら、あのひとの師匠である賢者が微笑んでいた。
元気になったヴァルトは、ちょろちょろとあのひとの後をついて回った。とてもとても幸せだった。
……何が違うのだろう、とヴァルトは思う。やせっぽっちで死にかけの、捨て子だった自分と、この貧相な少女と。いったい何が。
あのひとにとって、決定的に何かが違うというのは感じるのに、肝心の何が違うのかわからない。
「あの、これは?」
「えっ」
ヴァルトははっと我に返った。どこかの奥方や令嬢や、その侍女らしき人々でそこそこ混雑した店内。そんな中でも何とか浮いて見えないという程度の、地味な薄い外套姿の王女様が不安げに彼を見上げている。
いままでの思考をごまかすように、労働を知らない白い指が示す先に視線を移した。壁には数多くの宝飾品が吊るされていたが、王女が選んだのは、ひときわ素朴な首飾りだった。銀の鎖と赤い色石。
どこか、賢者の死と共に壊れてしまった耳飾りを彷彿とさせるような、深い色合いの石だった。だが……そういえば宿で見たあのひとは、魔術師ゆえかまだ壊れていないあの耳飾りを付けていた。賢者によって守護の魔術のかけられていた、お守りの耳飾り。
「……うーん、綺麗だけど、ちょっと贈り物としてはどうだろう。こっちのがいいんじゃないかな」
なんだか気に入らなくて、ぜんぜん違うものを指差す。世間知らずの王女様は素直に目を移した。
黄金の鎖、青、黄、紫、とりどりの宝石たち。
次々にその視線を誘導していきながらも、ヴァルトはちゃんと、王女が最初に選んだもの以上に、あのひとに似合うものがないことを承知していた。
だから結局、王女は決めることができなかったのも当然だったのだ。しょんぼりと謝る彼女を口先だけで慰める。
「またの機会にすればいいよ。ね、宿にもどろうか」
店から出て、道を歩く。市場の人混みに踏み込む前に、もうヴァルトは決めていた。手は勝手に武器の位置を確かめている。
即席の計画を行動に移したのは、宿のすぐそばでだった。宿の中には入らず、王女を裏手の物置になっている建物に連れこんだ。
馬鹿な王女様は、もうヴァルトを信用することに決めてしまっているのか、きょとんとしているだけで、大声を上げることもない。
「どう、したの……です?」
「わからない?」
高いところにある小窓から漏れる陽光以外、なにも光源のない場所で、ヴァルトはにんまり笑った。取り繕うのはもうおしまい。彼女の母国語で話しかける。
「――ずいぶん遠くまで逃げてきたものだよね。まあ、すごいのはきみじゃないんだけど。とりあえずここまでだよ、グリューエンの第九王女様」
「あなたは」
王女の大きな目が、信じられない、というふうにさらに見開かれた。ヴァルトは使い慣れた短剣を取り出しながら、ころんと落ちそうだな、とそれを眺めた。
「もう追っ手はいないと思った? 残念。きみの家系の血って特殊なところがあるらしくて、生きてると不安だって人がいるらしいんだ」
壁際に王女を追い詰めて話しながら、自分でああそうだ、そんな話もあったっけと思い出している。古代の魔術だかなんだかと関わる血だとか。
もしかして、あのひとがこの王女を連れているのはそれが理由だろうか。震える少女を見下ろす。薄明かりの中とは言え、何かの実験などに使われているようには到底見えない。傷のない皮膚、純粋な瞳。
――――ああ、また違う。
どん、と王女の背と頭が壁に当たった。
がたがたと無様に震える胸に短剣を突きつける。傷つけてもいないのに、簡単に恐怖に囚われるような、こんな小娘が。どうして。
「本当は殺さないでもいいかなって思ってたんだ。でもやっぱりやめる。前金ももらっちゃったし。それに俺、あんたのこと嫌いだ」
髪を乱暴に掴み、酷薄に微笑む。ひとりで生きていけるようにしてくれた剣の師も、優しい目をした賢者もすでに亡く。家族はとうになくしてしまった。
この王女だって、ヴァルトよりうんと恵まれた生まれの他は、大して変わらないはずなのに。家族をうしない、国をなくして。ただ……あのひとだけがいる。
許せなかった。
どうしてどうしてと、憎悪に似た感情が渦巻く。
自分は手を離されたのに。どうして。
「大丈夫。これでも俺は優しいからね、どんなに嫌いな人間でも、無駄に苦しめる気はないよ」
助けを呼べばいい、と思った。
悲鳴を上げて、救いを求めればいい。
「すぐに終わるから」
あのひとの名を泣き叫べばいい。――幼き日の自分のように。そうすれば勝った気になれる気がする。自分と同じだと。いつか手を離される存在なのだと。
「それとも、特別に切り刻んであげてもいい。あんたの捕られた兄弟たちの中にはそうされたのもいた」
どうしてあんたは守られる。
どうしてあのひとに選ばれた。
「どう?」
短剣を振り上げる。半分以上本気で。王女様は落ちそうな目で、歯の根が合わないほど震えながら、呆然と鈍く銀に光る刃を見つめるだけ。
…………ふいに、扉が開く気配がした。
あのひとだ。分かったけれど、剣は下ろさなかった。この王女さえ殺せれば、次の瞬間彼に殺されても構わない気さえしていた。
「あ……」
王女が声を発した。ヴァルトは嘲笑した。さあ、叫べ。助けて、と泣け。剣を振り下ろす、その刹那。
少女の震えが止まった。
止まって、にっこりと、幸せそうに微笑んだ。
助かったという安堵の笑みではなく、どこか哀しげな別離の笑みだった。けれど今までの人生の幸福全部を詰め込んだような、満足げな頬笑みだった。
全部ヴァルトの背後に向けてのことだ。もう王女は、自分を殺す相手なんて見ていない。
そうして、ふっと意識を手放した。
「……っ!」
あとほんの僅かの距離で、王女の命を奪うはずだった短剣が、手から落下する。地面へ。魔術だと分かったけれど、もうヴァルトは動けなかった。掴んでいた長い髪が、指の間をさらさらとすり抜けていく。
音もなく横から伸びてきた腕が、床に沈んだ王女のか細い体を粗雑にすくい取る。ヴァルトは気力を総動員して何とか首だけを動かした。
「なぜ」
あのひとがつぶやいた。昔と何ひとつ変わらない、炎のような瞳だった。でも、その美しい双眸は、ヴァルトをちらとも見てくれない。
「なぜ、あなたは」
怒っているような声だった。同時に苦痛の込められた声だった。ヴァルトはあのひとのそんな声を聞いたことがない。なのに彼の腕の中の王女様は、気を失っているだけで何も答えない。
ため息をつくように、あのひとは口を閉じた。そのまま、ヴァルトに一瞥もくれないまま、踵を返した。
ぎぎ、と魔術で束縛されている腕を必死に動かす。待って、と思った。初めて出会ったときのように。
「……まっ……て……」
声が出た。あのひとは振り返らない。
「ぐらん……グラン!!」
幼いころと同じように名を呼んだ。手を伸ばした。いかないで、どうか、おれをおいていかないで。
魔術師はやはりヴァルトを見てはくれなかった。初めのときと同じに。そうして、扉の向こうに消えた。
「グラオザーム…………っ」
体を動かしたことと声を出したことへの、拘束魔術の反動は凄まじかった。先ほどの王女より無様にヴァルトは床に倒れた。意識が遠のく。
すべてが暗転する前、もう一度、待ってと思った。
声にできたかは、わからない。
柔らかくてひんやりする手が、ヴァルトの額を撫でていく。目を開けたら、心配顔のギタがいた。
「ヴァルト? 起きたの」
「ん……」
腕を伸ばそうとしたら、あっけないほど簡単に動いて、優しい手を捕まえられた。頬に当てる。冷たさが気持ちよくて、息を吐いた。
「ど、して、きみが」
「どうしてはこっちのセリフよ。なんだって人んちの物置で寝てるわけ。しかも頭にこぶなんか作って」
「…………ん、ちょっとね」
半身を起こすと、すぐ近くの机だか何かの下に、抜き身の短剣が変わらず転がっているのが見えた。夢じゃなかった。夢だと疑っていたわけでもないけど。
うなだれた。あのひとは行ってしまった。
なのに同時にどこかすっきりしてもいた。
――あの子は違った。自分とはぜんぜん違った。
王女の微笑と魔術師の声を思い起こしながら、ギタの手を見つめる。柔らかいけれど、労働を知る手だ。
ああ、髪飾りを買ってくるのを忘れたな、とか今度買いに行くなら指輪にしようとか、そんなことを頭の片隅で考えて。
「ねえギタ、俺もう旅はやめるよ。とはいえ最後に行かなきゃ行けないところがあるんだけど。戻ってくるから、それまで誰かと結婚したり、婚約するのは思い留まっていてくれない?」
「…………なによいきなり」
「ね、お願いギタ」
懐には、今も壊れた賢者の耳飾りが入っている。――これを持って、依頼人に魔術師は死んだと告げにいこう。王女を殺したって証拠はないけれど、きっと先方の偉い人は気にしないに違いない。
そして、そう。
宿に戻ったら、バルを放してあげよう。青い鳥は、いつもあのひとのもとに行きたがるから、ずっと閉じ込めていたのだけど。もう自由にしてあげよう。
「俺、ギタのそばにいたいんだ」
きみが好きだから。そうぽろっと口から出たのは本心だったのに、今までの行いが悪かったのか、ギタは嘘つきと顔を真っ赤にして怒ってしまった。
自分を置いてさっさと物置から出ていこうとする彼女を、慌てて引き止める。ついでに抱きしめたら殴られたけれど。それでもヴァルトはまた笑った。
――――あのひとは行ってしまったけど。
なんだか、幸せみたいな気分だった。