7.浮遊感(4)
内側であるのに、外側。
それが、小説を書く、ということなのではないだろうか、と、わたしは、現時点で思考している。
そして、これは、すごく不思議なことに思えないだろうか?
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わたしは、表現を表出する時、表現者は、そこに切迫感を常に持ち、ただただ激情のまま吐き出したく、そこに表出する、切迫したものでしょう。と別の雑文で書いたことがあるのだけれど、
小説を書くという行為は、同じ、表出であっても、趣が違うように思う。
切迫したものは、作者様の中には、あるのかもしれない。
あるのかもしれないが、それは、すこし、趣が異ならないだろうか……?
……もうすこし、細かく追及していこうね。
あらゆる表出は、表出する方の中から生まれている、ことは同意して頂けると思う。
けれども、考えて欲しい。
絵や詩、そして、エッセイは、きっと、いえ、わたしが、思っているだけの独善的な、きっと、という言葉に過ぎないが、
そこには、”その作品を何故自らが創らなければならなかったのか”を、常に考える必要があり、それらは、作品に付随していくもの、寄り添うもの、混在するものであるからこそ、
……ここで、わたしは敢えて、このような感情的な言葉を書き込むが、赦して欲しい。……わたしは、多分今、精神的に参っているんだ。
その作品以上に大きく膨らみ、そして、小さくもなる。
そして、作者様が見つめたかったessenceは、なにかよくわからない大きなものにきっと成り代わってしまうんだ。それは、見失ったと言わないだろうか。わたしは、わからないんだ。
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