私が彼女を失うまでー回顧録 上
「わたしが消えた日」のギルバート視点。
私は、自分が賢い人間だと思っていた。
だが、違った。
私は他者の英知を自分の頭に詰め込むことに一生懸命になりすぎて、自身を成長させることを忘れた愚かで幼稚なただの男だったのだ。
「お久しぶりです、公爵さま」
完璧な淑女の礼で、挨拶をしてくるベーレント伯爵令嬢アンネマリー。
兄である国王ディオンがアンネマリーの父である宰相を信頼しているのは周知の事実だった。
アンネマリー自身も幼い頃からよく知っていたし、結婚の相手としては申し分なかった。
王太子にしては、結婚をするのが遅すぎたとも言える兄ディオンがようやく婚約者と結婚したのは、私が25歳の誕生日を迎えてすぐ、うららかな日差しが暖かい春の日のことだった。
相手は、マリア。
女性にもかかわらず、博識で、頭の回転が早く。
それでいて優雅で気品を決して失わない。
常に穏やかな笑みを浮かべ、貴族、市井のものを問わず、優しく接するその姿は、淑女の中の淑女だった。
尊敬する兄の相手にふさわしい、素晴らしい相手だ。
彼女ならば、この国のさらなる発展に必ずしや貢献してくれるはず。
彼女との婚姻と同時に、王位を譲られた兄の即位式兼結婚式は、ここ十数年なかった国家的な慶事として、国民を熱狂させた。
その式の中、私はちくりと胸が痛むのを覚えつつ、最前列で兄を祝福したのだった。
「ギルバート、お前もそろそろ身を固めるべきだろう?」
兄が結婚して2ヶ月。王宮の浮ついた雰囲気も落ち着いてきたかに思えるその頃。
そういって茶目っ気たっぷりに兄がよこしたのは大量の肖像画と紹介文だった。
ああ、なるほど。
これまで兄にすべていっていた縁談が続々と私に流れ込んできたのだ。
「そうですね…。兄上は誰がいいと思いますか?」
正直、生涯をともに過ごしていいといえるご令嬢は思い浮かばない。
私が、いつまでも側にいてほしいと思える人は結婚してしまったから。
「いや…自分でこれと思う人にしなさい。幸いにも、マリアが私との結婚を了承してくれたから、王家としても政略結婚にこだわる必要はないのだし」
国内外の情勢は現状安定している。
それに、マリアは古くから我が王家に仕える侯爵家の令嬢。
政略結婚、と言われても申し分のない家柄だが、兄とは恋愛結婚だった。
貴族たちは納得し、民衆は情熱的な愛に熱狂する。
そんな、理想的な王妃だった。
「ですが…私にはわからないのです」
「ギルバートさま。私、深い緑色がよく似合うといわれますのよ」
ーほら美しい私にこんなに似合うでしょう?だから買ってくださいな。
「ギルバートさま!今話題の歌姫を我が邸に招きますの。いらっしゃいませんか?」
ーここまでしたんだから、誘いにのってくれるでしょう?
社交界に出ると、そんな下心ばかり聞こえて来る。
本心は見え透いているのに、みんな平気で嘘をつく。
そんな女性たちに飽き飽きしていた。
「そうか…」と顔を落とした兄が、次に私に顔を見せたとき、その表情は先ほどまでのものとはうってかわり、真面目なものとなっていた。
思わず、姿勢を正す。
「ギルバート、改めていう必要もないとは思うが…伴侶とは生涯をともにする相手だ」
政略結婚であれば、互いに愛がなくても、「政略」的に役に立っているという事実が二人を繋いでくれる。
それがなければ、二人を繋ぐものはなんなのか。
愛か。
あるいは契約か。
「いきなり、愛する女性を見つけろというのは無理がある」
もちろん、見つかるに越したことはないが、と区切り、続ける。
「利害関係でもいい、友愛でもいい。これからの人生、この女性となら互いに高め合っていけるだろうという信頼関係でもいい」
ただね、ひとつ気をつけなさい。
「いかなるときも、相手の存在を忘れてはいけない」
お前が好きな本や、研究とは違う。
向かい合う相手は、お前と同じように心をもち、お前と同じように考えている。
「それを決して忘れないことだ」
私は、お前が愛しあう相手と結ばれることを祈っているが、もしそれが叶わないのであれば、せめて、誰かを不幸にしないことを望むよ。
「…私が、ではなく相手を不幸にしないことに重きを置けと?」
「お前は、不幸であれば、自分で道を切り開ける子だろう?それに自分でわかっていないようだけど、優しい子だからね」
誰かの生涯を不幸にしたとき、お前もその重荷に潰されるだろうよ。
その言葉の意味は、正直よくわからなかった。
再び真面目な表情を崩した兄上が「おや、アンネマリーの肖像画がある。あの子も美しく育ったね」といったのを聞いて、幼馴染の彼女のことを思い出した。
アンネマリーなら、彼女なら側にいても良い、そう思った。
だから、決めた。
「ぎるばーとさま、みて!きょうのドレス、かわいいでしょう?おきにいりのいろなの」
アンネマリーは自分が好きなものを報告するのが好きだった。
自分がみた素敵なもの。
自分が大事にしているもの。
それらをキラキラとした目で報告してくる様は、幼き頃の自分からみても可愛らしかった。
ねだるわけでもなく。
押し付けるわけでもない。
ただただ、素敵なものを大事な人に教えようとするその一生懸命なさまを思い出した。
そうだ、彼女なら社交界で出会った女性たちとは違うかもしれない。
「ねえ、ぎるばーとさま。これなあに?」
幼い頃、アンネマリーはずっと私の後ろをついてまわっていた。
何か目新しいものを見つけるたびに、本を読んでいる私の元へかけより、目をキラキラさせながら問いかけてくる。
この人に聞けば、なんでも知ってる。
そんな信頼に満ちた表情で見つめられ、幼い私の自尊心は大いに満たされた。
そうだ。彼女であれば、一生側にいても苦痛ではないかもしれない。
「兄上」
「どうした?」
「婚約者は、アンネマリーにします」
「…そんなに急に決めてしまっていいのか?」
まっすぐ兄に見つめられる。
「ええ」
「…ベーレントには先に伝えておこう」
必ず、アンネマリーに了承を得るように。
そう、兄は子どもに言い聞かせるように私に言った。
結局、アンネマリーに直接了承を得ることはしなかった。
彼女の父、ベーレント伯爵に婚約したい旨を伝え、面会の機会を作ってもらっただけ。
私は兄の忠告を忘れたのだ。
否、無視したのかもしれない。
知識に自信のある自分には、認めがたいほど理解できないことだったから。
人間は苦手だ。
本のほうがいい。
先人たちの英知の結晶は、私にたくさんのことを教えてくれ、探究心を抱かせた。
王子としては欠陥ともいえる外交嫌いは大いに父を苛立たせたが、唯一兄だけは理解してくれた。
「お前は、できないわけではないよ。外交の能力をすべて研究にまわしてしまったんだ」
そう笑って、私の分も外交を引き受け、研究に集中させてくれた。
父との防波堤になり、二人分の仕事をこなしてくれた兄。
そんな兄の信頼に応えるべく、私は努力した。
品種改良により、疫病に強い作物を生み出し、新たな薬効を持つ薬草を見つけ出す。
豊富な資金と資材を持ち、時間をもてあました第二王子だからできたのだと、それだけ条件が揃えばできて当然だと父には罵られたが、やはり兄は「ギルバートはすごいね!これで民の生活が楽になるよ」と一点の曇りもない笑顔で賞賛してくれたのだった。
そうして結果を出すにつれ、同年代の人間は自分に比べて愚かでたまらなく思えた。
だが、唯一、マリアだけは別だった。
女性ながらも、多数の本を読み、思考し、私の話にもついてこれる。
そんなマリアを尊敬していた。
そう、あれは尊敬であって恋情ではない。
私は、兄嫁に横恋慕などしていない。
「マリア様は陛下とではなく、ギルバート様とご結婚されるのかと思ってましたわ」
「やめろ」
アンネマリーの言葉に、揺らいだりなど、していない。
婚約を正式に発表して2週間。
幼い頃こそ交流のあったものの、思春期に差し掛かってからは、一切交流のなかった宰相の娘、アンネマリー。
兄に政略結婚である必要はないといわれていたし、私自身も政略結婚のつもりはなかったが、社交界、特に下級貴族の間で政略結婚の噂が流れるのは時間の問題だった。
なんとも馬鹿らしい話だ。
貴族は私に群がるが、そもそも、自分には政略結婚をする価値などない。
兄上に子どもが産まれるまでは、いざというときのスペアとしての意義こそあるが、それだけだ。
それを、皆はわかっていないのだ。
だが、あえて私は否定しなかった。
下級貴族の間で流れている噂をわざわざ私本人が潰すまでもない。
それに。
アンネマリーとは政略結婚ではないが、恋愛結婚でもない。
アンネマリーもそれは重々承知のはずだから。
彼女は、見知らぬ誰かに嫁ぐよりも、幼馴染の自分に嫁ぐ方を良しとして、承諾してくれたのだろうから。
「旦那様。ベーレント伯爵令嬢への贈り物はいかがなさいますか?」
「あー…」
そうか、さすがに婚約者になったからといって、結婚まで放置するのはよろしくない。
会いに行く時間は取れないのだから、何かしら贈り物は手配しておいたほうが良いだろう。
ただ、私には彼女の好むものがわからない。
先日、ベーレント伯爵を介して会ったアンネマリーは、表情豊かに一生懸命自分の好きなものを教えてくれた、そんな幼少期などまるで感じさせない完璧な淑女になっていた。
私の一挙一動に目を輝かせ、自分の好きなものを一生懸命伝えてきた、あの少女はもうどこにも見受けられなかったのだ。
かつての彼女が好きなもの。
たしか、花を好んでいた気がする。
特に、ガーベラが満開になる時期には目を輝かせていた。
だが、今の彼女はどうだろう。
「バラを、毎週届けてくれ」
マリアはバラが好きだった。
この国の女性の頂点に立つ彼女が好きな花なら、間違いはないだろう。
婚約期間は約半年。
正直いって、婚約期間の作法などあまりよく知らない。
花だけ贈り、舞踏会のエスコートをするだけでは、足りないのかもしれない。
だから、唯一気軽に聞ける兄に、マリアに何を贈ったか聞き、それをそのまま踏襲した。
色や嗜好をそのままに。
だから、結婚式のときには、驚いた。
ベーレント伯爵家が、アンネマリーの結婚式のために用意したのは、すっきりとしたデザインの薄いブルーのドレス。
式場を満たすのは様々な色のガーベラ。
幼き頃の彼女は、まだ、そこにいたのかもしれない。
そのときようやく、そう思ったが、自分の愛するものに囲まれているはずの彼女が、一切その表情を変えない姿を見て、認識を改めた。
やはり、彼女は変わってしまった。
そして、こぼれんばかりの笑みを浮かべた国王夫妻を見て、泣きそうになる。
兄上の言うとおり、あのとき即決すべきではなかったのだ。
結婚式の後には、初夜がある。
正直、憂鬱だった。
私の中には、あの頃の、幼く一生懸命なアンネマリーがまだ残っている。
あの無邪気な少女を組み敷き、苦痛ともいえる行為を強いるのは気が進まなかった。
だが、気が進まなくとも、夜を共に過ごさねば、立場がないのはアンネマリーだ。
愛がなくても情はある。
彼女に、肩身がせまい思いをさせたくはなかった。
「マリア」
ベッドのなか、そう言ってしまったのは、自分でも予期せぬことだった。
愛がなくても情はある、肩身がせまい思いをさせたくないと、そう思っていたはずなのに、なんということを口走ったのか。
自分の言葉をごまかすように、アンネマリーに口づけを落とし、ぎゅっと抱きしめる。
ーマリア。
彼女が兄と結婚したことは、間違いなく嬉しい。
だが、悲しくないかと問われれば嘘になる。
もう誤魔化しようもない。
マリアは確かに私の初恋だったのだ。
そして、今もなお、その気持ちを完全に消しきれていない。
唐突に思い出し、幼馴染を傷つけるほどには。
言った瞬間こそごまかしたが、さすがの私でも、そんな失態を犯した中で、朝まで共には過ごすことはできなかった。
とんでもない失態だ。
さすがにアンネマリーも私を許しはしないだろう。
重苦しい気持ちになるのと同時に、妙な期待感が胸に湧き上がった。
彼女は、幼き頃のように、またあの大きな目に涙をいっぱい溜めて、怒ってくれるだろうか。
自分でも異常だと思うが、その想像は甘い蜜のように私を誘惑し、捉えて離さなかった。
彼女が怒ったら、自分も謝るのだ。
そして、提案しよう。
自分たちに恋情はないが、家族として共に時を刻んでいこうと。
そう、すべて自分に都合よく考えていた。
そんな私の仄暗い期待に反して、翌朝会ったアンネマリーは表情も、態度も崩さなかった。
そうして、私は彼女に許しを請う機会を失い。
己の醜い欲望を正す機会を失ったのだ。