王妃と公爵夫人 幕間
マリアとアンネマリーのお話
「マリア、今日は菓子を持ってきたの」
そうして、私は持ってきたマカロンを広げる。
色とりどりの甘いお菓子。
「ほら、可愛いでしょう?」
「ええ、とても素敵」
そう言って、目の前のマリア、いやアンネマリーは目を輝かせる。
それは、以前の彼女には見て取れなかった素直な感情表現で。
彼女は本当に私になってしまったのだなと感じた。
ギルバートとアンネマリーが離婚したあと、私は彼女を誘って定期的にお茶をしていた。
王宮で王妃がお茶会を開けば、他のご令嬢も呼ばざるを得ない。
だから、こっそり彼女の家を訪れ、時には彼女の姉も交えてお茶会を開いた。
アンネマリーと私は、ある種対照的でありながら、共に「令嬢の中の令嬢」と称される存在だった。
私は、色々な表情をみんなに披露してみせたが、その実、本当の気持ちは絶対に見せなかった。無礼なことも、不躾なことも笑顔で受け流し、時にはあえて嘆いてみせながら、絶対に許しはしなかった。
アンネマリーは、完璧な笑顔で全てを隠し、全てを受け入れた。無礼なことも、不躾なことも、笑顔で全てをなかったことにしたけれど、それらの与える傷は確実に彼女を蝕んだ。
二人とも、幼き頃、王子たちと交流があったこともあり、王太子妃として名前があがるのは、当然のことといえた。
けれど、王太子妃に私を、と最初に声をあげたのは、意外にも私の父ではなく、この国の宰相ーアンネマリーの父だった。
「あの子は、王妃には足りません」
彼女の性格は、王妃には向いていない。
そしてその性格は、どう足掻いても、頑張っても、すぐに変えられるものではない、と。
ディオンとギルバートの母はすでに亡く、王太子妃になったものは、すぐにでもこの国最高位の女性として振舞うことを求められていた。
だから、自分の娘ではなく、私を、彼はそう言った。
それは、この国も思う、宰相としての判断だったのかもしれないし。
単純に、自分の娘を思う、父としての判断だったのかもしれない。
彼は、とても自分の気持ちの隠し方が上手な人だから、さすがに私にも見抜けなかった。
そしてその血は、確実にアンネマリーに受け継がれていた。
結婚しているとき、アンネマリーは決して幸せそうには見えなかったけれど、不幸せにも見えなかった。
彼女は公爵夫人として完璧に振舞っていたし、ギルバートも彼女には満足しているようだった。
ギルバートが、彼女に失礼なことをするかもしれない、とは思っていた。
彼女の尊厳を傷つけることもあるかもしれないと。
けれど、彼女があまりにも変わらないから。
覆い隠すことを美徳とした彼女が、あまりに表に出さないから。
だから、全ての決着がつくまで、この私ですら気付くことができなかったのだ。
「マリアは甘いお菓子が好きなのでしょう?」
私と同じく。
「ええ。王妃様と一緒ね」
彼女は無邪気に笑う。
「ふふ…。そうね。それなら…今日は私が一番甘いマカロンを貰うわね?」
「え…?」
アンネマリーが目を瞬かせる。
それはそうだろう。
土産としてもらったのは自分なはずなのに、渡してきた本人が、自分の好きなものをあえて取ろうとしているのだ。
不満がなくとも、戸惑いはする。
けれど。
「だって、甘いお菓子が好きなマリアは私だもの」
あなたはマリアかもしれないけれど、本当に甘いお菓子が好きなの?
他のお菓子の味を、知らないだけではないの?
試したことが、ないだけではないの?
そう問いかける私に、彼女は戸惑いを強める。
「私もマリアよ」
「そうね、あなたがそういうならそうでしょうとも」
私は、周りの人間みたいにアンネマリーをマリーと呼んだりはしない。
彼女がマリアだというのなら、マリアでいいじゃない。
本人が言うことを否定して、自分の思い通りにしようだなんて、彼らは何も学んでいない。
けれど、己が好きなものも、何もかも全てを他者に依存するその態度は許せない。
かつて、共に令嬢の中の令嬢と呼ばれた令嬢として。
「ダメよマリア。甘いお菓子が好きなマリアは私。返してちょうだい?」
あなたの持っているマリアは、ディオンが愛してくれた私の一部なの。
宰相が私を王妃として推したのは、あくまで政略的な理由から。
けれど、ディオンがきちんと私を愛して、顔を真っ赤にしながら求婚してくれたから。
だから、私も王妃として頑張れた。
どこか浮世離れした彼を現実に引き戻し、残酷なようでどこか優しく脆い面を持つ彼のために、時には非常な判断をした。
そんなこと、どうでもいい誰かのためには絶対にできない。
だから、彼が愛してくれた私のことは、たとえそれが一部だとしても、あなたにはあげられない。
「けれど王妃様…返してしまったら、私は空っぽになってしまいます」
彼女は、迷子のような弱々しい表情をする。
アンネマリーがマリアになったのは、一種の自己暗示だろう。
全てを自分の内側に溜め込む彼女は、優しい家族に頼ることも考えず、ひたすら耐えた。
頼ろうという考えがそもそも彼女の中に存在しなかったのかもしれないし、あまりの仕打ちに、誰かに話すということも考えらえなかったのかもしれない。
溜め込んで溜め込んで溢れて。
そうして、マリアになった。
マリアになれば、溜め込む必要もないだろうと。
だから、彼女のどこかは自分のなかのマリアを他人のように思っている。
綻びはたくさんある。
それが本当に崩れたとき、彼女はアンネマリーに戻るのか。マリアにしがみつくのか。あるいは別の誰かになるのか。
それとも、すべてを飲み込むのか。
今の彼女は、私でもアンネマリーでもない。
そんな表情は、初めて見たもの。
あなたは自分の弱みなど、決して見せなかったから。
壊れるその時まで。
そして、壊れてもなお。
「あら、いいじゃない」
私は笑う。
気に食わなかった。
ギルバートに怒っているのは、本当。
だけど、私が怒りたいのはギルバートだけじゃない、あなたもよアンネマリー。
全てを受け止めるだけで、自ら手を伸ばさなかったあなた自身に。
最後の最後、溢れる瞬間になって、ようやく手を伸ばした、あなた自身に。
だから、楽な方向に進むことは許さない。
すべてをなくして楽になろうだなんて、絶対に許さない。
「空っぽになったら、埋めればいいのよ」
また新しく、素敵なもので、たっくさん。
「私、あなたから返してもらうことは譲らない」
けれど。
「あなたから奪ってしまうからには、ちゃんと責任をもって埋めるお手伝いしてあげるわ」
にこりと笑って、呼んだのは、王家もよく利用している商会の人間。
貴族にはない日焼けした肌と快活な笑顔が特徴的な、優秀な商人だ。
「ルーク、持ってきたものを広げてくれる?」
「かしこまりました、王妃様」
彼が広げるのは、様々な魅力的な商品。
遠い異国のお菓子や、見たことのない色合いの反物。
どうやって使うのかすらわからない、複雑な意匠の髪飾りを始めとするアクセサリー。
「こんな…始めてみました…」
「ふふ。今日は、特別に珍しいものばかりを揃えてもらったの」
ザイツ商会は、外国との貿易に秀でている。
ーこの国の人間が見たことのないような、不思議な品物を揃えてちょうだい?
そんな気ままな王妃の注文に、彼は応えてみせたのだ。
「ねえ、アンネマリー」
「はい」
「この世にはね、見たこともない、いろいろなものが、たくさんあるのよ」
そして、深窓の令嬢である彼女が会ったことのない、色々な人間が。
彼女は、いずれ貴族に嫁ぐべく育てられた優秀な令嬢だった。
そして、そんな優等生の視野を広げてあげたのは、かつてのギルバートだった。
彼の知識は、彼女を夢中にさせた。
けれど、彼女の世界を広げてあげられるのは、彼だけじゃない。
そのことを、彼女は知るべきだ。
「ルークはね、自分も国々を飛び回って直接買い付けているから、色々な国の話を知っているのよ」
「まあ!そうなのですか?」
「王妃様は買いかぶりすぎです。巷にある冒険譚には遠く及びません…。ですが、実際に行ったからこそわかる、ささやかながら愉快な話なら、たくさんございますよ」
マリア様のお目にかなうかはわかりませんが、と茶目っ気たっぷりに答える彼に、アンネマリーは目を輝かせた。
その表情は、皮肉なことに、研究に夢中なギルバートを思い起こさせた。
彼と彼女もまた、ある種似た人間だったのかもしれない。
その寄る辺が本か、はたまた人間か。その違いだけだったのかもしれない。
「相変わらず魔女もびっくりの猫かぶりねー!マリア」
「…スピカ」
お茶会を終え、王宮の自室に戻ると、そこにはなぜか先客がいた。
魔女スピカ。
薬草や呪いに長け、この世の様々な不思議なことを知っている種族。
人より長い寿命をもち、見た目で年齢が全く測れない不思議な種族。
彼女たちは特定の国を持たず、各地を放浪する。
特定の誰かに仕えることはなく、身分の差などまるで気にしない。
そして、気にしないことを許されていた。
スピカは、この国が気に入っているようで、毎年必ず一回は訪れる。
たまに、気が向いたときに助言を与えてくる彼女が、私は苦手だった。
どんなにうまく隠しても、絶対に見通してしまうから。
「どうしたのですか?また我が国の料理が恋しくなりましたか?」
「んーそれもあるんだけど」
弟の根性を叩き直すのを手伝ってくれって言われちゃってさー。
と呑気に続ける。
「ディオンが」
あの愚弟に、そこまでするのか。
「おやあ?王妃様、眉間にシワが寄っているよー」
にやにやとスピカに指摘される。
屈辱だ。
「まあ、王様は私のお友達だしー?」
それに、あの王様にとって、もう家族といえるのは、あんたと弟ぐらいでしょ。
真面目なディオンは、政治に興味の持てない父親のことを嫌っていた。
そして、そのことをこの魔女は誰よりもよく知っていた。
「為政者としてどうかしらとは思うけどー」
為政者だって、理性的になれないことはあるよね。
あまりに、理想的な君主であればあるほど、どこかで発散しないと国を滅ぼしたくなっちゃうもんよ。
年齢不詳な魔女は、そう言って大人びた笑みを浮かべた。
「縁起でもないことを言うのはやめてください」
あなたが言うと洒落になりません。
そう苦言を呈した私に対して、彼女はけらけらと楽しそうに笑う。
「ごめんごめん。私がこの国の料理が好きな限り、そんな事態にはならないよー」
「…良い、料理人を雇うことにします」
「そうしてそうしてー」
それにしても、と彼女はにんまり笑う。
「マリアは、ギルバートに厳しいね?」
「当然でしょう。気持ち悪いとしか思えません」
「本当にそれだけかなあ?」
だから、魔女は嫌なのだ。
自分で認めるのは屈辱的だが、確かにギルバートと私は似ている。
自分の能力を過信しているところが、特に。
自分の能力を過信してグロック子爵をあしらえきれずに暴走させた私と、自分の興味を重視して、それがもたらす副作用を無視したギルバートは、とても似ている。
だからこそ、より許せないのだ。
彼を見ていると、自分の罪を突きつけられるから。
むっつり黙り込むと、今度は声を立てて笑われた。
「黙り込むってことは図星だねー」
「放っておいてください」
「まあ、そんなに嫌わなくてもいいんじゃない?」
確かに、彼は許されないことをしたけれど。
自分の罪と向き合って、他者からの罵りに耐えるのは、想像以上に苦しいこと。
その苦しいことを素直に受け入れようとしているよ。
それだけ言うと、彼女は立ち上がった。
「さて、と。それじゃあ行ってくるね」
「もう、向かわれるのですか?」
「まあ、面倒なことはさっさと終わらせたいしねー」
あ。
と、扉を開けた彼女はこちらを振り向く。
「ルークを彼女に会わせたのは正解だったんじゃない?」
これまで幸せになれなかったアンネマリーにも、修道院に行くんじゃなくて、もっと幸せを自ら掴みにいってほしいよね。
「まあ、アンネマリーも考えないといけないけどね」
彼女が求める幸せは、何なのかを。
それがわかるのは、今後の彼女に幸せをもたらせるのは、彼女自身しかいないのだから。
「マリアはその手伝いをしてあげようって思ってるんでしょ?」
そう彼女に言われ、私はそっぽを向く。
「知りません。私は、彼女が私になりきっているのが気に食わないだけです」
「ふーん」
そういうことにしておいてあげるね、と笑いながら、今度こそ出て行った。
「本当に、知りません」
誰もいなくなった部屋で、つぶやく。
そう、彼女の幸せなんてどうでもいい。
目立つ存在は憧れと共に、批判も集める。
共に称されながら、ライバル同士と煽られ。
それでもなお、私を素直に褒め称えていた彼女のことなんて、気にしていない。
ディオンに頼まれたから、仕方なく話してあげているだけ。
「わたしね、いろんなくにをみてみたいなあ!」
幼き頃、目をキラキラさせながら、そう教えてくれた彼女のことなど、もう忘れてしまった。
あのキラキラした瞳を、もう一度取り戻して欲しい。
そんな押し付けがましいことを、この私が考えるはずはないのだから。