第8章『堺‐梅田』
病院でもらった薬は驚くほど早く効いた。
あれだけ腫れ上がっていた足首が、数時間後にはすっかり引いて、歩くこともできそうだった。これがオーパムの技術なのかと感心し、彼らなら死人でも生き返らせるのでは、と縦井香穂は思った。
治療代のことを細村に訊ねたが、気にするな、と言われた。
きっと高かったに違いない。しかしたぶん、細村はカネの心配なんか全然ないのだろうと、オーパムからの今回の報酬額を知らせるメールを見て思った。
命がけではあるが、それに見合うだけの高額――というより巨額の報酬が与えられた。
これ以上はないというぐらい豊かな生活が送れる。
南海堺駅直結のタワー型マンションの最上階。三十五階からの見晴らしは、まるで天下をとったが如くで、ただで居候しているのが申し訳ないほど。
せめて家事でも、と申し出たものの、食事は外食ばかりだし(そもそも鍋やフライパンなどの調理器具どころか、皿やフォークなどの食器すらろくすっぽ置いてないのだ)、掃除や洗濯も最新鋭のロボット家電がこなしてくれて、あまりすることもない。
元の世界へ戻っても、とてもこんな生活は望めない。
このままここにいたほうがいいのかなと、香穂は心が揺れそうなほどだ。
なにより細村は紳士で、なぜこんな危険な仕事を選んでいるのかと香穂は訝った。普段の物静かな態度とエリア・オーサカでのワイルドな姿とではずい分ギャップがあった。カネのため? そのわりには遊び歩くことはない。こんな贅沢な暮らしをしてはいるものの、決して散財するほどの浪費はしない。
細村行き付けのイタリアン・レストランで赤ワインのグラスを傾けつつ、香穂は訊ねてみた。
細村は小さく微笑み、
「他に仕事がなかったからさ」
と言ったきり。
運ばれてきた料理を一品ずつ味わいつつ、それ以上、その話題に触れることはなかった。
月明かりが煌々と歩道を照らしていた。
河岸に整備された公園は、タイルブロックが敷き詰められ、ところどころに木製ベンチが置かれて、昼間は市民の憩いの場として人々が訪れる都会のオアシスだが、この時間――夜ともなると、カップルたちが何組もベンチを占領し、各々の世界に没入していた。
夏の夜。ショットバーを出て、酔いさましに二人してふらりと立ち寄った。
夜風に当たりながら落ち着ける場所を探しているうちに噴水池のある広場まで歩いてきた。人工のせせらぎが始まる噴水池は青いライトによって控えめに浮かび上がっていた。
噴水池の縁石に腰を下ろした。
「濡れそうね」
と香穂は言った。昼間の直射日光でさんざん灼かれた水は、まだ生温い。
「すぐに乾くさ」
と彼がこたえる。
遠くの方から聞こえてくる電車が鉄橋をわたる激しい音。救急車のサイレン。都会は夜でも騒がしく、眠らない。
さまざまな音に混じって、クルマのタイヤがきしむ音がけたたましく響いた。
振り返ると、一台のRV車が公園の敷地内に猛スピードで突入してきた。
それは広場の噴水池に向かって一直線に走ってきた。
暴走車をよける余裕はなかった。彼の広い肩幅の背にしがみつくので精一杯だった。
はねとばされたとき、暴走車を追跡していたと思われるパトカーの赤色灯が一瞬だけ見えた。
目が醒めた。またあの夢だ。ときどき見てしまう。
あのときの衝撃で、この世界へ跳ばされた。香穂はそう確信している。――どうにかして元の世界へ戻らなければ。そこが本来の自分の世界で、夢に出てくる彼は自分を待っているはずだ、と……。
――必ず帰ってみせるわ。
香穂は時計を見る。午前二時。
そのまま眠ってしまう気になれず、ベッドを出た。トイレへ行こうとした。
べつの部屋で眠っている細村を起こさないようにと静かに廊下を歩いていると、リビングのガラス扉が明るい。
細村が起きていたのだ。
どうしたんだろうと、扉を開けようとして話し声がした。細村の声と、べつの男の声。だがだれかがそこにいるわけではなく、どうやらパソコンによるテレビ電話をしているようだった。スピーカーを通した、独特の音声。
「――計画は順調だ。こちらに任せてもらっていい。下手に動かれるとまずい」
そう言う細村の声は低く、強い意志のようなものが含まれているのが感じられた。
「しかし同時進行のほうが、より効果も高くなる。幸い資金も豊富だ。諸外国も秘密裡に動いているのがわかった。力を合わせればより早く――」
「エリア・オーサカが消滅しない限り、連中はぜったいに退去しない。とにかく今はまだ動かないでくれ」
「おまえはそう言うが、他のダイバーは――」
「あと少しなんだ。しばらく待ってくれ」
「……わかった。おまえがそこまで言うなら。だが死ぬなよ。おまえが死んだら、そのときは……」
「わかってる。そのときは、そっちのやりたいようにしていい」
「健闘を祈る」
細村は大きなため息をつき、扉のそばに立っている香穂に気づいた。
「ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったんだけど……」
「いや、いい……」
細村はパソコンデスクから離れると、キッチンへまわり、冷蔵庫をあけてクリスタルガイザーの五〇〇ミリを二本取り出した。
「飲むかい?」
「いいです」
一本を冷蔵庫に戻すと、イタリア製のダイニングテーブルにつき、手にしたもう一本のキャップをあけて四分の一ほどを一気に飲み干した。
「起こしちまったか?」
「ううん」
香穂はかぶりを振り、扉のそばからダイニングテーブルに近づく。
夜中に作動するようセットしていた亀のような床掃除ロボットが、のろのろと静かに床を動いていた。
「さっきの通話は、おれの仲間からだ」
細村はどう言ったものかと思案したが、結局切り出した。
「おれがなぜダイバーなんかやってるのか、って訊いたよな」
香穂はうなずき、細村の向かい側のイスを引いてすわった。
「ただ単にこんな贅沢な暮らしがしたかったわけじゃない。目的はべつにあるんだ」
水をもう一口。唇を濡らし、
「――オーパムの駆逐さ」
香穂はよほど間抜けな表情をしていたのだろう、細村はとりつくろうように言を継いだ。
「ちょっと飛躍しすぎたな。もっときみがこの世界についてよく理解ってから話そうかと思っていたんだ。だからあのとき話さなかった。オーパムが日本を根城にし、事実上、彼らが行政を代行しているのは話したろ。いや、これも優しい言い方だな。もっと単純に言えば、日本はオーパムに支配されている」
オーパムによる支配――細村はそう言いきった。香穂はしかし、街の様子を見てもそうは感じなかった。オーパム人に虐げられ、極悪な環境で生かされている人々や、デモやテロがオーパムと衝突するぎすぎすした場面にも出くわしたことがなかった。そもそもオーパム人の姿を街の中で見かけることがほとんどないのである。観光にやってきた外国人にはオーパムの存在すら感じられないに違いない。
「日本をオーパムから取り戻すのが、われわれの悲願なんだ」
落ち着いた声でそう語る細村だったが、香穂にはぴんとこなかった。
「でも、それと細村さんがダイバーをするのと、なんの関係があるんですか?」
「エリア・オーサカとはいったいなにかわかるか? どうしてオーパムはエリア・オーサカ内の鍵を壊すことをダイバーにさせているのか。法外な報酬を地球人に与えてまで。そもそも鍵とはなんだ?」
急に話がかわり、しかもいっぺんに質問されたものだから香穂は面食らう。さらにその質問のこたえについてオーパムはなにも情報を公開していなかった。香穂はなにもこたえられない。
「おれたちはつきとめたんだ。エリア・オーサカの発生の秘密、そして鍵とはなにか、を」
壁掛け時計の秒針が時を刻む音が、静寂な室内にやけに耳障りだった。
「それは……?」
言うべきことを整理している細村に、香穂は先をうながした。
「オーパムはエリア・オーサカとともに地球にやってきた。エリア・オーサカが消滅すればオーパムは地球を去る。そしてエリア・オーサカ内にあるすべての鍵を破壊したとき、エリア・オーサカは消滅し、オーパムは地球を離れる」
「本当ですか?」
「オーパムは地球に閉じこめられているんだ。帰りたくても帰れない。オーパムは帰りたいから鍵を壊しつづけてるんだ」
細村の演説が次第に熱を帯びてきた。
「…………」
「だからおれはダイバーになった。一日でも早くすべての鍵を破壊し、オーパムに出ていってもらう。この考えに賛同してダイバーになった者も多い。悔しいがオーパムの文明は人類の数段先をいっている。従来のまともな方法ではオーパムは立ち退かない。だからこれが今、日本を取り戻す一番現実的なやり方なんだ」
「さっきの電話は?」
細村は残念そうにため息をついた。
「オーパムの支配を嫌って外国へ移った者も大勢いる。彼らのなかには外国の力を借りてオーパムを追い出そうと画策している者もいる。どうするつもりかはわからないがな。さっきの通話はそいつだ。昔は反オーパムの旗をかかげてともに活動していた同志だったが、考え方が違って今では離れてしまっている。外国にいてもオーパムは追い出せないし、外国の力を借りるのも反対だ。成功するとは思えないし、もし奇跡が起きてオーパムを駆逐できたとしても、今度は外国に日本が占領されるだろう」
細村の熱弁はつづいた。
「だからおれは、より確実で平和的な方法を選んだ。危険はある。命を落とすかもしれないが、そんなリスクはなんでもない」
「もし鍵を全部壊してもオーパムが出ていかなかったら?」
「われわれの仲間にはオーパム内部に精通している者もいる。情報はたしかだ」
「…………」
香穂は激しい衝撃を受けた。細村がそんな目的のためにダイバーをやっていたなんて。そしてエリア・オーサカにそんな秘密が隠されていたとは――。
細村の思いは純粋だった。自らの命よりも祖国を重んじるその意志に、香穂は自身とはまったく異なる価値観をみて怖くなった。自分にはそんなことは考えられない。
ダイバーという、一般には異端的に見られる職をともに選んだ細村と香穂の二人だったが、その理由に星々の間ほどの距離があった。片や祖国の自治を取り返すため、片や異世界から戻るため。
「ちょっと待って――」
香穂はそこで気がついた。
「エリア・オーサカがいつか消えてしまうっていうことは、異世界をつなぐホールも消えてしまうということ?」
細村はうなずいた。
香穂は目眩を覚え、イスから崩れ落ちそうになった。
「それじゃ、わたし、元の世界へ戻れなくなってしまう……」
鍵を破壊することは、エリア・オーサカの消滅につながるが、鍵の破壊を生業とするダイバーにならないことには元の世界へつながるホールを見つけられない。激しいジレンマだった。
一日でも早くオーパムからの解放を望んでいる細村に対し、エリア・オーサカの消滅をできるだけ遅らせたいと願う香穂。
エリア・オーサカが消滅してしまう前に、ホールを見つけて帰還しなければならない。
「わたしは、本当に帰れると思う?」
香穂は細村に訊いた。その可能性はどれくらいあるのか、細村なら知っていそうな気がした。
細村はペットボトルのミネラルウォーターをもうひと口飲み、さっきまでの演説口調からはうってかわって静かに言った。
「それははっきりとはわからない。ただ、おれがつかんだ確かな情報だと、エリア・オーサカ内の鍵がすべて破壊されるのは、そう遠くない」
「エリア・オーサカが消えたら、異世界へ行く手段はなくなるわけでしょ?」
「おれの知るかぎりではな……。だが希望は棄てるな。おれはどんなことがあってもあきらめない」
細村の言葉が香穂の胸に重く響いた。
「おれからの話は終わりだ。眠れないかもしれないが眠ってくれ。次のミッションに差し支える」
細村は席を立ったが、香穂は頭を抱えたまま動かない。細村が寝室へ消えても、しばらくは動かなかった。
壁の時計の針が午前三時を指そうとしていた。仕事を終えた床掃除ロボットが、壁のコンセントに戻っていた。
今の自分にできること――。
あの夜、細村から衝撃の真実を聞かされ、香穂は動揺した。
そして二、三日か思いつづけて、結論をだした。
自分にできることをやるだけ――。
あきらめるなという細村の言葉を何度も思い返し、やっと吹っ切れた。そう、あきらめちゃだめなんだ。あきらめるものか。
エリア・オーサカが消滅したらしたで、それからのことはそれから考えればいいことだ。
細村から次のダイブの日にちと場所を聞いたときには、香穂にもう迷いはなかった。
梅田――。
細村に届いた新たなメールに記されていた、ダイブする場所。
エリア・オーサカが出現する前には、ミナミと並んで繁栄していた地区。とりわけ巨大な地下街は日本最大規模を誇った。
香穂の怪我もすでに完治し、ダイブするのに支障はない。
「いいか?」
と細村は、今の梅田の状態を、わかる範囲で説明した。
香穂はうなずく。
エリア・オーサカ内の荒廃と変貌は、香穂も実際に目にしていたから今さら驚くことはなかったが、前回のダイブ以上に手強い亜獣との戦いに注意を求められた。
ダイブは四日後、堺空港からタチャームに乗せられ、ゲートへ接近する手筈だ。
それまでの間、香穂はオーパムの射撃訓練場へ通いつめた。
初めて香穂がこの世界へ来たときに比べて、気候はずい分暖かくなっていた。日中の屋外では厚めの上着はいらないほど。
淀川河川敷き上空。四百メートル離れた向こう岸へ架かる鉄橋が左右にある。上流側が地下鉄御堂筋線で下流側が阪急線だが、もちろん見えない壁によって橋の南へは行けない。地下鉄は西中島南方駅、阪急は十三駅が終点だ。淀川に架かる橋は、そのほか何本もある鉄道も道路も、橋の形態は保っていたが、すべて「わたれない」橋だった。
真下に黒い渦が出現した。水の渦ではない。空中に現れた、エリア・オーサカへのゲートだ。
「行くぜ」
細村が香穂にうなずきかけると、
「はいっ」
と返事よく床を蹴ってタチャームを離れた。
先に渦の中へと消えていった香穂を見届けた細村は、軽くひゅっと口笛を鳴らし、渦へ飛び降りた。
阪急三番街の紀伊國屋書店前。
ミュージカルの舞台を思わせる大階段の下に着いた。
かつて梅田での待ち合わせのメッカだった、大型テレビ「ビッグマン」の前も、紀伊國屋書店出入口も、階段の上の阪急梅田駅の二階中央改札前も、始発前のようにだれひとりいない。
そこから地下へ降りる広い階段があった。
「さ、行くか」
細村は暗視ゴーグルをつけ、そこを降りていく。階段横にはエスカレーターが設置されてあるが、もちろん停止している。
香穂は見慣れぬターミナル内をきょろきょろと見回していたが、置いて行かれまいと細村を追った。
地下一階。
細村はさらに階段を降りて、阪急三番街地下二階に至った。
静寂な暗闇が不気味だった。このどこかに亜獣が潜んでいるかもしれないのである。
三番街を奥――北へと進む。
鍵はこの先にあるのだ。
通路に面して小さく仕切られた店舗が並ぶが、エリア・オーサカの完成と同時に放置され、商品は大きな地震でもあったかのように床に落ちて散乱していた。
通路に沿ってせせらぎが造られていたが、水は流れておらず水たまりとなっていた。風のない地下では液体というよりガラスか寒天のような固体に見えた。
細村は衝撃針銃をかまえつつ用心深く、しかし足早に歩く。靴底がガラスの破片を踏みつける耳障りな音が地下空間に響いた。二人とも無言である。
南館と北館をつなぐ通路をぬけると小さな池のある吹き抜けの空間が現れた。
そこで細村は歩みを止めた。
さっとなにかが動いた気配がした。人間の足音に驚いて逃げていくネズミのような気配だ。しかしもちろんネズミであるはずはない。いるとすると亜獣以外にない。
亜獣のなかにはすぐ逃げていく弱いものもあり、むろんそんな亜獣は危険でもなんでもない。危険なのはそれらを捕食する亜獣で、そいつが人間をも襲う。まさしく野生動物が支配する大自然の原理そのもので、一瞬たりとも油断できない。
吹き抜け空間の左には、催し物用の広い空間があり、その先に地下一階へ上がれる階段が傾斜した構造体を見せていた。
鍵はその催し物広場にあった。
「あそこだ!」
細村が指さし、
「おれが鍵を破壊するから、周囲を警戒していてくれ」
と、早口で言った。
「わかったわ」
香穂は細村を背中にし、パルスレーザーガンを構える。
細村は暗闇に集中する。空間にゆらぎが生じていた。それが鍵である。
そこを前に、細村はオーパム語を唱え始めた。意味はまるでわからない。まるで魔法を使っているかのようだ。
ゆらぎを中心に赤い空間が広がり始めた。それはみるみるうちに拡大し、ついには細村もその赤い空間の内部に飲み込まれてしまう。しかし視界が赤くなるだけで、それ以上はなにかを感じることはなかった。
赤い空間の中心に黒い物体が見えた。それが振動しだす。
細村の呪文はつづく。
「ギャア!」
という叫び声がして、香穂は振り返る。
ひとつの影が階段を駆け下りてきた。あまりに早く、その形状さえ捉えられない。しかし間違いなく亜獣だ。ニホンザルほどの大きさ。
香穂はパルスレーザーガンを向けた。まだ鍵の破壊は完了していない。
――ここで中断させられてたまるか。
名前もわからぬ亜獣にむけて、香穂はトリガーを引く。動きが速くて命中しない。
焦った。視野の狭いゴーグルをつけて動きの速い目標を狙うのは容易ではないが、ドームでも経験したし訓練も行なっていた。落ち着け、と自分に言い聞かして。
――そこだ!
パルスレーザーが亜獣の足を貫いた。ぎゃっという叫び声が地下に反響する。香穂は動きの鈍くなった亜獣をさらに銃撃する。
容赦はしなかった。細村に近づけるわけにはいかないと、必死になって撃ちまくった。
大きく叫んだ亜獣の動きが停止する。そこへパルスレーザーをたたき込んで完全に息の根を止めた。銃撃により手足がちぎれ原型がよくわからなくなった亜獣から目をそらし、香穂は大きく息をつく。
まだ他に亜獣が襲ってこないかと、香穂は気を引き締めた。その背後で、赤い光が消滅した。細村による鍵の破壊が完了したのである。
「終わったぜ」
と細村が声をかける。
「亜獣を防いでくれて助かったよ」
香穂はその言葉で少し緊張をとく。
「よし、次だ」
今回のミッションでは破壊する鍵が一つではなかった。梅田地下という狭い範囲内にいくつもの鍵が散らばっており、それを一掃するのである。これまで幾度となくダイバーたちが挑戦したが、亜獣に妨害され、まだ多数の鍵が残っていた。
阪急三番街の地下二階を南へと戻っていく。来たときと同じように、亜獣を警戒しながら。
南端の階段を上がり、地下一階へと来ると、右側へと曲がり、三井住友と東京三菱UFJのふたつの銀行の間と抜けて、西方向へと進む。
左側に阪急百貨店の地下階が口をあけていたが、のぞきこむと闇の向こうに亜獣が潜んでいそうな雰囲気を発していた。
なにかを踏みつけて香穂は足元を見た。暗視ゴーグルの視界に入ってきたのは人間の白骨化した頭蓋骨だった。
「きゃあ!」
香穂はとびすさった。地下構内に反響した悲鳴が自分の耳にも大きく届き、それが一層恐怖を大きくした。
細村は舌打ちし、
「過去にここへ来て失敗したダイバーだ。気をつけろ。今の声で亜獣に気づかれたかもしれん」
衝撃針銃を突き出し、慎重に進む細村。そのすぐ後ろに続く香穂。
地下鉄梅田駅の北改札口が左側にあり、自動改札機が並んでいる。駅の構内に鍵があるという。
自動改札機の列の向こうに、なにかがうごめいた。
亜獣――!
そう思った直後、亜獣は勢いよく動きだし、突進してきた。形も定かでないそれへ、二人して集中砲火。衝撃針銃とパルスレーザーガン。
接近してくるにつれ命中弾が増えてくると、反転して逃げ出した。驚くほどの早さで視界から消えた。
「行くぞ」
細村は逃げた亜獣にはもう気にかけず、自動改札を抜け、梅田駅構内へ入っていった。
たった一匹の亜獣を撃退したからといってホッとしている場合ではなかった。香穂はあわてて細村の後を追う。
コンコースの最初の階段で千里中央方面行きプラットホームの端に降りた。右手側に線路。前方は南方向で、プラットホームは一五〇メートルほど先まである。
「鍵はどこだ?」
細村は周囲を見回す。それらしい反応はない。
警戒しながら進む。改札階へ行き来する階段がホーム上のところどころにあって視野をさえぎり、ホームの南端までは見通せない。死角に亜獣が潜んでいるかもしれない。左側の壁には、なかもず方面行きホームにつながるトンネルのような通用口がいくつかあいており、そこからも亜獣が飛び出してくるかもしれなかった。
「おれはこっちを行くから、そっちのホームを頼む」
細村は通用口から隣の下り線ホームへと消えた。
香穂はそのまま進み、天井の高い場所に出た。
弧を描く高い天井を見上げたとき、シャンデリアのようにぶらさがる蛍光灯の束になにかがとりついていた。蛍光灯はむろん点灯していないが、なにかがとりついているのはわかった。
香穂はそれが襲いかかってくる前にと、パルスレーザーガンを連射した。
蛍光灯が砕け、取り付け器具が落下した。ホームで亜獣があっけなくつぶれた。亜獣といっても、どれもこれも手強い相手というわけではないようだ。
その間に、細村は鍵の破壊に成功していた。
「鍵は壊せたんですか?」
戻ってきた細村に香穂が訊くと、細村はうなずいた。
「きみが亜獣を防いでくれていたからな」
「意外と亜獣が少なくて」
「そうか……。よし、では次の鍵を壊しに行こう」
ホーム南端に大階段があった。ジャンプして一気に上りきると、すぐ前にある改札を抜けた。
丸い柱がいくつも立つ、広い地下空間に出た。左には阪急百貨店の地下階、前方奥にはホワイティうめだへつながる通路、右には阪神電車の改札口へ降りる階段があり、さらに阪神百貨店の地下階に沿った通路が伸びていた。
幅八メートルぐらいのその通路の先を見たとき、二人の足は止まった。
通路の五十メートルほど先で、三人の人影がこちらに向かってきていたのだ。
「あれは……?」
香穂はつぶやいた。
「ダイバーだな。おれたちのほかにも、この区域で活動していたんだな」
細村はこたえた。
自分たち以外は無人だと思っていた場所で思いがけなく現れた同胞に遭遇し、香穂の心に安心感が広がった。これだけの人数がいれば、どんなに亜獣がやってこようと恐ろしくはない、と。
自然と、香穂はそちらへ歩きだした。細村も同じ方向へ歩きだした。
そのとき、一匹の亜獣が阪神百貨店から飛び出してきた。三人のダイバーはさっと展開して戦闘態勢をとった。動きが速い。かなりの訓練をつんだ手練のようだ。一人は大柄な男、あとの二人は体つきから女のようだ。それぞれ武器をかまえ、亜獣と対峙した。大柄な男は強力そうで無骨なライフルを抱えていた。
「あれはフェンリルだな」
細村は落ち着いた口調で言った。
「加勢するでしょ?」
香穂が言うと、細村は口元を曲げてニヤリとして、
「いや。隙を見て通り抜ける」
「えっ?」
「彼らがフェンリルの相手をしている間に、こっちは鍵を破壊する。鍵はこの先、西梅田駅にある」
「でも……」
「やつらは慣れている。大丈夫だ。いいから来い」
動きの速いフェンリルだったが、幸い一匹しかいない。通り抜けるのはさほど困難ではなかった。
フェンリルの動きをじっと見つめ――全速力で走り抜けた。フェンリルをパスし、さらに三人のダイバーの脇を駆け抜けた。
「どこへ行く!」
三人のダイバーのうち一人の声が聞こえ、香穂は一瞬振り返った。立ち止まりかけたものの、細村について走り去った。