H-Meat
AM 8:30。柿崎詩緒里は毎朝同じ時間に目を覚ます。
顔を洗いテレビをつけてワイドショーのたわいもないニュースを見ながら、前日に用意した弁当のあまりものを口に運ぶ。テレビでは女性リポーターが中継先の原宿から”Hミート”をたどたどしく紹介している。眠い目をこすり、無理やりテレビに焦点を合わせる。世間の流行りにさして興味はないものの、広告会社で働く詩緒里にとっては大事な情報だった。少し前のタピオカブームの時も新しいショップや商品をキャッチアップするのに苦労したが、最近ではタピオカのタの字も聞かなくなっていた。Hミートの拙いリポートに対し、司会者の上手いか下手かわからないフォローを経て中継は終わり、占いのコーナーがはじまった。ぼやっと眺めていると、詩緒里のさそり座は3位に輝いていた。”急な告白に気をつけて”というアドバイスと、”お箸”というなんとも言えないラッキーアイテムを一方的に告げて、ベルトコンベアのように次の星座に移っていった。
「もうこんな時間か」
一人暮らしが長くなり、独り言も増えてきた。以前読んだ雑誌では、独り言は寂しさの表れと書かれていたのを思い出した。同棲していた前の彼氏と別れたのは二年前の二十七歳の時。時が経つ早さに浅くため息をつき、かつてお揃いで買った箸で皿の上のウインナーを転がしながら、詩緒里は特段未練もない過去の恋愛を思い出した。これまでの彼氏の記憶は、いずれも顔がはっきりしないほど希薄になっていた。しかし彼らと過ごした日々を思い返すと、決まってひどい別れ際から芋づる式に蘇っていった。断片的に浮上する苦い経験を追体験したあと、詩緒里はようやくこれは思い出すべき記憶ではないことに気づいた。甘酸っぱい思い出を少し期待したのだが、ただただ不快になっただけだった。詩緒里は楽しみにしている今晩の予定を想像して、無駄に曇った気分を無理やりかき散らした。気づくとすでに家を出る時間が過ぎていた。乱暴に食器をシンクにつけて、慌てて出社の支度をした。
電車を乗り継ぎ。会社に向かう。通勤ラッシュを外して乗った車内は座れるほどに空いていた。ドアの上のデジタルサイネージやつり革広告に目がいく。詩緒里が学生だった頃はエステや英会話の広告が多くを占めていたものの、今ではほとんど見ることはなくなってしまった。エステは専用機があれば家で簡単にできるようになったし、英語もスマホがかわりにしゃべり、ジョークですら提案してくれる。サイネージではちょうどその広告が流れている。翻訳機の機能という今となっては当たり前すぎて誰も見ていない商品の広告はサウンドロゴとともに儚く消えていった。会社の最寄りの駅に到着し、降りようとしたそのとき、詩緒里の苦手なあの広告が流れはじめた。詩緒里は逃げるように電車を降りた。
「おはよー」
パソコンの電源をいれると同時に、滝本加奈が話しかけてきた。加奈は4歳下だが、詩緒理と転職時期が一緒だからという納得できない理由でタメ口で話してくる。初めは気になっていたが、人懐っこい彼女の顔をみていると詩緒里はどうでもよくなった。
「見てこれHミート作ってみた!」
加奈はオレンジ色の包装紙に包まれた、手のひらに収まる程度の円盤型の物体を持っている。包装紙には大きくポップなフォントでHーMeatと印字されており、その下にひと回り小さい文字で-Made from Kana Takimoto- とプリントされていた。横にはピクトグラムで他人に食べさせているイラストにタブーであることを表す斜線が引かれている。
「すごいね。これ作るの結構大変なんじゃないの?」
「それがね、担当しているクライアントが関連会社だったからさ。秘密で手配してもらったんだ!ほんとはMeaT社のHミートがよかったんだけど人気すぎて無理なんだってー。」
加奈は抜かりがない。これまでも手に入れにくい商品があると、広告会社の人脈をフル活用して入手していた。詩緒里が呆れた表情を浮かべるも、全く意に介さない。
「食べてみた?」
「まだぁ。お昼ご飯に食べようかなって思って!」
邪心のかけらもない笑顔を向けて言った。
始まりはカルト的なヴィーガン団体からだった。
二十世紀から懸念されていたとおり、地球上の人口は増え続け食糧危機が加速度的に、深刻化の一途を辿っていった。
発展途上国では慢性的な飢餓に陥り、その余波はいくつかの先進国にも及んでいた。
ある国では食料の供給量が極端に少なくなったため、国民は政府が推奨する昆虫食で飢えをしのいでいた。それすらも自制したヴィーガン団体は空腹で苦しみ、団員の餓死が後を絶たなかった。そんな自業自得ともいえる窮地に立たされた彼らが最後に目をつけたタンパク源、それは自分の肉だった。畜産の分野で進められていた培養の技術を応用、自身のDNAで培養肉を生成し改良を重ね、課題であったクールー病をもたらすプリオンを排除することに成功し、"Hミート"が完成した。
新たなタンパク源を手に入れた彼らは完全な自給自足生活に移った。
まだ家畜の培養肉さえも受け入れられていなかった時代に、二段も三段もとばして、ヒトの肉、ひいては自分の肉を食べる行為は世界に衝撃を与えた。当然、世間の風当たりも強く、倫理に悖り禁忌を犯すものだと軽蔑されていたが、時が経つにつれ、若者から次第にHミートをスナック感覚で食べるトレンドが広がっていった。ワイドショーは彼らを蔑称的に”ミーター”と呼んだが、勢いはとどまることなく東京を始め、各地方都市にも広がっていった。
今では多くの人がスマホに自分のゲノム情報を持ち、Hミート専門店で自分の培養肉を生成する。流行に敏感な加奈からあの店はトッピングがいいやら、包装が可愛いやら色々なギミックの違いを聞いていたが、到底詳しい話を聞く気にならなかった。しかしトレンドを扱う職業上無視できなくなってきているため、渋々情報はキャッチしている。
昼休みになり、詩緒里と加奈は隣の部署の村田円香と一緒に社内の食堂で食べることにした。
社食は有名シェフがプロデュースしていることもありいつも賑わっている。詩緒里は昨夜準備した弁当を、円香は社食の健康定食を、そして加奈は大事そうに、例のオレンジ色の包装紙でくるまれたHミートをサブバッグから取り出してその上に置いた。詩緒里は本物のHミートを間近で見るのは初めてだった。加奈が包みをゆっくり開けると、円盤状の肉塊があらわれた。レンジで温めたばかりで湯気が立っているHミートは、どこからどう見ても普通のハンバーグにしか見えなかった。香ばしい匂いが辺りを漂った。ニンニクとテリヤキソースの唾液腺を刺激する匂いを発していたが、加奈の肉であるという事実が食欲を減退させた。培養肉といえど、隣で生きている人間と同じ成分の肉がグリルされているのは詩緒里にとってなかなか歪な光景だった。
「んー!これこれ!」
そう言いながら加奈はスマホで自分の顔とHミートを自撮りしてSNSにアップしている。画面を覗き見ると、写真とともに#HMEAT#共食いと打っているのが見えた。
「ねぇねぇ、それどんな味?鶏肉とか牛肉に近い?」
生物系の大学院で研究していた円香は興味津々である。
「なんか鶏肉をさらにタンパクにしたって感じ?テリヤキ味だから普段食べてるハンバーグと味はそんなに変わらない!」
そう答えると、もう満足したのかSNSのチェックをはじめた。詩緒里は箸で掴んでいる食べかけの唐揚げを見つめて、前から抱いていた疑問を投げかけた。
「食べ物としてどんな感じ?気持ち悪くない?」
「んー気持ち悪くはないかな。牛とか豚とかと同じだよ。普通に食べれるしまぁまぁ美味しいよ?めちゃくちゃ美味しいってわけではないけど。」
加奈はスマホをいじりながら答えた。SNSの反応がいいのだろうか、機嫌良さそうに続けた。
「誰か知らない人のを食べたり、食べられたりしたら話は別だけど、自分のHミートだから平気!自分しか食べちゃダメって法律もあるし。ちゃんと管理されてるし安心じゃない?」
言い放った加奈は誇らしげだ。詩緒里は少し前にニュースで40歳の男性が逮捕されていた事件を思い出した。男は一方的に好意を寄せている女性の家に侵入してゴミ箱からDNAを採取し、女性の培養肉を勝手に作って食べていたのがセクハラとして検挙されたのだ。考えただけでも気持ち悪い事件だが、思ったほど騒がれておらず、詩緒里は自分が敏感すぎるのだろうかと思った。加奈が言うように他人に自分の肉を食べられるのもいやだが、他人の肉を食べるのもいやである。それと比べたら、自分の肉を自分で食べるのは案外普通のことではないかと思えた。
「あ、そうそう二人とも来週の金曜日空いてる??」
円香が言った。
「私の大学院時代の友達に、MeaT社に就職した人がいるんだけど、来週に起業4周年パーティがあるみたいのなの!そこに誘ってくれたんだけど、せっかくだから二人も一緒にどうかなって思ってさ。」
円香が言い終わる前に加奈が反応した。
「え、MeaTってあのMeaT?今すごい話題じゃん!ほんとに行ってもいいの?」
前のめりに言った。
「もちろん!私はそこでミーターデビューしようと思ってるんだ!」
円香が得意げにいう。
MeaT社はHミート専門店で最も勢いのある企業の一つで、若者にうける味付けや、有名デザイナーを起用したパッケージなど、他の企業とは一線を画した経営を行っている。特にMeaT社が販売しているスチール製のHミートケースは、そのデザインを評価する愛好家が多く、持ち主の名前が刻印されているものの数多のオークションサイトで高値がつくほどだ。明治神宮前にある旗艦店は昼夜にぎわっており、以前詩緒里も店の前を通った時、店頭から始まる最後尾が見えない列に驚嘆したほどだった。最近は社長と若手女優との手つなぎデートが週刊誌に取り上げられ世間を賑わせているが、今現在日本のトレンドを牽引している企業であることは論を俟たない。
滅多にない機会だったが、詩緒里は乗り気ではなかった。やはりHミートを快く思えず、仕事終わりの時間を犠牲にしたくなかった。
「誘ってくれてありがたいんだけど、私は遠慮しとくね。」
二人は一瞬だけ残念そうな顔をして、すぐにMeaTの話題に戻っていった。
詩緒里は仕事を早めに済ませて、英人と夕食の約束をしている新宿へと向かった。英人とは3ヶ月前にマッチングアプリで知り合った。恋愛に後ろ向きだった詩緒里を見かねた加奈が、詩緒里のスマホを取り上げアプリをダウンロードし、プロフィールテキストや加工済みの写真を登録した。渋々始めた詩緒里が最初に出会ったのが英人だった。英人はIT企業に勤めており、加奈と同じ4歳下で、よく笑う人という印象を持った。また、年下であることを忘れるぐらい落ち着いた雰囲気を纏っていた。二人で初めて行った店は牡蠣が有名な居酒屋だった。食事している間、詩緒里の緊張をくみ取ってか、牡蠣は中身がほぼ内臓だとか、グロデスクな見た目から予想できないこの美味は奇跡だの、薀蓄や彼なりの感想を一生懸命に熱弁していた。はじめこそその勢いに押されたものの、気づいた頃には加奈と円香と接するように会話を楽しんでいた。詩緒里は異性と過ごしていて久しぶりに楽しいと思った。英人の着飾らない様子を見て、この人とならうまく付き合えるのではと思った。その後食事を重ね、3回目の食事の後、英人が告白した。一生懸命な彼を見て、詩緒里は少しだけもったいぶったあと受け入れた。そして今に至るまで、全く負担を感じさせない英人との付き合いを楽しんでいた。
「おつかれ!」
新宿駅の交番前で待っていた詩緒里の背後から突然、英人が声をかけて来た。びっくりした詩緒里を見て喜んでいる。その顔を見ると詩緒里はムズムズする心地よさを感じた。
「何か食べたいものある?」
「んー、海鮮が食べたいかなぁ」
加奈のHミートを見て少しだけ食傷気味だったからか、あっさりしたものが食べたかった。その話をすると英人はケラケラ笑った。
「詩緒里は苦手だもんね。でも案外食べ始めたら慣れるもんだよ。あ、ほら体にもいいしさ!」
そう言って、ビル上の大きなサイネージに映った広告を指差した。綺麗な女性が、ジムでのトレーニング終わりに、粉末状のHミートを水に溶かして飲んでいる。詩緒里も通勤途中によく見かける広告だが、グロデスクを排除した不自然な爽やかさと、街の景観に違和感なく溶け込んでいる馴れ馴れしさに違和感を抱いていた。しかし、英人と一緒に居るときは、なんてことないただの広告に感じた。
「あ、そう言えば、ちょうど行きたいところがあるんだよ!」
いつもは優柔不断な英人が珍しく提案するので二つ返事であとをついていった。
店に向かう最中、手を引いてくれたり車道側を歩いてくれる英人のさりげない優しさに、詩緒里は恋人としての幸せを感じていた。
それまでの恋愛において詩緒里はいわゆる都合のいい女だった。相手が真夜中に会いたいと電話がかかってくればタクシーで向かい、料理が食べたいとメッセージがくれば、スーパーに寄って家まで作りにいき、求められればどのようなプレイも受け入れ、彼のあらゆる欲を満たしていた。友人には、尽くしすぎだの、依存しているだの言われたが、詩緒里にとっては好きな人に対する普通の行為だった。詩緒里は自分の中に、相手へのまとまらない愛情や母性、ノイズのように蓄積される憎悪を含むぐちゃぐちゃな部分があることを知っていたが、彼に尽くすことでその部分を排出することができた。痛みを伴いながらちぎり取り、彼氏という自分だけの器の中に少しずつ貯めていく感覚が自尊心を満たした。純粋な憎悪も不純な愛情も、雪と土が混じった積雪のようにすこしずつ沈めていく。そうすることで自分と彼氏のつながりを感じられ、またそれが歪だけれども愛情行為だと思っていた。しかしその実感とは裏腹に、恋愛関係が長く続くことはなく、いつも突然一方的に振られるのだった。理由はみな言い合わせたように「他に好きな人ができた」だった。
こうなると詩緒里はいつも、器の不出来を責めた。自分の大事な欠片を継ぎ足していた器は、穴が空いていたどころかもともと汚物をため込んでいた痰壺だったのではとさえ感じられた。過去の彼氏はあまねく復縁を求めてきたが詩緒里は一度も応じなかった。都度、心からの嫌悪感を示した。それは自分が注いだ愛情に対してでもあった。そして詩緒里は徐々にほとんどの男性はそういうものなのだろうと思い込んでいった。英人のことも、会うまでは同じたぐいの人間だろうと思っていた。しかし、実際に会って、話して、付き合っても彼の優しさは途切れることなく、さらにいうと幼い要求もしてくることはなかった。これまでの恋人とは明白に違った健全な付き合いができていた。詩緒里はそれが嬉しかった。ただ少しだけ、自分は英人の中に何が残せているのだろうという不安があった。
「着いたよ」
英人は立ち止まり繋いでいた詩緒里の手を優しく握って言った。
新宿駅から歌舞伎町を抜け、新大久保の手前にあったそのお店はおしゃれな海鮮居酒屋だった。店に入ると、大きな生け簀にヒラメやカワハギなど色々な魚が泳いでいるのが見えた。周囲のテーブルを見回すと、舟型の皿に新鮮な刺身がたくさん盛られている。店員の案内でカウンター席に座った。
「この前先輩に教えてもらって、その時すごい美味しくて。詩緒里も連れてきたいと思ってたんだ」
おしぼりで手を拭きながら英人は言った。
「こんなところあったんだね、ほんとお刺身が美味しそう!」
「びっくりするぐらい美味しいよ!注文した後に生け簀から揚げた魚を目の前でさばいてくれるんだよ。」
隣の席のお客さんに運ばれる料理を目で追いながら、英人は嬉しそうに言った。
注文が通るたびに目の前のまな板でイワシやエビなどが〆られていた。英人が頼んだエビの活き造りは、砕氷に一尾のエビの頭部と腹部が置かれた状態で出てきた。身体が切断されているのに触覚も尻尾も元気に動いている。恐る恐る手を伸ばすが、ビクビクと小刻みに腹部が動いていてなかなか触れられない。英人は怯んでいる詩緒里の姿を楽しそうに見ていた。そんな視線を感じつつ、隣で同じ活き造りを頼んでいる若いカップルの声が聞こえてきた。
「うわー!すごーい!動いてる!」
楽しそうにしていたが、予想以上に動くエビに彼女が小さくこぼした。
「でも、ちょっと残酷だよね。」
すると彼氏はさも当たり前のことを諭すように言った。
「そう?美味しく食べられるんだから幸せだと思うよ」
食べられる側はそんな悠長なこと言ってられないんじゃないだろうかと詩緒里はエビと格闘しながら思った。英人の手ほどきの元、扱いにだいぶ慣れた詩緒里は、手際良く腹部の殻を剥けるようになった。徐々に動きが鈍くなっている皿の上の頭部と目があった気がしたが、すぐに美味の快感にかき消された。
店を出る時、二人はほどよく酔っ払っていた
「これからどうする?」
英人がいった。
「どうしよっか?」
詩緒里はわかりつつ白を切った。英人は一拍おいて言った。
「明日特に用事なかったら、俺の家でもう一杯飲もうよ」
詩緒里は頷いて応えた。英人の家は、新宿から十五分ほどで到着する下北沢駅からほど近いマンションだった。
駅からの帰り道、まだ飲み足りない英人は、コンビニで赤ワインを買って家に向かった。付き合ってから三回目の英人の部屋は、いつも通り片付けるところも見当たらないほど綺麗だった。椅子もテーブルも棚も同じ家具メーカーで揃えている。まだ新しいのか爽やかな木の香りがした。英人は大好物だと言うコンビーフとジャガイモを慣れた手つきで炒め、ワインと一緒に楽しんだ。映画や音楽、詩緒里の会社での出来事や今日の夕食の感想など話はなかなか尽きなかった。酔いもまわり、話も一通り終わった後、ソファに移り、詩緒里は英人の肩に身体を預けた。詩緒里の手の甲をなでていた英人は体を引き寄せた。先ほどとは違う艶やかな雰囲気を纏っていった。指、掌、唇と少しずつ触れあう面積が増えていき、二人はベッドに移動して情を交わした。英人は壊れやすいものに接するかのように、詩緒里を大事に扱った。詩緒里はこれほどまでに大きな充足感に包まれたのは初めてだった。今まで味わったことのない愉悦に深く深く沈んでいった。
顔を洗いに洗面所に向かう英人を見送った後、詩緒里はほのかに漂う残り香を惜しみつつ、天井をうすく眺めて余韻に浸っていた。これまでの彼氏とは全く異なる英人との恋愛。嬉しさと満足感でいっぱいの頭の中に、英人に何もしてあげられてないのではという不安が少しずつ侵食していった。いつも癒やしをもらってるのは自分の方だと強く認識してるが故に、二人の不均衡が気になった。詩緒里は英人の彼女とたらしめる証拠や実感がほしかった。そのためには何かしてあげたいという解決策しか思いつかなかった。しかし、まだ出会って3ヶ月程度。英人の気持ちがわからないのも事実だった。ひょっとしたら彼はこの関係が心地いいのかもしれない。詩緒里はゆっくりと距離を測りながら彼が好きなようにさせてあげようと思った。
洗面所から戻ってきた英人は少しだけ緊張した面持ちをしていた。しかし深刻な様子ではなく、告白前のようなソワソワした雰囲気だった。
「どうしたの?」
詩緒里は訊ねた。
「ん?」
英人の声が少しだけうわずった。
「いやなんか言いたそうだから」
「あ、そうね」
英人はいつもと違う表情で余裕なく笑った。
「ええーと、うん、ちょっと言いにくいんだけど。」
「なに?」
詩緒里も笑顔を作って聞いた。
「自分がこういうこと言うとは思わなかった、いや今も思ってないんだけど、、」
「だから何よ」
「んー、」
「ほら言ってみ?」
「そうだね、あー、そう、明日も詩緒里とどこか行きたいなって思って、、」
「ん?明日?」
はぐらかされたのは明らかだった。
「明日は大丈夫だけど、、他になんかあるんじゃないの?」
詩緒里はおどけていったが、内心とても気になっていた。
深刻な話ではない気がしたが、英人の喉元まできている言葉が今の幸せに影を落とすのだけは嫌だった。
「ほんとこれだけだよ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、一人じゃ行きにくくて。」
詩緒里はその言葉が嬉しかったが、とうとうその日は英人が言いかけた何かを聴くことはなかった。
翌朝、英人が言っていたお目当のカフェに朝食を食べに行った。朝だというのに周りはカップルで賑わっている。お店の外装は確かに可愛らしく、男一人では入りにくいのも理解できた。詩緒里はパンとポーチドエッグの朝食プレートを。英人はそれにパンケーキを追加して頼み、少しずつ分け合った。美味しそうに食べている彼の姿をみて、普段はきちんと仕事をしているんだなと思うとより愛らしかった。これまでの恋人もこういう部分に惹かれたんだろうなと思い、不意に口に出た。
「聞いたことなかったんだけどさ、英人は過去どんな人とつきあってたの?」
「んー今聞く?」
英人は笑って言った。
「そうだなぁ。割と年上が多いかなぁ。」
パンケーキの解体に集中しながら答えた。皿の上でジャムと生クリームが混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。以前、英人は片親で祖母に育てられたと話していたことを思い出した。
「そうなんだ、なんかしっかりしてるからあまりそんな感じがしなかった。」
「それよく言われる!これまでも結構甘えられることが多いかも。でも結局は振られちゃうことが多いんだよね。詩緒里は?」
詩緒里はどきりとした。
「わたしはまぁ普通に付き合って普通に別れる感じかな」
「ふーん、詩緒里のいう普通ってレベル高そう」
英人は顔をくしゃっとしながら言い、それ以上突っ込むことはしなかった。
店を出た後、近所の家具屋や服屋を、食べ歩きをはさんで回った。気づいた頃には夕方になっていた。詩緒里はゆっくりと流れるその時間を楽しんだ。公園で遊ぶ家族やベンチに座っているカップルと一緒に、穏やかな街の景色を作り上げていると思うととても嬉しかった。すれ違った人が誰々に似ているとか、あの店のイヤリングが可愛かったとか、来週の女子会では誰に会うかなど、思いついたことを喋れる居心地の良さを確かめながら、少しずつ終わっていく今日を惜しんだ。
近くの駅まで送ってもらっている最中、詩緒里の頭にふと昨夜に英人が言いよどんでいたことがよぎった。詩緒里は今だったら気軽に聞けると思った。
「ねぇねぇ昨日寝る時にさ、なんか言いたそうだったじゃん?あれほんとはなんだったの?」
詩緒里は下から英人をのぞき見て、いたずらっぽくたずねた。英人は顎をさすり、何だっけとつぶやき、空を見ていた。昨日のように焦る様子もなかった。
「あぁ、おれさぁ、詩緒里のやつを食べてみたいんだ。」
英人はさらっと答えた。
「え?」
「だから詩緒里のHミートが食べたいなって」
一瞬何を耳にしたのかわからなかった。そしてすぐさまたずねたことを後悔した。詩緒里は背中が一気に汗ばむのを感じ、動揺がバレないように左の袖口を指でなぞり平静を装った。しかしどう反応するのが正解か自分でもわからなかった。好きな人の名状しがたい欲求に対して嫌悪感とも断言できない何かが胸を疼いた。
「…それって…結構……かなりやばいことだよね?」
「いや、…そう、だね。」
緊張感を察したのか、英人の口調が一気に重くなった。
「普段から思ってんの?」
少しだけ語勢が強くなる。
「いや、今まで、こんなことしたいって思ったことなかったんだけど。」
ひとつずつ言葉を選んでいるようだった。
「なんだろ…今までより…詩緒里をもっと近くで感じたいというか…。あぁダメだ、ごめん話せば話すほど気持ち悪くなるんだけど」
詩緒里は何も言えなかった。
「…こんなところで話す事じゃなかったよな」
英人は努めて明るく言った。
「………………」
「……ごめん、引いたよね…」
「………引いたっていうか」
「…………」
沈黙が続く。詩緒里はずっとHミートはどこか遠くのもので、自分の私生活と交わることなく、関係ないものだと思っていた。そしてまさかこんな形で日常に食い込んでくるとは思っていなかった。
「…うん。……ちょっと、…無理かも。…ごめんね。」
回らない頭を必死に稼働させて出てきた言葉がこれだけだった。
「そうだよね、困らせてごめん。もう忘れて!」
英人はそう言うとさっきまで話していた、来週二人で行くカフェの話をはじめ、さきほどの数十秒が綺麗に切り取られたように日常に戻った。英人本人も違和感を感じているはずであるが、それ以上に詩緒里の中でわだかまりが残った。これまで、英人は詩緒里の意向を汲み取った上で、求めてくることしかなかった。詩緒里が手を繋ぎたいときや触れたいとき、英人はそれを察して応じてくれる。昨日の夜もそうだった。しかし今初めて、詩緒里を度外視した欲求を露わにした。詩緒里は顔を出した彼の歪なそれを受け入れることができなかった。過去何度も恋人の欲望に応じてきた詩緒里にとって、目の前の最愛の人を受け入れられないことが信じられなかった。しかし、恋人の肉を食べたいだなんて狂気じみている。到底受け入れられるものではなかった。詩緒里が英人に対して初めて抱いたイレギュラーな感情であることは間違いなかった。ただそれは嫌悪感ではなかった。詩緒里はその感覚に思い当たりがあった。受け入れ難い欲求のきっさきが自分に向けられて初めて、遠い昔に葬られていた記憶の断片が浮き上がってきた。それは、全く関係ない文脈のはずだった。詩緒里は困惑しながらも、自分の口の端がほんの少しだけ上がっていることに気がついた。
小学5年生だったある日、風邪をひいて学校を休んでいた詩緒里は、リビングに敷いた布団から火照った顔を出してテレビを見ていた。詩緒里は昔から学校を休んだ時に楽しみにしていた番組があった。NHKで放送されていた虫に関する15分の番組で、毎回一種類の虫を取り上げ、四択問題のクイズが出題されるという内容だった。その日も高熱を忘れて、放送をまだかまだかと心待ちにしていた。興味のない工作番組が終わった後、ついにあのおなじみのオープニングが流れてきた。上半身を起こして視聴する体勢を作った。滅多に見れない番組ということもあり、詩緒里が好きなチョウチョやカブトムシを期待していたが、その日はカマキリの回だった。詩緒里はカマキリが苦手だった。痩身長躯で不自然なほどに小さい頭に、針を刺したら何かが出てきそうな、でっぷりと詰まった腹部のアンバランスさが不気味だった。チャンネルを変えようと思ったがクイズが始まると、怖いもの見たさだろうか、食い入るように見ていた。番組の進行役であるアロハシャツを着たカマキリのキャラクターが、カマキリ同士の交尾が終わると、オスとメスの間で何が起きるかを四択問題で出題した。詩緒里は薄眼でテレビを見ながら、考えもせず行方を見守った。正解はメスがオスを食べるというショッキングなものだったが、詩緒里の内に湧いたのは好奇心だった。詩緒里はカマキリのメスがなぜ、大好きなオスを食べるのだろうか不思議に思った。体温を測りにきた母に尋ねたが、虫が嫌いな母がカマキリのことなど知るはずもなく、「きっと好き過ぎたんじゃないかな」と困った顔をしながら答えるだけであった。幼少ながらもその返答に満足できなかったが、それ以上知るすべもなく、その疑念を胸の内にしまった。
そのまましばらくたち、虫に対する興味もカマキリへの好奇心もすっかり失っていた高校生の時、授業中パラパラとめくっていた生物の資料集の共食いの項目が目に飛び込んできた。同じ種類の動物が互いに食べ合う行為の例としてカマキリが載っていた。懐かしくも妙な好奇心がおし寄せて来た。あの時知ることができなかった答えの端っこがつかめそうだった。詩緒里は何かに取り憑かれたかのように、スマホで“カマキリ 共食い”と検索した。すると検索結果には子供向けのテレビ番組では放送できないようなグロデスクな画像、映像が溢れた。あの時と同じように薄眼で見ていたものの、気がつくと見入っていた。動画のコメント蘭には、メスはオスを食べることで栄養を摂取し卵の発育をよくするという説明が書かれていた。子孫を残す確率を高めるため、メスだけでなくオスとしてもメリットがあるのだという。オスはなんの得もしていないように見えるのに、よくできてるなぁと感心したと同時に、詩緒里は最近できた彼氏に対する自分の振る舞いを重ね合わせていることに気づき、その考え方を面白がった。時々お弁当を作ってあげたり、登校する時、家に迎えに行ってあげたりと、自分はどっちかって言うとオスっぽいなと詩緒里は思ったが、カマキリのように自分の肉体を差し出すほどの愛ではないなと自覚した。進化の過程で何万年もかけて獲得したこの行動は、ひょっとすると究極的な愛の結晶なんじゃないだろうかと思えた。詩緒里はなんとなく、その瞬間のカマキリのオスはどんな心境なのだろうと疑問に思った。そもそも感情があるかもわからないが、もしあるとしたらどういう気持ちで己を差し出しているのだろう。それは愛が極まった至福な状態なのか、それとも苦悶に満ちた感情なのか。そればかりはネットで調べてもでてくるはずがなかった。
英人からの思いもしない欲望で一連の記憶が蘇った。その頃に抱いた答えがわかりそうだった。
「私、自分のHミート作ってみたいんだけど」
翌日の昼休み、Hミートを食べている加奈を前にして詩緒里は言った。
加奈は大きな目を見開いて言った。
「どうしたの?あんなにネガティブだったじゃん」
からかいと心配が9:1の配合で作られた表情を向けてくる。
「いや、ちょっと私もいつまでたっても新しいものを避けているようじゃね。ちゃんと試してみないとって思ってさ。」
昨日数秒で考えた口実をそのまま再生した。
加奈は興奮しながらスマホで色々なHミートのメーカーを紹介してくれた。
ここはパッケージが可愛い、ここは美味しく仕上げてくれる、ここは最近できた、ここは安いけど味はまぁまぁなど
よくもまぁこんなに覚えられるなと感心していたところ、円香も話に参加してきた。
「せっかくだしMeaTでやってもらいなよ、今週末のパーティーにも参加できるなら、私が紹介してあげるよ?」
そんな手もあったのかと考えていると、興奮をそのままに加奈が反応した。
「それがいいよ!そんなチャンスめったにないって!」
確かに初めて作るとなるとちゃんとしたところで作りたいと詩緒里は思った。所有しているだけで、羨望の目でみられる人気店ではじめてのHミートを作れることはそうそうない。
「円香ありがとう!じゃあそうさせてもらうね。何か持って行くものはある?」
「特になんもないんじゃないかな。あ、事前アンケートが確かあったと思うから、あとで詩緒里にメールで送っとくね」
お昼はその話で持ちきりだった。加奈は私の動機をしつこく聞きたがったが、MeaTの話を振ることで煙に巻いた。
金曜日の当日、早めに出勤して仕事を終わらせ三人で退社した。
詩緒里は途中で心が折れそうになりながらも仕上げたアンケートが鞄の中に入っているか確認した。回答項目は、家族構成や好好きな食べ物、過去の疾病歴、そして過去性行為をした相手の人数や詳細など、この質問ははたして必要なのだろうかという内容も含まれていたが、急いでいたため項目を埋めることだけに集中した。
到着したのは乃木坂から青山の方向に進んだ所にある、昔はクラブだっただろう施設を居抜きで貸し出しているパーティスペースだった。受付を済まし、クロークに荷物と着替えを預けると、ウェイターがドリンクを給仕しにきた。詩緒里はシャンパンを持って円香と加奈のあとを付いて行った。円香が手をあげて一人の男性と合流した。男性は日焼けして浅黒く、髪もジェルで固めた、いかにもスタートアップで働いている人の風貌だった。
「円香!ひさしぶり!綺麗になったんじゃない??」
「あんたは拍車かけてチャラくなってるね!今日は誘ってくれてありがとね。」
男と円香は学生からの仲を証明するように、楽しそうに話している。部外者である詩緒里たちは手持ち無沙汰で周囲を見渡した。
パーティに来ている人は、皆華やかな雰囲気を持ち、どことなく浮ついている。円香らの一通りのやりとりが終わり男が上品に掌の先でこちらを指した。
「そこの二人は?」
「会社の同僚、詩緒里と加奈。」
円香がこっちを見て言った。
「そしてこの人が大輝。大学ではこんなに黒くなかったからわからなかったけど。そんで今日はね、」
円香が詩緒里の腕を組んで言った。
「この子がHミート初めて作りたいって言ってるんだけど、今日手続きしてもらうことってできる?」
「へー今時珍しいね、全然かまわないよ」
加奈の大輝に対する羨望のまなざしを遮って言った。
「お会いしたばかりなのに無理言ってすみません、ありがとうございます。」
「全然。顧客が増えるから俺としては嬉しいよ。」
「初めてなのでどうしたらいいかわからないんですが、一応円香に言われてアンケート用紙は持ってきました」
「用意がいいね!あとは簡単だよ、唾液をちょっともらうだけだから。」
一樹は詩緒里が持つアンケート用紙を見て言った。
「ちょっとこっちおいで」
連れて行かれたのはクロークの奥にある控え室だった。扉を開くと大量のチューブや透明な皿が所狭しと並んでいた。どうやら詩緒里以外にもここで作る人は少なくないようだった。
大輝は手袋をつけ、手慣れた様子でテーブルの上に並んだチューブを手に取った。シールに詩緒里の名前と番号を書きチューブに貼った。詩緒里は言われたままその中に唾液を入れ、蓋を閉じて返却した。
「完成して、自宅に届くまで1ヶ月ぐらいかかるかもしれないから、まあ気長に待っといて、味付けは初めての人でも抵抗ないようにしとくから。」
「あの、」
詩緒里は言った。
「できたら何も味付けしないでお願いできますか。」
言い終わらないうちに大輝は詩緒里をじっと見た。そして何かを察したように言った。
「たまにいるんだよね、絶対においしくないのに頼んでくる人が。」
ただ、大輝の目に詩緒里を責めている様子はなかった。詩緒里がなにも言わないでいると、ぼそっとあまり深入りしないようにねとだけつぶやき、二人はその部屋を跡にした。
三週間後、詩緒里の自宅にチルド宅配便が届いた。段ボールには大きく”ナマモノ”と”冷蔵”と印字されたステッカーが貼られていた。詩緒里は自分の肉が、輸送システムに乗って運ばれたのがシュールでおかしかった。中身を傷つけないようにカッターナイフで慎重に段ボールを開封すると、そこには取り扱い説明書とHミートを掴んで食べる際に使う包装紙がぴったりと敷き詰められていた。包装紙は、デザインの良いハンバーガーの包みだった。その下には大量の緩衝材と、さらにその下には保冷剤がぎゅうぎゅうに入っていた。一つ一つをダンボールから出していき、最後の保冷剤を取り除くとようやくその下に、テレビや雑誌でしか見たことのない缶ケースが現れた。表面にはMade from Shiori Kakizakiと印字されている。詩緒里はこの中に自分の肉が入っているとは到底思えなかったが、缶を手に取ると内容量以上の重さを感じた。蓋を開けるとさらに白い包み紙に包まれた物体が確認できた。詩緒里は過剰気味の包装にある種の心地よさを感じた。筋肉や内臓が、皮膚や骨で保護されているように、Hミートにも外界との隔たりがしっかりあることに安心した。白い包装を脱がすと、淡いピンク色をしたミンチ状の肉塊が露わになった。Hミートの表面は冷却便との温度差でわずかに湿り気を帯びており、小さな水滴が光沢を放っていた。生き物の生々しさを主張しているようだった。初めて向き合う自分の一部との歪な対面に胸の高鳴りが大きくなっていくのを感じた。早速英人と今夜会う約束をして、Hミートをレンジの中に入れた。
英人といつも通り待ち新宿で合わせをして、近くの居酒屋で食事をしたあと、詩緒里の自宅に向かった。詩緒里は少し緊張していた。英人の要望にあれほど困惑を露わにして拒絶したのに、突然Hミートを渡したらどう思うだろうか、急な心変わりに引かれないだろうかと思った。ただ、それ以上に、自身のHミートを英人に食べさせたいという思いの方が強かった。家に到着し、詩緒里がお酒とおつまみの用意をしていると、英人はカバンからおもむろにラッピングがされた掌サイズの箱を取り出し詩緒里に渡した。
「この前は本当にごめん」
詩緒里は心当たりがなかった。
「前のお詫び、ほら前に俺が、あの、変なこと言い出して詩緒里を困らせちゃったからさ。」
英人は頭をかきながら早口で言った。箱を開けると、詩緒里が欲しかったイヤリングが入っていた。どうやら前のHミートの件を気にかけていたようで、ずっと考えていたらしかった。詩緒里は英人が心からいとしかった。ソファに座り、晩酌をはじめた。詩緒里がいつものようにたわいもない話をして、英人は相槌を打ちながら更に話題を降る。普段通りの光景である。しかし、詩緒里の心はHミートでいっぱいだった。いつもより酒が進み、開けたばかりの缶チューハイがすぐに空になった。
「お酒とってくる。なんか他におつまみも作ってくるね」
そう言って詩緒里は席を立った。冷蔵庫に行き缶チューハイと、Hミートが入っているレンジのスイッチを押した。タイマーの音が鳴るまでの時間がとんでもなく長く感じられた。Hミートはレンジの中で朱色の照射を受けて回り、じっくりと焼かれている。ただの肉塊ではなく、詩緒里の愛を形にしたものだった。それを見ながら詩緒里は過去の恋愛を振り返った。今やっている行動はどの彼に対しても当てはまらなかった。唯一、英人だけにしてあげられる愛情表現だと断言できた。その純粋さがとてつもなく嬉しく、純粋であればあるほど真理に近づけると心が高鳴った。
温め終了を告げる音が鳴った。詩緒里は自分の分身をレンジから取り出し、付属の包装紙に大事に包んだ。居間に目を向けると英人はテレビを見ながらスマホをいじっている。詩緒里は小さく息を吐き英人の元へ向かい、少し震えて英人に手渡した。
「え、これ何?」
当然の反応だった。
「Hミート。私の。」
詩緒里は言った。
「…」
「前食べたいって言ってたし。」
「え…。」
詩緒里は持っているHミートをさらに英人に突き出す。
英人は無言でそっと受け取った。
「驚かせてごめんね」
詩緒里は英人の挙動を見逃さないようにじっと目を見て言った。
「まさかもらえるとは思ってなかったんだけど、」
英人の目が詩緒里とHミートを行ったり来たりしている。
「いいの?」
詩緒里は頷いた。
「あ、ありがとう。」
詩緒里はもっと喜んでくれると思っていたので内心少しがっかりしたが、それよりも早く食べて欲しかった。
「今食べて欲しい。」
ほとんど命令に近い口調だった。英人はとまどいつつ、包みを剥き始めた。詩緒里はその様子をみながら考えを巡らせた。これは自分が望んでいることなのだろうか。それとも英人の欲に呼応しただけなのだろうか。いや、今はどっちだっていい。詩緒里はその瞬間の自分から湧き出る何かが楽しみでならなかった。
英人の不器用な手元がじれったかった。幾重にも包まれている私的な部分が徐々に露わにされていく。詩緒里は肉塊が自分の肉体とリンクする感覚に見舞われた。英人の指がそれを乱暴に剥いていく。詩緒里は生唾を飲んだ。包みが破られ、とうとうむき出しになった。蒸気をあげているそれは今にも脈動しそうだった。包装紙からは肉汁が溢れている。詩緒里はそのまま食べてと促した。肉汁がしたたり、ベージュのソファカバーが赤茶色に染まっていった。詩緒里は初めてセックスをしたときでさえこんな拍動があっただろうかと思った。
「食べるね。」
「うん」
英人の大きな口が小さくあいた。ゆっくりと口に近づけて、歯がそれに触れた。詩緒里は咀嚼をこんな間近に見たことはなかった。コーヒーの飲み過ぎで微かに茶色ばんでいる英人の歯が少しずつ肉の中に入り込んでいく。肉の繊維がちぎれていくのがスローモーションのように見えた。意図しているのかと感じるぐらいゆっくりと噛みちぎられた。
咀嚼、咀嚼、咀嚼。
薄紅色の穴の中に消えていった分身の行く末を想像した。肉は形状を保ちながらも歯と歯に潰され、舌で転がされなすすべもなく潰されていく。艶かしく蠢動する舌の上の無数にある受容体がそれをしっとりと引き受ける。口の中でよじれた柔肉が喉の管を通過しそうになった時、詩緒里はじわじわと下腹部から湧き出てくる心地よい違和感を感じた。
いま、目の前で行われている摂食行為は、これまで詩緒里がしてきたこと全てを包括している行為だった。ご飯を作り食べさせ、セックスをしてあげるといった事は、付き合う上での娯楽にはなり得たが、詩緒里を排除しても成り立ってしまう。しかしこの行為は必ず、英人を底から支えるエネルギーを生み出す。詩緒里はHミートが届くまでの間、代謝について調べていた。肉はアミノ酸に分解され、ATPを作り出す。ATPがADPとリン酸に分解される際にエネルギーが取り出され、生命活動に使われる。英人の今後を支えているという気持ちは確実なものだとわかって嬉しかった。なんて素晴らしい行為なのだと思った。
丁寧に食べていた英人は徐々に日常的な摂食行動としてそれをどんどんのみ込んでいった。詩緒里は彼の下半身に激しい隆起を確認した。ひどく興奮していた。一人前に仕事をして社会的な地位もあり、休みの日は子供のような可愛らしさを見せる目の前の男性が惨め垂らしく自分の肉を頬張っている姿が、詩緒里の承認欲求を満たした。詩緒里の太ももをぬるい液体が伝っていった。Hミートを食べる事。これは擬似的な捕食である。詩緒里は選ばれて、食べられている。究極的に求められている気がして、頭がおかしくなるほどに恍惚状態だった。別の女の肉を食べているところを想像すると、嫉妬でおかしくなりそうだった。性行為ではない、ただの摂取である。しかし、これは明らかに愛情であると認識していた。カマキリを思い出した。死んでいく時こういう気持ちならば、奴らは人間よりも愛を知っている。セックスだけでしか愛を表現できない人間が哀れだと思った。
「どう、美味しい?」
詩緒里は聞いた。
英人は頬張りながら頷いた。
「詩緒里も食べてみる?」
息絶え絶えに英人が言った。
「ううん、いい」
微笑みながら答えた。
自分の肉なんてどうだっていい。
もっと近くにいたい、繋がりたい。食べられたい。衝動が抑えられなかった。これから何度となく捕食が行われる。きっと二人の間に不安が生まれても、目の前の生き物は詩緒里の肉からエネルギーを生み出し、動いていると考えると、どんなにささくれた気持ちも、いやされると思った。
詩緒里はもっと真実に近づきたかった。進化で洗練されたカマキリの気持ちを。それには痛みが足りなかった。詩緒里は英人が食べている姿を見て、キッチンに向かった。