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反発心から始まる関係

 何も初めから、お嬢様に忠誠を誓っていた訳ではない。

 むしろ、お嬢様にお仕えする様になったばかりの頃の私は彼女に反発心ばかり抱いていた。



 ✼ ✼ ✼



 幼い頃からずっと、2人の兄の背中を追いかけて来た。

 少しでも兄たちに近付きたくて、追い付きたくて、毎日必死に勉強をしていた。



 10歳上の兄は、何でも出来る人だった。主人を守るための戦闘術に魔法、主人の世話は当然として、何故か変装術までマスターしている。聞けば、主一家に有利な情報を集めるために身に付けたそうだ。


「お、お前は今日も勉強か? 偉いっ! 俺も負けてられないなぁ」


 そう言って笑った兄に、無骨な手でくしゃくしゃと頭を撫でられるのが好きだった。兄は時々時間のある時に、色々な武器の扱い方やコツを教えてくれた。変装術も教えてくれようとしたが、必要ないと断った。魔法士や騎士、兵士の変装はともかく、私は女装なんてしませんからね。



 4歳上の兄は、武術はからっきしだが細やかな所まで気を配ることが得意な人だった。そして、次兄は運動が出来ない分教養の方面に秀でてもいた。


「服飾の本を読んでるの? こういうのはね、本で読むより実際にいいものを見た方が見分ける力が養われるんだ。今度一緒に見に行こうか」


 2人で色んなものを見に行って、兄に質のいいものの見分け方を教えてもらうのが好きだった。次兄の目は確かでセンスが良く、教えるのも上手い。一見すると優しげにしか見えない兄は、結構スパルタ教師だった。



 2人の兄や父が、代わる代わる従者としての技術を教えてくれた。高い技術を持つ3人に教わることで、座学だけでなく実技面での実力も付いたと思う。

 公爵家の当主に執事として仕える父のように、あるいは後継ぎであるアルフレッド様に仕える兄たちのように、いつかは尊敬できる自分の主を持つことが夢だった。

 そしてその主が兄たちと同じくアルフレッド様になることを、この時の私は、欠片も疑っていなかった。



 ✼ ✼ ✼



 その知らせを聞いたのは、本当に唐突なことだった。


「お前の主が決まったぞ。明日からは従者としてお嬢様にお仕えしなさい」


 夜、話があると言われて父の書斎兼仕事部屋に向かうと、静かに私の名を呼んだ父は開口一番にそう言った。前半の部分を聞いて弾んだ胸が、主が誰なのかを聞いて急速に萎んでいく。

 お嬢様? それは、母が侍女として仕えている、俺より2歳下でもうすぐ5歳になるあのお嬢様のことだろうか。


「私の主がアルフレッド様ではないのは……俺が、できそこないだからですか?」


 ずっと、ずっと、兄2人と共にアルフレッド様にお仕えするのを夢見て来た。その為に努力は惜しまなかった。

 それなのに、俺が出来損ないなばかりにその夢が叶わないというのだろうか。


 その答えを聞きたくないのに、聞きたい気もする。父母や兄たちと違って俺に魔力が存在しないことが理由ならば、諦めも付くから。

 じっと父を見詰めると、そうではないと父は首を横に振った。


「お前が努力して来たのは知っている。それがアミールとジョシュアに追い付き、いずれはアルフレッド様に仕える為だったということも。だが、お前の主はアルフレッド様では無い。

 お前の不満も分から無いでは無いが、仕事を放棄することだけはしないように」

「…………はい」


 不満だ。ものすごく不満だ。俺はあんな暗くてつまらない方に仕えたくはありません。お仕えするならアルフレッド様がいいです。

 口から溢れそうになった言葉をなんとか堪え、口を固く引き結んで父の言葉に渋々頷く。7歳の夏の出来事だった。



 次の日。母に連れられてお嬢様の部屋に行く。母が部屋の扉をノックし、お嬢様の了承を得て部屋に入ると、お嬢様は机に向かって何やら書き物をしていた。


「お嬢様、本日からお嬢様にお仕えする者を紹介致します」


 母が声を掛けると、お嬢様がゆっくりと顔を上げる。さらり、と太陽の光を受けて煌めく銀髪が揺れた。

 まるで陶器のようにきめ細かくなめらかな肌。顔に嵌る青とも紫ともつかない宵闇の空のような瞳は吊り目がちで、高い鼻筋はすっと通っている。何も付けていなくとも、きゅっと引き結ばれた唇は紅を差しているかのように赤い。

 顔立ちは幼いながらに整っているが表情というものがまるでなく、どこか冷たい印象を受ける。人形のように血が通っていない、とでも言えば良いだろうか。もしもお仕えするのがアルフレッド様だったのならと、思わずにはいられない。

 そんなことを考えていると、隣に立っている笑顔の母に思いきり足を踏まれた。痛い。慌てて名乗り、お嬢様に対する礼を取った。


「本日からお嬢様にお仕えさせて頂きます。どうぞよろしくお願いします」


 胸に手を当てて恭しく頭を下げる。それを受けてお嬢様はこくりと頷いた。


「あなたがエステルの息子なのね。話を聞いて会えるのを楽しみにしていたから、会えてうれしいわ。これからよろしくね」

「……」


 楽しみにしていたと言うのならば、笑顔のひとつでも浮かべたらどうだろうか。無表情のままにそんなことを言われても、嘘だとしか思えない。

 本当に、何故私がお嬢様に仕えなければならないのだろう。もしも2つ下の妹が生きていれば、また違っていたのだろうか。半年程前の流行り病さえ無ければ……。心の中で溜め息を吐く。



 お嬢様に対する不満でいっぱいだった私は、お嬢様が諦めのこもった目で私をじっと見ていたことになど全く気が付いていなかった。



 ✼ ✼ ✼



「今日の貴方のお嬢様に対する態度は何ですか。全く、私は貴方をそんな風に育てた覚えはありませんよ」


 夜。仕事を終え、部屋に戻った途端に母に怒られた。だが、何故怒られているのかが分からない。お嬢様にはきちんと接していたはずだ。

 心から仕えることは出来そうにもないが、それをした瞬間に自分の思い描く理想の従者の姿が遠ざかって行ってしまうと、分かっていたから。

 気付かない所で粗相でもしてしまったのだろうか。


 黙りこくっていると、母がはあ、と溜め息を吐いた。


「気に入らなかったので明日からはもう来なくて良い、とお嬢様が仰いました。お嬢様は聡いお方ですから。貴方がお嬢様にこんなことを言わせたのよ……」


 仕えなくても良い。その言葉は喜ぶべきことのはずなのに、込み上げてきたのは歓喜ではなく怒りだった。

 必死に努力して来たのに、どうして気に入らなかったなどと言われなければならないのだ。それも、今日はまだ初日でまだまだ仕事ぶりも見ていないはずなのに。


 やっぱり、私はお嬢様にお仕えする気にはとてもなれない。いつの日か訪れるかも知れないアルフレッド様にお仕えする時の為に、今はただ技術を磨こう。

 私は心の中で、密かにそう決意した。



 悲しそうな顔をした母の顔が、どうしても頭から離れなかった。



 ✼ ✼ ✼



 お嬢様に来なくて良いと言われてから、数日。来なくて良いと言われたことをこれ幸いと、私は本当にお嬢様の元へ通うのを止めた。お嬢様からは何も言って来なかったが、母は複雑そうな顔をしていた。

 てっきり、何か言ってくるのだとばかり思っていた。何だか私まで複雑な気分だ。


 そんなある日のことだ。父の書斎にある本には求めるものが載っていなくて、私は屋敷の図書室に行くことにした。

 使用人棟を出て、屋敷の図書室までの道をてくてくと歩いて行く。途中でお嬢様の部屋の前を通りかかった時、丁度そこから出て来たアルフレッド様と2人の兄と出くわした。

 慌てて脇に寄って礼を取ったが、予期せぬ遭遇に唇が緩む。学園から帰っていらしていたのか。


「ああ、君、アナの従者候補だったって言うアミールとジョシュアの弟?」


 てっきりそのまま通り過ぎていくと思っていたのに、アルフレッド様は私に声を掛けて下さった。予想外だが、嬉しい。私は、アルフレッド様に認識されていたのか。唇だけでなく頬まで緩んでしまいそうだ。


「顔、上げていいよ」


 そう言われて顔を上げると、予想していたよりもずっと近くにアルフレッド様の顔があった。表情は笑顔なのにその瞳はゾッとするほど冷たくて、我知らず体が震える。

 私は、何か失敗してしまったのだろうか。


「……ふぅん、何も理解出来ない馬鹿、って訳ではなさそうだね」


 観察されている、そう感じたのはきっと間違いではなかったのだろう。決してあからさまでも不躾でも無かったが、アルフレッド様は確かに私を観察していた。

 助けを求めて、まず上の兄を見る。次に下の兄を見る。2人とも静かな笑みを浮かべてアルフレッド様の後ろに控えてるだけで、私を助けてはくれない。

 アルフレッド様に、上の兄に、下の兄に。恐怖を感じたのは生まれて初めてのことだった。


 それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。それはもしかしたら、ほんの数十秒にも満たない短い時間だったのかもしれない。けれど、私にとっては永遠にも等しい時間だった。

 その果てに、アルフレッド様は何かに納得したかのように1つ頷く。そうして徐にこう言った。


「君さあ、従者に向いてないね。少なくとも、僕なら君のような従者なんて要らない。馬鹿って訳ではないのは分かったけど、愚鈍な従者に用なんてないからね」


 にっこり。

 そんな効果音が付きそうな笑みを浮かべて毒吐き、「じゃあね」と言ったアルフレッド様は最後に私を一瞥するなり振り返ることなく立ち去って行く。

 後には呆然とした私だけが残された。



 コン、コン。控え目なノックの音が広い廊下に響く。音の発生源はお嬢様の部屋の扉で、細く開けた扉の隙間からお嬢様がそろりと顔を覗かせた。


「あの……一緒に、お茶でも……」


 その先は続かず、何か言いたげに口をはくはくと動かして俯く姿に苛立つ。我知らず険しい声が口から零れた。


「何です、俺を笑いに来たんですか?」


 部屋のすぐ外で繰り広げられた会話を聞いて、内心私を嘲笑っているのだろう。そんな捻くれた考えは、すぐにお嬢様によって打ち消された。


「……違うわ。その……お兄様がごめんなさい。お兄様はああ言ったけれど、私は、あなたはきっとすてきな従者になると思っているわ」


 やはり、あの会話は聞こえていたのだ。お嬢様の部屋の前で話していたのだからそれも仕方の無いことだろう。

 告げられた言葉が思いもよらぬもので、目を見張る。それから込み上げてきたのは怒りだった。


「ふざけないで下さい……!」


 何故、自分がお嬢様から謝られないといけないのか。お仕えしたいと思った方に要らないと言われ、仕えたくないと思った相手には優秀だと言われるなど、これ程惨めなことは無い。


「あ……。ごめんなさい……」


 泣きそうに顔を歪めたお嬢様のことを気にする余裕など無く、逃げるようにその場を走り去る。もう勉強などする気分では無い。


 アルフレッド様の言葉、兄たちの態度、お嬢様の慰め。その全てが頭から離れない。

 悲しくて、悔しくて、部屋に帰った途端に溢れ出した涙は止まることなく零れ続ける。お嬢様に同情されたことが、何よりも惨めで仕方が無かった。



 ✼ ✼ ✼



「ねぇ兄さん、私は何故アルフレッド様に嫌われてしまったのでしょうか」


 再び、夜。兄たちが仕事から帰って来るのを待って、怯える気持ちを隠しながら質問する。兄たちは明日にはアルフレッドと共に学園に戻ってしまうから、チャンスは今しか無いのだ。

 私の質問を聞いた2人は、何を当たり前のことをとでも言いたげな顔になった。


「お前、知らないのか? アルフレッド様とお嬢様はとても仲睦まじいんだ。お嬢様を傷付けたお前に対してあの方が怒らないはずが無いだろ」

「あの方は、体が弱く歳の離れた妹を殊の他可愛がっておられるからね。お前に怒るのは当然だと思うよ」


 私の質問に答える兄たちは、いつもと全く同じ態度だった。昼間の冷たい眼差しが夢か何かだったのだと、勘違いしそうになるほどに。

 けれど、あれが本当に起きた出来事だと言うことも頭の片隅ではちゃんと分かっていた。


「お嬢様を傷付けた……って、どう言うことですか?」


 全く心当たりが無くて、首を傾げて2人に問う。2人はお互いに顔を見合わせた後、私を見て2人同時に溜め息を吐いた。


「それはお前が自分で考えることだ」


 そう言って、上の兄は私を突き放す。その瞳はいつもよりも冷たくて、ああ、兄2人も私がお嬢様を傷つけたことに怒っているのだと、この時になって私はようやく理解した。

 下の兄が、困ったように笑いながら口を開く。いつも穏やかに私を見守ってくれた優しい瞳はそこには無く、やはりどこか冷たい光を宿していた。


「1つ言えるのは、お前が本当に来なくなったことでお嬢様が傷付いている、ということかな」

「ですが、それはお嬢様が言い出したことで」

「そうだね。俺たちはもう十分すぎるほどヒントを上げたから、この先はお前が自分自身で考え無ければいけないよ。……じゃあ、おやすみ」

「お休み、また明日な」


 下の兄が自室に帰っていったのをきっかけに、上の兄も私の頭にぽんと手を乗せ、ひらひらと手を振りながら去っていく。その途端、一気に体の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。

 母の悲しそうな目と今日のお嬢様の様子、先程の兄たちの言葉がぐるぐると頭を巡る。


 私がお嬢様に気に入られなかったから、お嬢様が私にもう来なくて良いと言ったのでは無かったのか。

 私がお嬢様を傷付けたとは、どういうことだろう。何故、お嬢様は私のせいで傷付いた?

 私がお嬢様を傷付けたことに、何故兄たちはあそこまで怒っていたのだろう。

 父が私をお嬢様に付けた理由は、一体。


 分からない。分からないことばかりだ。

 自室でずっと考えている内に、気付けば夜が明けていた。体は睡眠不足を訴えているが、不思議と頭はすっきりしている。

 顔を洗って支度をしたら、お嬢様の元へ行こう。私の抱いた疑問の答えは、ほとんどがお嬢様と話すことで得られるはずだ。



 ✼ ✼ ✼



「お嬢様はお休みになっています。今は誰ともお会いにはなりません」


 いつもより入念に支度を整えた後でお嬢様の部屋に向かい扉を叩くと、中から出てきた母は取り付く島もない様子でそう言った。


「何故ですか? お嬢様にお聞きしたいことがあるのです。どうしても会えないというのならせめて理由だけでも教えて下さい」

「何故貴方に教えなければならないのですか? お嬢様はお休みになっているのですから、あまり騒がずに早く帰りなさい。話ならば、夜にでも私が聞きます」


 私を見下ろす母の瞳もまた、兄たちと同じようにどこか冷たい。唇を噛んで俯いたその時、静かにドアノブの回る音がしたかと思うとお嬢様の部屋の扉が細く開いた。


「エステル、どうしたの……? ずいぶん時間が……あ、ごめんなさい」


 開いたドアの隙間から、お嬢様がひょこりと顔を覗かせる。その様は昨日の再現のようだったが、昨日と違って白磁の肌はうっすらと上気し、母を見上げる瞳は熱に浮かされたように潤んでいた。

 お嬢様は昨日着ていたような膝丈のドレスでは無く、ネグリジェにストールを1枚羽織っただけの格好だ。お嬢様はお休みになっているという母の言葉は嘘ではなかったのだろう。子供とは言え異性の前だというのに、無防備な。


「お嬢様が謝られる必要などございませんよ。それより、大人しく寝ていて下さいとあれほど……!」


 焦りと心配が混在した母の様子など初めて見た。母の子供は私なのに、母を取られたように感じてしまう。

 私は兄たちにも母にも冷たい目で見られていると言うのに、どうして。お嬢様を傷つけたと言うだけで、なんでこれほど責められ無ければいけないのだろう。

 血が繋がっているのは、彼らの家族なのは私なのに。お嬢様は私たちの家族でもなんでもない、命令して私たちの献身をただ享受するだけの貴族な癖に。


 そんな思いを堪えきれずに、ついお嬢様に鋭い視線を向けてしまう。そんな私を見て、お嬢様はそっと目を伏せた。


「しんぱいしてくれてありがとう、エステル。彼が用があるのは私なのでしょう? かまわないから、中へ通してくれる?」

「お嬢様……!」

「いいから。そこまで調子が悪いわけでもないし、へいきよ」


 安心させるように母に向けて淡く微笑み、お嬢様が部屋の扉を大きく開ける。その向こうに見えた部屋は、以前入った時よりもずっと殺風景だった。

 前回来た時は子供が好きそうなお菓子がたくさんテーブルの上に置かれていたが、今は何も無い。カーペットの上にあったぬいぐるみも、絵本も、この部屋に確かにあったはずのものはほとんど無くなっていた。


 寝室に繋がっているのだろう部屋の奥、小さく見える寝台の天蓋が細く開かれている。部屋の照明は暗かった。

 寝台のサイドテーブルには水の張られた桶とそこに漬けられたタオルがあり、その傍には椅子と、その上に本が開かれた状態で置かれている。

 そこまで室内を観察して、私は漸くお嬢様が熱を出されているのだろうと言うことに気が付いた。どうりで母の視線が冷たいはずだ。何故今になるまで気付かなかったのだろう。


「すみません、また後日出直してきます……!」


 焦って部屋を出ていこうとする私に、お嬢様は淡く微笑みながら言った。


「だいじょうぶよ。今日はずっと寝ていてばかりだったから、ちょうどたいくつしていたところなの。お話相手になってくれるとうれしいわ」


 お嬢様がそう言うと、母は静かにその場を去っていった。

 退屈していたというのは、恐らく嘘なのだろう。そんなこと、お嬢様のことをよく知らない私でも分かる。分かっていたのに、私は今まで軽んじてきたお嬢様の言葉に甘えてしまった。


「では……少しだけ」


 私が頷くと、お嬢様は軽く目を見張った後、どうぞ、と言って自ら椅子を引いてくれる。人に(かしず)かれ世話をされる立場であるはずの貴族令嬢がする行動だとは思えず、今度は私が目を見張る番だった。

 そんな私を見て、お嬢様はあからさまにしまったとでも言いたげな顔をする。


「あ……ごめんなさい」


 見るからに落ち込んでいるお嬢様を見て、気付く。そう言えば彼女は謝ってばかりだ。非がある訳でも無いのに直ぐに謝る彼女を見ていると、苛苛する。


「何故、謝るんです? 悪いことなんてしていないでしょう」

「でも、きぞくのやることじゃなかったから……。それに、あなたも思っているでしょう? お兄様なら、こんなことはしないって」


 見抜かれていた衝撃に、ガツンと頭を殴られたような気がした。思えば、母がお嬢様は聡いお方だと言ったのはこのことだったのだろう。

 私がお嬢様に不満を抱いていることをお嬢様は見抜いていて、だからこそどこか怯えた様子で直ぐに謝るのだ。嫌々仕えられるのが嫌だったのか、私を慮ってくれたのかまでは分からないが、お嬢様にもう来なくていいと言われたのも、きっと同じ理由だろう。

 自分より2歳も年下の幼い子供相手に、私は何をやっているのか。情けない。


「いえ、私は……」


 言葉を探して視線をうろうろと彷徨わせる。お嬢様は諦めたような表情でふふっと笑った。


「いいのよ、本当のことだもの。それより、あなたの」

「失礼します。お嬢様、お茶とお菓子をお持ち致しました」


 お嬢様が何かを口にしようとしたタイミングで、ワゴンを押した母が部屋に入って来た。ワゴンの上には2人分のティーセットとお菓子が載せられていて、母は手際よくそれらを机の上に並べていく。

 全てを並べ終えると、母は静かにお嬢様の後ろに控えた。普段はあまり食べることの出来ない菓子類は、私を誘うように机の上で甘い香りを放っている。思わずごくりと喉が鳴った。


「好きに食べていいわよ。甘いもの、好きなんでしょう?」


 にこにこと笑うお嬢様は、今まで見てきた中で1番嬉しそうだ。素朴な疑問が頭に浮かんだ。


「どうしてそれを……」

「アネットに聞いたの。…………その、あなたを、かんげいしたくて」


 と言うことは、だ。自惚れでなければ、あの初対面の日にテーブルの上に並べられていた大量の菓子は、私のために用意されていたのだろうか。

 そんな考えは、直ぐにお嬢様によって肯定されることとなった。


「あの日のお菓子も、料理人が腕を振るってくれたのよ。結局あなたは食べずに帰ってしまったから、全て私が美味しく食べてしまったわ」


 そう言って、お嬢様は悪戯っぽく笑う。顔は笑みを形作っているのにその声は苦く、お嬢様はどこか寂しそうだ。唐突に、この広く殺風景な部屋の中で1人、大量のお菓子を食べているお嬢様の姿が脳裏に浮かんだ。


 兄君であるアルフレッド様は確かにお嬢様を可愛がっていらっしゃるが、お嬢様にお会いになることは滅多に無い。普段はこの春から通い始めた全寮制の学園にいらっしゃるのだから、それも当然だ。

 お父君である公爵様は御多忙で、お嬢様は勿論跡継ぎであるアルフレッド様ともほとんど顔を合わせたことがないと聞く。それに、公爵様とそのお子様方が不仲なのはこの家に仕える人間なら誰もが知っていることだ。

 侍女としてお嬢様の側近くに仕えている母も、主とテーブルを共にするようなことはしないだろう。

 お嬢様が真に甘えられる人間など、この屋敷には居やしないのだ。


 1人で過ごすにはあまりにも広すぎるこの部屋でたった1人、お嬢様は何を思って用意した菓子を食べていたのだろうか。

 今なら、あの冷たい視線の数々の意味が分かる。お嬢様を傷付けたというその理由(わけ)も、父が何故、私をお嬢様に付けたのかも。

 彼らは、お嬢様が心から頼ることの出来る存在を作りたかったのだろう。お嬢様に、甘えるということを教えたかったのだろう。お嬢様を傷付けたのは、きっと、私の態度が原因だったのだ。


「お嬢様、すみませんでした」


 そう言って心から頭を下げると、お嬢様が戸惑っているような気配がした。あまりにも何も言われないので耐えかねて頭を上げると、きょとんとした表情でぱちぱちと瞳を瞬かせている。その度に長いまつ毛が端正な顔に影を落とすのを、綺麗だと、そう思った。


「ええっと……どうして、あなたがあやまるの?」


 こてりと首を傾げたお嬢様の瞳は、今までの会話のどこに自分が謝罪される要素があったのかと雄弁(ゆうべん)に語っていた。

 困惑しているお嬢様の目を、逸らすことなく真っ直ぐに見詰める。じっと見られることになれていないのか、お嬢様はそっと私から目を逸らした。それでも目を離さずにいると、やがて根負けしたのかふっと短い息を吐いたお嬢様が()()()()()私の目を見た。

 ああ、そう言えばお嬢様と視線が合ったのはこれが初めてだ。今までは私の方を見ているようで、見ていなかった。いつも微妙に視線を外されていたことに、私が気付かないはずも無いのに。


「全て、です。今までの非礼をお詫び致します。お嬢様、申し訳ございませんでした」


 うろうろと視線を彷徨わせるお嬢様に向かって、深く、頭を下げる。え、とか、なんで、といった言葉が聞こえて来たと思えば、椅子がガタリと音を立てた。

 何事かとそちらを見れば、気を失ったお嬢様を母が抱きとめている。性急に事を運ぼうとした結果、お嬢様の許容量がオーバーしてしまったらしい。

 罰の悪さを感じていると、はあ、という溜め息が聞こえた。その溜め息の主である母を見上げれば、母は困った子、とでも言うように苦笑している。


「自分の過ちに気が付いたことは評価しますが、貴方は事を急ぎすぎです。もう少しお嬢様のことも考えなさい」


 ただでさえお嬢様は体調を崩されていたのですから、と。そう私を窘める母の声は呆れてこそいたが、その視線は優しい。私がお嬢様に謝罪したことで、母も何か思うところがあったのだろう。


「……母さん。私……俺は、また、お嬢様の従者になれるでしょうか。候補からでも、また」

「さあ、それはお嬢様が決めることです。あの方にお仕えしたいと思うのなら、本気であの方に頼み込みなさい。……ですが」


 はい、と答えようとした言葉は母の言葉に遮られる。母は私を見て、にっこりと微笑んだ。


「それとこれとは話が別です。お嬢様の熱が下がるまで、貴方がこの部屋を訪れることは許しません」


 思いがけぬ母の言葉に目を見張る。どうやら、そう簡単には事は運ばないらしい。



 これが、私とお嬢様の始まりだった。



 ✼ ✼ ✼



 思えばあの頃のお嬢様は、今よりずっと素直で可愛げがあったような気がする。全く、いつからあんなに貴族らしく、気の強い方になられたのか。思わず心の中で溜め息を零すが、それはすぐに笑みに代わった。

 ああ本当に、たくましくなられたものだ。出会いこそ最悪なものではあったが、お嬢様は本当に良い主だと思う。私をお嬢様に付けた父には、感謝してもしきれない。……まあ、それとは別にお嬢様と初対面の日の私を殴り飛ばしてもやりたくなるが。


「エリック、何をボーッとしているの? 置いていくわよ」


 お嬢様に名前を呼ばれて顔を上げれば、言葉とは裏腹にお嬢様はどこか心配そうに私を見ていた。体調でも悪いのかと、心配して下さっているのかもしれない。相変わらずお優しい方だ。

 そんな様子に胸に暖かいものが満ちるのを感じつつ、私はお嬢様の元へ向かって歩み出した。……一生涯の忠誠を、変わらずお嬢様に誓いながら。

小説本編とこのお話の時点とでは色々と齟齬があるのは、おいおい書けたら書きたいと思ってます。忘れてたらすみません。

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