第7章『江坂‐梅田』
合格――。
オーパムよりその通知が来たのは難波での訓練が終わって五日がすぎたころだった。
パソコンに表示された無味乾燥の文に、八坂ゆいりはとくに感激を覚えない。報酬が増える旨が明記されていたが、ダイバーをクビにさえならなければそれでよく、ゆいりの目的はそこにはなかった。
次のダイブの指示を伝えるため、明後日、出頭せよ、とあった。
ゆいりは小さな冷蔵庫からビタミンウォーターの二リットルボトルを取り出し、タンブラーに半分ほど注ぐと、酸味をたしかめるように口に含みつつゆっくりと飲む。
「あさって、か」
とつぶやいた。
戦士の休息は明日までだ。明日は江坂にショッピングにでも行くか、と思った。
何人かいる友人のなかで、平日の昼間に時間がとれるのは一人しかいなかった。
キャバクラで働いている独身の佳奈美。
高校時代からのつき合いだ。ゆいりが結婚・出産・子育てで一時疎遠になっていたが、最近、また親密になっていた。
待ち合わせのスターバックスでカフェラテを味わいつつ、ケータイでタウン情報を確認する。
入り口に近い席にすわっていると、着メロが鳴り出した。佳奈美からだ。
ケータイを耳にあてると、
「着いたよ」
見ると、歩道からガラスごしに手を振る女がいた。
ゆいりが手を振り返すと、佳奈美は自動ドアをあけてやってきた。会うのは三ヶ月ぶりだ。
「はーい、お待たせ」
陽気に挨拶。ライトブラウンのスプリングコートの下は、目も鮮やかな紫のネックセーター。昼間はずいぶん気温が上がって日なたでは上着がいらないほどだが、陽が沈むと寒くなるので、それを見越しての服装なのだろう。
「コーヒーを買ってくるわ」
と、いったんレジへ。戻ってきた佳奈美はゆいりの隣のスツールに腰掛ける。トレイにはデミタスカップが湯気を立てていた。それとザッハトルテ。
落ち着いた照明の店内には客は半分ほど。女性客が圧倒的に多い。
「あいかわらず羽振りがよさそうね」
と佳奈美は、横のイスに置いたゆいりのハンドバッグを見て微笑する。エルメスの最新モデルだ。
「べつに珍しくないでしょ」
ゆいりはさらりと受けた。あれだけの大金をもらっていたら、つい買ってしまう。
お互い収入は平均をはるかに上回る。そして、仕事の種類は違えども、長くはつづけられないだろうという点も同じだ。
「それに、わたしは自腹切ってるんだよ」
「わたしだって、いつもいつも客からプレゼントされるわけじゃないのよ」
キャバクラへ通う客はだれもがリッチだ。貢いでもらうのはごく日常だ。だが本当に欲しいものは自分で購入する。
金に困っておらず生活に余裕があるのは十分に幸福なことだ。
「どこ行くの? 東急ハンズ?」
佳奈美はコーヒーの熱さをものともせずに一口すする。赤すぎる口紅がカップを汚した。
「そうね……」
ゆいりはケータイを開けて、ウェブにつなぐ。
「先にご飯にする?」
「賛成」
佳奈美は夜の仕事故、朝はめっぽう弱い。いつも起床は昼前だ。今日もついさっき起きたばかりだった。時刻は一時前。
「なにかいいのある?」
「中華バイキングって、どう?」
注視していたケータイの画面から顔を上げて、ゆいりは訊く。
「あっ、それ、いいね」
「ちょうど昼休みが終わるころだから、もうすいてると思う」
江坂にはオフィスビルが立ち並んでいる。正午になれば大勢のビジネスマンがビルから吐き出され、どこの飲食店も混雑するが、一時間でその波は引き嘘のように閑散となった。
「じゃ、決まり」
コーヒーを飲み干すと、二人は立ち上がる。
中華バイキングの店はすぐ近くだった。エスカレーターを登りきった飲食店の並ぶフロアの一角にあった。
入り口から店内をのぞくと、やはり昼休み時間をすぎたせいか、空席が目立った。ついさっきまでは、オフィスビルからなだれ込んできたビジネスマンやOLで賑やかだったろう。
この店は終日バイキング形式だが、時間帯によって値段がちがう。十一時から二時半まではランチタイムで、夜よりもリーズナブルだったが、その分メニューは軽かった。
空いている席につくと、さっそくトレイを持ってあさりに行く。店の端に置かれた長テーブルには大皿に盛った料理が並べられトングがつっこんであった。温菜、冷菜、飲茶、デザートと、順番に配置されて。
大きめの皿に片っ端から載せていくと、見る間にいっぱいになった。
「ちょっと下品かな?」
とゆいり。
「あんたは体力勝負の仕事なんだから、それくらいでちょうどいいんじゃないの?」
佳奈美の皿は、半分ほどが埋まった程度。点心ばかりが載っている。
「わたしは肥えたら仕事にならないもの」
太ったキャバクラ嬢なんか相手にされないだろう。その手の女が好みだという専門店があるかもしれないが特殊すぎるし、仕事と関係なくとも太りたい女なんかいない。
それぞれ席に戻り、「いただきます」
いい香りをたてるジャスミン茶を飲みつつ、食べ始める。
「わたし、化粧品を買おうかと思うんだけど」
ゆいりは春巻きを箸でつまむ。
「この近くに適当なお店があったっけ? そういや、わたしたち、もうすぐ三十路よねぇ。お化粧の載りも悪くなってきたわ」
「わたしはともかく、佳奈美は商売がら深刻よねぇ」
「そうなの。そろそろキャバクラから高級クラブに商売替えかな」
「結局そっち系なんだ」
「当然よ。手に職があるわけでなし、それ以外にどんな生き方ができるっての。いまさらOLなんてやっても稼ぎが知れてるし。今の収入より下がるなんて考えられないわ」
オーパムが日本を統治して国全体が豊かになったものの、豊かになったらなったでそのなかでも貧富の差は依然として存在した。
「きままな独身生活なんだし、ガツガツ稼ぐこともないんじゃない?」
「今のカレが頼りになんないの。別れようかな?」
佳奈美は小籠包を頬張り、苛立ちを晴らすかのように咀嚼する。
「なんだ、結婚するのかと思ってたわ」
「そうねぇ……」
佳奈美は遠い眼をする。
結婚にさほどメリットがなければ、あえてしようと思わない。妥協はしない。そういうスタンスだ。それは正しいとゆいりは思う。それで未婚の友だちは多くいるし、自分がバツイチだからというわけではないが、妥協で幸福にはなれないと思っている。
ゆいりは新しいパートナーを望んではいなかった。将来はわからないが、少なくとも今は。経済的にも自立していたから必要を感じないし、なにより他に大きな目的があった。
「ま、男に不自由しださないうちに、決めちゃおうかな」
佳奈美は微笑む。ゆいりの仕事についてはなにも聞かなかった。事情は知っていたし、いつ死ぬかわからない仕事だから、会ったそのときはできるだけ楽しむようにしていた。もしかしたら次に会うことはないかもしれない。しかし悲壮感はおくびにも出さない二人だった。
六〇分の制限時間がくる前に店を出た。
とりあえず東急ハンズへ行く。化粧品だけじゃなく、ウインドーショッピングしていて飽きない商品が数多く置いてあったから。
お互い羽振りはよかったから、欲しくなればいくらでも買えたが浪費はしなかった。
とはいえ、ゆいりも最初は大金が手に入った勢いで、いい気になって使い倒した。高価なアクセサリーや洋服を買った。海外旅行や趣味を楽しんだ。高級な食事やお酒に酔った。しかし計画のない散財はすぐに飽きてしまった。
ゆいりにはわかっていた。――金持ちになりたいわけではないことが。
平和な街を歩いていると、楽しいには楽しいのだが、どうしても娘がいっしょだったらな、なんて思うのだ。幼い女の子を連れている母親を見かけると、正直沈みそうになる。それでも部屋に閉じこもっていたらますます陰気になり、外出はまだ気がまぎれた。
パーティグッズやらデザイン調理器具なんかを、まるで学生のようにはしゃぎながら見て回り、次へ行こう、と外へ出たときだった。
ふいにゆいりの足が止まった。
どうかした? と小首をかしげる佳奈美。
建物の陰に入り、ゆいりは壁に背をつけた。あからさまな挙動不審。
佳奈美はしかし、それを悪ふざけだとは思わなかった。同じようにゆいりの横についた。
「だれ?」
「待って」
ゆいりはそっと陰から顔を出した。平日の昼間――それほど混雑していない。
いた。――神田れみる。
まさかここで見かけるとは。
れみるは東急ハンズに背を向けて、じっと立ったまま、ときどき歩道の左右に視線を投じる。明らかにだれかを待っている。
声をかけようかと思ったが、ミステリアスでちょっと親しみにくい少女の秘密を知りたいという野次馬根性が心にわき上がり、出口から足を踏み出させなかった。
だれを待っているのだろう……と思っていると。
「い……!」
ゆいりは眼をむいた。
アーミーブルゾンを着た大柄な男――紀崎豪だった。
ゆいりは固まった。
れみるは紀崎となにか言葉を交わすと、二人で歩きだした。
なに? なに?
どういうこと?
一瞬、思考が停止した。
十四歳の少女と二十四歳の青年――カップルと呼ぶにはちぐはぐなとりあわせ。ありえないわけではないが、まさか、と否定する。
それを見ていた佳奈美は、ははん、と納得する。
「追けるの? 野暮はよしなよ」
建物の陰から出ていこうとするゆいりを呼び止めた。
ゆいりは振り返り、
「ごめん、佳奈美。また今度」
と断って、佳奈美を置いて、ゆいりは歩道へ飛び出した。
二人は、新御堂筋の横断歩道をわたっていく。
四十メートルほど後をゆいりが歩いていると、歩行者用信号が点滅しだした。道路を半分ほどわたったところで赤にかわった。車用信号が青になる前にわたりきろうと猛ダッシュ。エリア・オーサカに行くときのような走りやすいスニーカーではなくパンプスをはいていたせいで、つまずきそうになりながらわたりきった。
三十メートルほど先に、並んで歩いていく後ろ姿があった。
――気づかれてはいけない。
そう思った。声をかけずに尾行しよう。
どういうことなのかと、直接聞くのはためらわれた。
――これまでも逢っていたのだろうか。
二人が逢っている、ということを全然知らなかった。
いったい二人の関係はどんなだろうとつい想像してしまう。
三人のチームだというのに自分だけがのけ者にされているという疎外感がゆいりを苛立たせた。なにか馬鹿にされたようなひねくれた感情がわき起こった。
二人ともゆいりに気づいた様子はない。ときどき会話をしているようだが、途切れがちで、教師と生徒といった感じがしないでもない。
前回、エリア・オーサカにダイブしたときになにがあったのだろう。二人きりで話をする機会はなかったし、親しく会話している様子もなかった。むしろ紀崎はれみるに接しにくそうだった。にもかかわらず、今、その二人が会っているとはどうしたことなのか。
エリア・オーサカでの訓練のあとは解散となった。そのあとのほんの数日の間になにがあった?
江坂駅から少し離れたところ――。住宅地に入り、江坂公園を横切り、大きな道路に面したとあるビルに二人は入っていった。
ゆいりは小走りでそのビルの正面に立った。
そして怪訝な表情を浮かべる。
ここは――。
オーパムの入国管理局・大阪支所。
「…………」
ゆいりはしばし黙ってビルを見上げた。
ゆいりには関わりのない場所だった。紀崎とれみるはここになんの用があるのだろう。少なくとも遊びに来たわけではない。
オーパムの公的機関に二人して入っていったということは、二人にはなにかしらの共通点があるのだろう。ダイバーであるという以外に。
それがなんなのか――。
ゆいりは周囲を見回し、道路の向かいにセブンイレブンを見つけた。そこで張り込むことにした。
それほど長くはかからない、と踏んだ。オーパムとの打ち合わせが無駄に長くなることはない。早ければ十五分ほどで出てくるだろう。
道路をわたり、客のいない店内に入った。いらっしゃいませ、という店員のあいさつを無視して、道路に面した雑誌コーナーへ移動した。
女性週刊誌をタイトルすら見ずにラックから抜くと、ページに目を通すふりをしつつ道路向こうの入国管理局ビルを観察する。
二人が出ていったら、すぐさま入国管理局へ聞きに行こう、と思った。同じチームメイトが訊ねるなら、オーパムだってあっさり話してくれるだろう。
二十分がすぎた。雑誌は五冊目を開いていた。ファッション誌は重いので関西ウォーカー。他に客がいればいいのだが、あいにくゆいり一人だったので目立って仕方がなかった。平日のこんな時間なのでそれはどうしようもなく、万引きでもするんじゃないかと目を光らす店員の視線がときどき痛かった。
入国管理局のビルから二人が出てきた。
遠ざかっていくのを確認すると、ゆいりは雑誌を戻すのももどかしくコンビニを出て道路を駆け足でわたる。
異星人の公務機関があるとは全然思えない、ごく普通の鉄筋コンクリートのビル。
正面玄関へ至る短い階段を上がっていった。
自動ドアが開き、一歩足を踏み入れる。
雑居ビルの外観だったが、さすがに内部は改装されていた。長い受付カウンターの向こうにオーパム人たちがいて、巨大なパネルディスプレイが壁面を埋めつくしていた。そしておなじみのあの匂い。
さっと視線を走らせたが地球人はだれひとりいない。
ゆいりがカウンターに近づくと、背中向きに座っていた一人のオーパム人が、まるで後ろに目でもついているかのように立ち上がり、対応に出てきた。
「今、出ていった二人はなにしに来たの?」
単刀直入に訊いた。
「あなたはだれですか」
訊ねるオーパム人に、ゆいりは左手甲を見せた。ダイバーの証明である特殊な入れ墨が、オーパム人には見えるはずだった。その他にも情報が入っていて、だれとチームを組んでいるのかもわかったはずである。
「それはこたえられない」
なにっ?
ゆいりは片方の眉を上げた。
簡単に白状してくれるものだと予想していただけに意外だった。おそらくいくらここでねばったところで埒はあかないだろう。オーパムとは、そんな連中だ。
ゆいりは考えた。
じっと考えた。オーパム人はじれもせずに待っている。
「ここには、なにか特別なものがある?」
前後の脈絡もなく訊いた。
二人がここへ来たのは、なにか目的があってのことだ。わざわざここへ来たということは、ここになにかがあるからに違いない。
「ホールがある」
オーパム人は短く言った。
ホール?
たしかにそう言った。
こんなところにホールだって?
ゆいりは驚きを隠し、努めて冷静に言った。
「見せてもらえる?」
「よろしい。案内しましょう」
カウンターを回って廊下へ出ると、ゆいりを顧みることなく奥へと進む。ついてこい、とも言わなかったが、ついていく。
地下へ降りる階段があった。それだけですこぶる怪しかった。この下に、ホールが?
階段を何度か折り返して降りていき、意外な長さにエレベーターがないのかなと思い始めたとき、やっと下のフロアに着いた。ずい分と深い。地下十メートル以上はありそう。
階段を降りきったところにドアが立ちふさがっていた。薄暗いなかに他にスペースはなく、このドアの向こうにしか行き場所はなかった。
鍵はかけられておらず、さっとドアを開けてその中へ入るオーパム人。ゆいりも入る。
室内の照明がともったとき、ゆいりは瞠目した。
十メートル四方の部屋。そこに、確かにホールがあった。直径三メートルと小さいが、黒い渦がゆっくりと回転している。こんなところにホールがあるなんて……。
「これはエリア・オーサカとつながっているの?」
「いや。別の空間につながっていると思われる」
「思われる?」
「入れない。出てくるだけの一方通行だ。従って、調査不能だ。ダイバーでも入れない」
「消えないの?」
「消えない。存在しつづけている」
「…………」
こんなものがあるとは予想外だった。たぶん二人はこれを見に来たのだろう。でも、なぜ?
というより、ここにこんなホールがあるという情報をどこで仕入れたのだろう。そして、二人だけでここへ来た理由は……?
紀崎が異世界人だというのが関係ありそうなのは疑いようもない。しかし……。
神田れみる。
彼女についてはなにも知らない。どんな関係があるのか――。
しかしそれをオーパム人から聞き出すことはできないだろう。直接二人に聞くしかなさそうだ。
「ありがとう。もういいわ」
ゆいりは複雑な気分で部屋を出た。降りてきたばかりの階段を上がりきったときには息が上がった。
ビルの外は陽がまぶしかった。
佳奈美には悪いことをしたな、と思い、バッグから携帯電話を取り出した。メールを打ちながら、今日はもうまっすぐ帰ろう、と思った。街をぶらつく気分じゃない。
江坂駅までの道が、いやに遠く感じた。
佳奈美からの返事はすぐに来た。
『いま、ネイルサロンだよ』
心配するまでもなく、それなりにエンジョイしているようだった。
梅田――。
新御堂筋と扇町通りが交わる曽根崎東交差点のちょうど真ん中、通常ならひっきりなしにクルマが行き交う場所に現われ出た。
新御堂筋の高架道路が真上を南北に通っているが、どういうわけかまっすぐではなく、ヘビの体のようにぐねぐねと曲がっている。
角の旧梅田松竹会館が溶け始めたバターのように曲がり、高架道路にかぶさって、さながらダリの絵画のようだった。
歩道に地下への入り口がある。その下は「泉の広場」だ。
江坂での出来事の翌日のブリーフィングで、ゆいりはそれとなく紀崎とれみるを観察し、水を向けたりもしたのだが、いつもと大して変わりなく、なにも聞き出すことはできなかった。
ブリーフィングでは、この次は梅田地下へ行くことを命じられた。ついに本番である。訓練が十分かといえば、サイクロプスを倒す自信はゆいりにはなかったが、決められた以上は任務を全うする覚悟を決めた。
紀崎は失った武器を再度支給され、ダイブ地点と鍵のおおよその在処を伝えられ、解散となった。ダイブは五日後。前回の訓練から半月も間があいた。
「さ、いよいよだな」
いつもの迷彩服の紀崎、新しい電磁式速射銃を自慢げに肩にかけている。心斎橋で棄てた銃と、若干型が違う。改良型かもしれない。
これまでの訓練で自信がついた様子の紀崎を、江坂でのこととだぶらせて見た。
このミッションで訊くしか機会はないか、とゆいりは思ったが、そんな暇もないだろうと、この件に関しては忘れることにした。必要なことなら、そのうち知るだろうし。自分に関係ないことかもしれないし、知ったところで……と酸っぱいブドウの心境で構えることにした。
「そこから地下へ降りるのかい?」
「そう」
とれみる。
れみるの態度もいつもと同じだ。
階段を降りると、各自暗視ゴーグルを装着。
交差点の真下にある「泉の広場」は歩道へつながる階段に囲まれた空間で、中央に噴水池があった。かつては美しい照明に照らされていたのだが、今は暗闇の中、水も流れていない。
「どっちへ行くんだ?」
紀崎が訊いた。
ゆいりにはこたえられなかった。
梅田の地下街は不案内だった。道案内はできそうになかった。ひと月前にサイクロプスと遭遇した地点へ地下を通って行ってみろと言われたら、途方にくれてしまうだろう。
梅田の地下街は日本で最大規模の地下街だ。
梅田地下街、とひとくちに言っても、実はいくつもの地下街が接続してできあがっている。
北は阪急三番街、西はオオサカガーデンシティ、南は堂島地下センターと大阪駅前第一から第四までのビル地階とディアモール大阪、それらを結ぶホワイティうめだ、さらに駅前の百貨店の地階と鉄道の地下駅がつながって、広大な地下空間を形成していた。初めての者は道に迷う。初めてでなくとも一度行ったあの場所へどうしても行けない、ということがよくある。まさにダンジョンである。
「こっち」
れみるが先頭に立って進む。西へ向かって。泉の広場は、地下街の東のはずれである。そこから伸びる通路は西方向にしかない。北へ行く通路もあるがわずかの数十メートルの距離で行き止まりだ。
泉の広場の名前の由来である中央の噴水池を迂回した。池の水は涸れ、そこから亜獣が飛び出してきそうだったが、何事もなく通過した。
西へと続く通路はまっすぐで長く、次の分岐までは百八十メートルはあった。
慎重に進む。幅六、七メートルの通りの両側には飲食店が並んでいた。
人のいなくなったそれら飲食店のどこかから突然亜獣が飛び出してくるのを警戒して、通りの真ん中を油断なく歩く。
前方に広い場所が見えてきた。変形十字路になっていて、左角には曾根崎警察署が死角で見えない。
れみるの足が止まった。
「いる」
と低くつぶやいた。
すぐ後ろを歩く紀崎とゆいりも立ち止まる。
何度経験しても緊張する瞬間だった。
「どっち?」
ゆいりは小声で訊いた。
「その角を右に曲がって、十五メートルほど入ったところ。二匹いるわ」
さっと紀崎が右の壁に体を寄せた。肩にかけた自動小銃をもちかえ、安全装置をはずすいつもの仕草。
ゆいりもその傍らに立ち、電撃銃をホルスターから抜いて、グリップを両手でしっかりと握る。
そしてれみるはホール発生銃を用意した。
紀崎が先に飛び出した。
右へ行く通路に向けて銃をかまえるが、暗視ゴーグル内に亜獣の姿がない。
一瞬遅れて通路の右へ出たゆいりは紀崎の横で銃をつきだした。
「上よ!」
先にゆいりが気づいた。
天井になにかがいる。平べったいものが張り付いている。闇の中、天井と同化して見分けにくかったが、まったく見えないわけではない。れみるが言ったとおり、二匹いた。つがい?
叫んだのとほとんど同時にゆいりは電撃銃を放った。
わずかに遅れて紀崎が銃撃を開始した。
一匹ずつ倒した。
「なんだ、こいつは?」
体液を流しながら天井から落ちて絶命した亜獣を見つめ、紀崎がつぶやく。
薄い体から放射状に飛び出ている脚を数えれば九本。海洋生物のような、ちょっと馴染めない形態だ。
「わたしも見たことはないわ。カラスヒルの一種かしら」
紀崎は後ろを振り返り、事がすんでから来たれみるに訊く。
「やっつけたぜ。次はどう行く?」
亜獣のいた通路の奥――北方向は阪急三番街へつながる飲食店通り。
分岐点へもどる。
目的地である鍵のある場所は地下鉄梅田駅構内。そこへの最短ルートはそのまままっすぐだ。しかし、信じがたいことに、阪急電車のあずき色の車両が道をふさいでいた。いったいどうやって地下へ入ってきたのだろう。通り抜けるのは無理である。
「こっちへ行きましょう」
れみるが歩き出した方向は南。地下鉄東梅田駅の出口がある。その先は大阪駅前ビルに続いている。
「地上に一度上がらないか?」
紀崎が提案した。
「それはだめ」
れみるは立ち止まって振り返った。
「出入口がふさがっている」
「なに? どうして知ってる」
暗視ゴーグルごしの紀崎の目が細くなった。
ゆいりは前回梅田へダイブしたときを思い出した。梅田地区の建物倒壊率は高かった。それによって通行できない地下への出入口がかなりあるはずだ。泉の広場へ降りる階段も、一カ所を除いて塞がっていた。
「れみるちゃんも、梅田へダイブしたことあるの?」
れみるは小さくうなずく。
「まかせて。迷ったりしないから」
紀崎は、ふん、と鼻をならし、
「わかった。いいだろう。おれには土地カンがないからな」
紀崎の、れみるに対する態度に変化はなかった。少なくともゆいりはそう感じた。江坂でなにがあったのかまだわからなかったが、二人の関係に変化があったわけではなさそうだった。芝居がうてるほど紀崎が器用だとは思えなかった。
南に少し下ると、右手側に通路が開けていた。そちらへ進むと、短い下り坂。イタリアの街並みをモチーフとして作られたディアモールに入った。
明るければおしゃれな通路なのだが、真っ暗闇だと装飾がかえって不気味だった。
五十メートルほど行くと分岐点にでた。広場のようになっており、円形の天井とそれを支える円柱がひび割れというより裂けていた。中央には、方角を指し示していたブロンズ像が倒れていた。
南へ二本、北へ一本、それぞれ通路がのびている。南の通路と通路の間には梅田DTタワーの階段が地上から吹き抜けで作られていたが、倒れたビルが覆いかぶさっていて日の光を遮断していた。
いきなり広場に飛び出ることなく、まずは様子を見た。
「いるわ」
とれみる。
「どんなやつだ?」
紀崎が訊いた。
「左に一匹。種類までは……後ろ!」
れみるは突然振り返り、叫んだ。
ゆいりと紀崎も振り返る。
今通ってきた通路の後方から、なにか大きな生き物が、その体に似合わず猛烈な勢いで近づいていた。
「ベヘモスか!」
紀崎は目を瞠った。
亜獣のなかでも大型の部類だ。巨大な顎ですべてを咬み砕いた。角質化した皮膚で全体が覆われ、簡単には傷つけられない。
「どこから現れやがったんだ」
紀崎は銃をかまえる。
れみるの銃から放たれた極小ホールが、ベヘモスを足止めした。
そこへ紀崎が銃を連射した。
「わたしがやるわ」
れみるが音波銃を手に前へ出た。
分厚い皮膚も音波銃なら問題ない。理にかなった判断だった。
一方、ゆいりは広場へ飛び出していた。
声を聞きつけて、通路右にいた亜獣がゆいりたちの存在に気づいているはずだった。もはや隠れている意味はない。
飛び出したゆいりは、北新地駅へとのびる通路にいた亜獣に向けて電撃銃を撃つ。長い胴体を持つ亜獣だった。距離は三十メートル以上はあったが、亜獣はその間隔を一気に詰めてきた。
閉鎖された空間に電撃銃の雷のような轟音が反響する。
「紀崎くん!」
電撃が命中しても亜獣は突進してくる。
ゆいりの叫びを聞いて、ベヘモスに対していた紀崎が駆けつけてきた。
突進してきた亜獣と鉢合わせ。
あわてて避けようとしても、地下では高くジャンプできない。
ゆいりといっしょに脇へ跳び、円い柱の陰に入った。
ぐしゃり、と嫌な音がして、壁に激突した亜獣はようやく停止した。
「こいつはラミアだな――」
紀崎が動かなくなった亜獣を見てつぶやいたとき、
「危ない、よけて!」
れみるの声がした。
ベヘモスは、突進してきた勢いのまま広場に入ってきた。れみるの音波銃では食い止めきれなかったらしい。足止めしていたマイクロホールの寿命がつきるとともに、ベヘモスは暴走を再開したのである。
はねとばされる寸前で跳びのくと、ベヘモスは突き当たりの、元商店だったガラス面に衝突して停止した。ガラスの砕ける派手な音。れみるの音波銃によって内臓を破壊され、体液があちこちの穴から流れ出し、床に池を作った。
「ホール発生銃を使ったんだけど、止めきれなかった。ごめん」
れみるが詫びた。
「こっちに怪我はないわ。紀崎くんも?」
「ああ、平気だ。それにしても、こんなのがいるとはな。難波よりも手強い亜獣が多い。オーパムの見立て通り、単独じゃ確かに荷が重い。チームを組まなきゃ鍵の破壊は難しい」
紀崎の意見はもっともだとゆいりは思った。梅田地下からよく生還できたとものだと、ゆいりは二か月前のことを思い返した。
「次はこっち」
訊かれる前にれみるは歩き出す。北――傾斜した通路がのびている。昇り坂だ。JR大阪駅の中央改札口へと続く通路である。
一行は黙々と歩きだした。
七十メートルほどで坂を昇りきった。左手方向が明るい。ビルの地下から地上への吹き抜けがあるためだ。
さらに進むと、右手に阪神百貨店の地下階。左手方向には阪神電車の改札口。地下街のうちでも新しい時期につくられたディアモールとちがって天井が低く、なんとなくあか抜けない。
阪神百貨店を回り込むように、右へ曲がる。幅の広い通路がまっすぐのびている。亜獣はいない。
百メートルほど先、その通路の突き当たりが広場のようになっていて、地下鉄梅田駅の南改札口が面し、ホワイティ梅田へ行く通路と合流している。ゴールはすぐそこだ。
無人の通路は見通しがよく、走りだしくもなるが、そこは慎重に進む。
通路を半分ほど進んだとき、左前方の地下鉄梅田駅改札から飛び出してきた二つの人影があった。
こちらへ向かってくる。人の形に似た亜獣ではない、暗視ゴーグルをつけている。しかし、そのため顔が判然としない。ただ、一方はそのシルエットから女性のようだった。
「他のダイバーも来ていたのか……」
紀崎がつぶやいたそのとき、阪神百貨店の地下階からひとつの影が飛び出してきた。
「フェンリル!」
今度は亜獣だった。大型犬ほどの大きさ。異様に尖った鼻先は鳥のクチバシのよう。
紀崎は銃をかまえるが、発砲できない。向かってくる二人のダイバーに流れ弾が当たってしまう。亜獣を挟み撃ちにできそうで、実は銃撃戦では不利な態勢なのだ。これほどの近距離では同士撃ちは避けられない。
れみるがホール発生銃で狙うが動きが速くて、捕捉できない。
ゆいりは斬妖丸を抜いた。近接戦を覚悟した。
二人の見知らぬダイバーは、こちらに向かって走ってくるが、止まる気配がない。銃器は手にしているものの、やはりゆいりたちに流れ弾が当たるのを恐れてか、撃たない。そのうちフェンリルとの距離が縮まってきた。
フェンリル側も、人間の数が多いことで警戒し、無闇に襲いかかってこなかった。
二人のダイバーはある程度フェンリルに接近すると、そこで立ち止まった。人間たちの出方をみてせわしなく動くフェンリルをじっと目で追い、機会をうかがう。一秒、二秒――とタイミングを計り、今だ。一気に脇をすり抜けて、ゆいりたちのいる側へと到達した。
幅八メートルほどの通路だったからこそ成功したといえるだろう。
「よし、今だ」
紀崎は電磁射出銃を撃つ。
当然、二人のダイバーも加勢するだろうと――。
「おい、どこへ行く!」
紀崎は首を曲げて叫んだ。
二人のダイバーは、そのまま直進し、紀崎らとすれ違った。
二人のうち女のほうがちらりと紀崎をかえりみたが、歩をゆるめることなく走り去った。
「どういうつもりだ」
毒づきながらも、紀崎はフェンリルとの戦闘に忙しい。
ゆいりの電撃銃がやっと飛び跳ねるフェンリルを捉えた。
通路に落ちたところを紀崎の銃がとどめを差した。
静かになった。流れ弾で、通路の壁や天井は無惨に破壊されていた。阪神百貨店の窓ガラスも砕け散って粉々である。
「あいつら、なにモンだ? こっちは必死で戦ってるっていうのに」
紀崎がぼやいた。
ゆいりは肩をすくめる。
彼らがだれかはわからない。自分たち以外のダイバーに関する情報はまったく与えられていなかった。
「追いかけて、文句でも言う?」
ゆいりも苛立っていた。刺のある言い方になった。
「いや、先に梅田駅の構内へ行こう。その先だしな」
紀崎は仕事を優先した。
ダイバーにはそれぞれ目的を与えられていた。おそらくさっきの二人にも、いちいちこちらにかまっていられない事情があるのだろう。
「行かなくていいです」
一歩を踏み出した紀崎の背中に、れみるが言った。
「なぜ?」
「梅田駅の鍵は破壊されたから」
「なんだと? さっきのダイバーか!――って、なんでおまえがそれを知ってる?」
紀崎は語気を荒げて、れみるに迫った。
「そうか。おれたちは囮だったんだな! 亜獣を引きつけておくための」
「ちょっと待って!」
ゆいりは、突然冷静さを失った紀崎の前に割って入った。
「なにを言ってるのよ?」
「おれたちが梅田の地下へ入ってから、ここへたどり着くまで、妙に遠回りしてたろ。しかもその間、異常なほど多く亜獣と遭遇した。それは、おれたちが亜獣を引きつけておく役で、べつのチームが鍵を破壊しやすくするためなんだ」
「それは結果的にそうなっただけの偶然じゃないの?」
「じゃあ、その子に聞いてみろよ。オーパムからそういう指示が出ていたんだろ」
ゆいりはれみるを振り返った。
「そうなの?」
なぜオーパムはれみるにだけそんな指示を? にわかには信じられないし、そもそもどうしてそんな指摘を紀崎ができるのか。
れみるはうなずいた。
「どういうこと?」
なにがなんだかわからない。
「おれが説明しよう。直接聞いたからな」
ゆいりは江坂のことだと思った。あのとき、紀崎とれみるは、二人でオーパムの入国管理局へ入っていった。その建物の地下には、ホールが存在した。そこでどんな会話がされたのか、ゆいりにはわからなかった。聞こう聞こうと思っていたが、きっかけがつかめないでいた。
「前回、難波にダイブしたとき、ホールが発生したろう。おれは元の世界へ帰れるかと思って飛び込もうとした。そしたらこいつに妨害されて果たせなかった。そのときは、危険なことをやらかそうとしたおれを止めようとしたのかと思っていたが、あのあとなにかひっかかって、本当にそうなのかと直接訊ねたんだ。そしたら、そうじゃなかった」
れみるは口を挟まず黙っている。暗視ゴーグルをつけているため、表情は見えない。
「江坂の入国管理局へ行ったら、そこの地下にはホールが開いていた。エリア・オーサカが出現してからずっと存在している特異なホールだ。しかも出てくる一方通行の。そして五年前、れみるはここから出てきた。以来、オーパムによって育てられ、ダイバーとなった。いわばオーパムの子供であり、手先だ。神田れみるの名もオーパムがつけた。今回、おれたちのチームに入ったのは、異世界人のおれが八坂さんと結託して、なにかイレギュラーなことをしでかさないかと監視するためだったんだ」
「本当なの?」
ゆいりが念を押すと、れみるはうなずいた。
だが、と紀崎は語り続ける。
「おれは、だからといって、チームを抜けようとは思っちゃいない。このところの訓練で、今後は単独でのダイブは危険だと感じたからな。といって、異世界へ帰るのをあきらめたわけじゃないぜ。いつか、必ず帰ってやる」
紀崎の長台詞を、ゆいりは途中から聞いていなかった。
これで納得できた。れみるの特殊能力も、この年齢でダイバーをやっている理由も、すべてはオーパムがかかわってたのだ。
と同時に、オーパムに利用されつづけたれみるに深く同情した。今ごろれみるの両親は、健在だとすればどんなに心配しているだろう、れみるにしても、オーパムに囲まれた生活では孤独だったに違いない。普通の暮らしは望むべくもなく、未来にどんな希望があるというのか。こんなことって……。
ゆいりは、娘の美紅がもしもこんな境遇だったらと思うと胸がつぶれそうだった。
オーパムには間違いなく罪の意識はない。飄々とした異星人になにを言っても受け止めてはくれず、それが余計に悲劇的だった。
「おれたちが囮にされたというのは、そういう根拠さ」
紀崎が話し終えた。
れみるがあとを継ぐように言った。
「ホールから出てから五年間、わたしは完全にオーパムのもととで育てられて、だから普通の人とは違う」
「五年前? 待って」
ゆいりは「まさか」と思った。
「五年前って言ったわね。ホールから出てくる前のことは覚えてる?」
れみるはかぶりを振る。
「ほとんどなにも覚えてない。だからオーパムに……」
「わかったわ」
美紅だとしたら、年齢があわない。生きていたなら十歳のはずだ。どう見てもれみるは十四、五歳。娘であるはずがない。それは初対面のときから思っていた。ゆいりは希望的考えを振り払い、
「で、わたしたちは、これからどこへ行けばいいの?」
「ごめんなさい。オーパムからは、べつに話すなとは言われてなかったんだけど……なんか、言いづらくて……」
れみるは小声で言った。
そうだろうとも。オーパムに対して、他人がどんな感情を抱いているかわからないのに、軽々しく『私はオーパムのスパイです』などと言えるはずがない。悪くすればチームの和がぎくしゃくする。
「れみるちゃんを責めたり、悪く思ったりなんかしてないわ。こちらこそ、気をつかわせちゃったわね」
引き締まっていたれみるの口元が、ほんの少しゆるんだ。元来た通路の先を指差すと、
「あっちへ。さっきの二人の後を追って」
そう指示した。