第6章『ドーム』
なぜ戦うのか――。
多額の報酬が得られるかわりに、常に死と隣り合わせ。そんなきわどい人生をわざわざ選んだ。ダイバーになって亜獣と戦う。
その理由は人それぞれだ。しかしすべての人に共通することがあった。――みな、それ以外の選択の余地がないという点だった。
縦井香穂もそうだった。一時的な記憶の混乱から脱し、今や自分のやるべきことがはっきりと見えていた。
だからダイバーになると決めた。それが、元の世界へ戻るための唯一の方法だったから――。
堺空港は、オーパムによって堺市浜寺の埋め立て地の工場跡地に造られた小規模空港だった。始めからタチャームだけしか離発着しかしないので、長い滑走路はない。
オーパムがここへ空港を造ったのはエリア・オーサカへダイバーを運ぶのに便利だというのが表向きの理由だったが――たしかにその用途に使われていたが――それだけのために、わざわざ空港を造成するのは大げさといえた。オーパムの土木技術ならわけなくできるとはいうものの、ダイバーを運ぶのはせいぜい一日に一度か二度で、そう頻繁ではない。どう考えても過度な設備だ。他になにか理由があるだろうと人々は噂し合って都市伝説が流布していたが真意はだれにもわからなかった。
離着床横に建つ円筒型の建物がオーパム行政代行センター。エリア・オーサカの北側には大阪空港に同じ機能をもつ施設がある。
ランボルギーニ・ムルシエラゴの黄色い車体がだだっ広い空港駐車場に入ると、排気量六五〇〇のエンジンがヴォンと一声うなって停止した。
特徴的なホップアップドアが開いて降り立ったのは、細村と香穂だ。黒のレザーブルゾンのポケットに抜いたキーをつっこんで、細村が窓が少なく何階建てかわかりにくい行政代行センタービルへと歩き出すと、ジップアップジャケットを着込んだ香穂がその後をついて歩く。
天気は曇り。エリア・オーサカが出現して以来、からりと晴れる日は少なくなった。大気の流れが変わったせいだろうが、鬱陶しいかぎりである。
ビルの中へと入ると、最上階まで吹き抜けの円形ホールが広がっていた。各フロアがオペラ劇場のようにホールを見下ろしている。
円形のホールに沿って弧を描くキャットウォークのような各フロアの廊下を、地球人とオーパム人が行き交っている。
細村がエスカレーターで上のフロアへと進んでいく。どこに行けばいいのか承知している様子で、香穂はただ後をついていった。
湿度がやや高い。それに、独特の匂い。ちょうど温室にいるようだ。我慢できないほどではないが、できればあまり長い時間ここにいたくない。
エスカレーターで五階ほどあがり、細村は迷うことなくある部屋に入る。自動ドアの向こうに大会議場のような大きな空間が広がり、何列もの操作卓が並び、壁面にはパネルスクリーンが、香穂には未知の文字と図形を写しだし、軍の戦略司令室を思わせた。
「はあ……」
と吐息とともに、思わずキョロキョロしてしまう。大勢のオーパム人が立ち働いている。聞こえてくる会話は、人間が発音する声とは明らかに違っていた。
細村が受付カウンターに近寄ると、一人のオーパム人がさっと対応に現れた。
二、三言葉を交わすと、細村は振り返ってこっちへ来いと言う。
細村に並ぶと、
「ここでは日本語が通じない。おれが、きみがダイバーを希望していると伝えた」
香穂はオーパム人を見る。
頭髪のない、昆虫を思わせる造形の顔。隈取のように見えるのは、固有の模様だろうか。顔の筋肉が発達していないのか、表情はまったくない。とてもではないが知能があるようには見えない。ロボットに向かって話しかけているほうがまだマシだと感じながらも、香穂は思い切って話した。細村から教えてもらったオーパム語で、たどたどしく、短く。「ダイバーになりたい」
「よろしい」
と担当官はオーパム語でごく事務的に言った。命がけの仕事を選んだ者の覚悟など、まるで気にしない。香穂はそんなオーパム人の奇異さを、未知の言語からその外見以上に強く感じた。
ではすぐ適正処置を受けよ、と言う。
「待ってくれ」
用意を始めようとする担当官を細村が制した。
オーパム人の担当官は、なぜおまえが口を挟むのかという目で見返した。そんな冷たい視線を細村は無視した。
「当面の間、ダイブはこの人といっしょに行かせてくれないか?」
担当官はしばし黙り、
「問題ないが、報酬は一人分しか出せない」
「かまわない。彼女がこのままダイバーになったら、すぐに亜獣にやられてしまうだろう」
「当方は関知しない。ダイブの日にちは追って連絡する」
あまりにあっさりと要求が通ったことに、香穂は感心するとともに安堵していた。
異星人オーパムがどんな存在なのか、細村の話を聞いてもいまひとつイメージできなかったが、この対応でなんとなくつかめてきた気がした。
それはともかく、これで、どうにかこの世界でやっていける目処がついた。そして、元の世界へ帰る見込みのあるエリア・オーサカへたびたび行けるのだ。危険はあっても、今の香穂にそれ以外のどんな選択があるといえるだろう。
大金には興味がなかった。そんなものはすべて細村にくれてやってもよかった。その条件で、いっしょにエリア・オーサカへのダイブを了承してくれたのだ。
ついでに細村の自宅に住まわしてもらうのも。
ギヴ・アンド・テイクだった。命を救われた義理もあった。
別室での対処措置を受けた。
「心配ない。注射を一本打たれるだけさ」
細村の軽い一言でずい分気楽にいられた。ナノマシンを入れられるのだという。説明されてもよくはわからなかったが、エリア・オーサカに出入りする際に、極小ロボットが体内で機能して安全に行き来できるのだという。
処置は数分で終了した。とくに違和感はない。
そのあと武器を支給された。
どんなものがいいかと聞かれたが、なにがいいのか全然わからなかった。刀剣も銃器も扱ったことがないし、そんな初心者になにが扱えるのか見当もつかない。
細村が選んでくれた。
パルスレーザーガン。
おもちゃのようにしか見えないが、これがオーパムの技術なのだ。地球製の銃は重い弾を携帯しなくてはならないし、女性には不向きだ、と細村。
香穂は勧められるまま、パルスレーザーガンを手にとった。
使い方は簡単だった。安全装置を解除して、トリガーを引くだけ。バッテリーの取り替えも簡単だし、とくメンテナンスも必要なかった。
これで亜獣から身を守るということだが、同時に他人をも殺傷できてしまう。そのことの重大性に、香穂は少し恐ろしかった。ダイバーとなった者は武器の携帯が許されるが、それで犯罪に走ればもちろんすぐに処罰される。もっとも、体内のナノマシンが行動を抑制するので、そのような事例はこれまでにない。
不幸にしてそんなことが起きたとしても、オーパムからは逃げ隠れできない。彼らの科学力・技術力・組織力をもってすれば一人の人間の確保など容易だと思わせるだけのものを持ち合わせていた。それに、オーパムには人間的な倫理感が存在しない。それが、理性的ではあるがなにをするかわからないという不気味さを人々に感じさせた。それも抑止力として働いた。
「せっかくもらった武器だが、ぶっつけ本番では使えない。訓練が必要だ」
訓練場へ行くことを細村は求めた。
ダイバーのために、オーパムは訓練場を提供していた。ダイバーはそこで射撃訓練を行なった。一人前のダイバーとなるには、やはり訓練が不可欠だった。なりたてのダイバーが、初めてのエリア・オーサカで命を落とす確率は高かった。香穂にしても、最初は細村の足を引っ張ることになるだろうと予想していた。いつまでも頼ってばかりもいられないとも思っていた。たとえいつでも守ってくれるナイトでも、百パーセントの安全が保証されるほどエリア・オーサカは呑気な場所ではない。実際に亜獣と接した香穂は、それを実にリアルに感じていた。
同意し、細村とともに、そこへ向かった。
「次のダイブの予定はまだ知らされていないが、これまでの例から、あと数日は待たされるはずだ」
時間的な余裕はある。それまでみっちりと訓練を受け、射撃や対亜獣戦術をできるかぎり身につける。
そうしなければ、ダイバーにはなれない。
車内のカロッツェリアは、頭の後でアメリカンポップスを流していた。音量は抑え気味で、聴きなれない曲でも耳障りではない。服装がこんなのではなかったらドライブの気分だ――ジップアップジャケットの下はジャージの上下で、体育教師のようだ。スポーツカーには似合わない。
「訓練場は近くにある」と細村がいうので、香穂はなにも訊ねなかった。
堺空港からほんの十五分ほど走って着いたのは公園である。駐車場の入り口には「大泉緑地公園」とあった。
広さ五十ヘクタールの広大な公園の一角に、ダイバーのための訓練場がつくられていた。そこは射的訓練の設備のほかに、エリア・オーサカを再現した総合訓練場――いわば模擬エリア・オーサカがつくられていた。なにもここまで大げさなセットを用意しなくとも、コンピュータグラフィックをつかったバーチャルシステムぐらい簡単に構築できたろうに、オーパムはそうしなかった。そういう発想がないのかもしれない。バーチャルシステムは視覚的情報などの限られた感覚しか伝えられないので、視覚がインプットの大半を占める地球人には有効だが、オーパム人はその点で違うのかもしれない。
駐車場から歩いて数分、訓練場へやってきた香穂は、中へ入って意外な場面に遭遇した。ゴルフの練習場を思わせる受付の向こう立っていたのは地球人だった。
訓練場を管理しているのは地球人だったのだ。オーパムの施設はオーパム人が直接管理しているものだと思い込んでいたが、考えてみればオーパム人がすべての業務を行なえるほど数が多いわけでなし、地球人にできることは地球人にやらせたほうが効率的だ。
「細村様、お待ちしてました。初心者コースでの設定ですね」
蝶ネクタイにエンジ色のベストを羽織り、支配人といった出で立ちの中年男がおじぎをする。
細村があらかじめ手配してくれていた。いつも使っているのだろう。慣れた様子で受付がすすむ。
「射撃が一時間、そのあと実戦コースが一時間でございますね。五番ケージへおいでください」
カードを受け取り、
「行こう」
と香穂を手招きする。
部屋の奥のドアを開けて進むと、まっすぐな廊下がのびている。廊下の左側には壁がなく、いくつもの仕切がつきあたりまで等間隔に据えられていた。
仕切りと仕切りの間に入ると、机ほどの高さのカウンターの向こうに、同心円を描いた的があった。距離はざっと三十メートルといったところ。
左右を見ると、他にも客がちらほらといて、各自がそれそれの的に向かって銃を撃っていた。銃声が反響し、火薬の匂いが漂ってきて、香穂は緊張した。
「まずは撃ち方を教えるから、パルスレーザーガンを出して」
香穂はバッグをカウンターに置き、中から銃を取り出す。
「銃をしまうホルスターも要るな」
と香穂の手元を見ながら細村。
電源の入れ方、安全装置、銃把の握り、照星の合わせ方を順に説明し、香穂はやっと的を狙う。
引き金を引いた。衝撃も音も硝煙もない。的にも変化はなかった。どこかに命中していたら焦げ穴があくはずだが。
「はずれ。もう一回。――いいか。こいつは普通の拳銃とは違う。引き金を引いている間は、連続してパルスレーザーが発射される。マシンガンみたいに銃口を動かして、的に当てるんだ」
香穂はうなずき、細村の言うとおりに撃ってみた。
銃の方向をほんの少し動かすと、的に連続した焦げ穴があいた。
「当たった!」
「いいぞ、その調子だ。続けて。射光感覚がつかめてくれば命中精度も上がってくる」
「はいっ」
香穂は夢中で引き金を引いた。すぐにバッテリーが空になり、何度も交換した。予定の一時間を経過するころには、次のコースへ進めそうだった。
射撃訓練はゲームセンターの射的ゲームとさほど違いはなく、馴染みがないわけでもなかったが……ここは……。
香穂はその場に立ちつくし、しばし声を失った。
訓練アリーナは、本物の都市のようだった。これがまるごと訓練場? どこかの街角に連れてこられ、「はい、ここが訓練場です」と言われたような感じだった。
「ここにはロボットの亜獣が放されている。ここで訓練を積んで実戦に臨むわけだ。ロボットだから襲われても怪我しないのと、もうひとつ本物のエリア・オーサカと違うのは、重力だ。それはわかるだろ?」
香穂が脱いだジップアップジャケットを手に預かって、細村は説明した。
香穂は深くうなずいた。
「ロボット亜獣は初心者レベルに設定されている。まずは一人で行ってみてくれ。チーム行動を覚えてもらうのはそれからだ」
「え? でも……」
一人で行けと言われても。
「大丈夫さ。制限時間は九分。おれは流れ弾に当たらないよう退避してるから」
細村は、背後の入ってきたドアから退出していった。
香穂は一人とり残された。ぽつねんと立っていると、
「歩き出すんだ。まずは動く標的に慣れるところからだ」
そう声がかかる。
思わず振り向くが、細村の姿は見えない。だが外からはモニタできるようだ。
香穂は仕方なく歩き始める。
無人の街。立ち並ぶ無愛想なコンクリートのビル。一階部分にコンビニや飲食店らしき装飾が施されてはいるが、訓練時の激しさを物語る壊れ具合を呈していた。明らかに爆弾で吹き飛ばされたとおぼしき大穴のあいたビルも見え、どんな訓練をしていたのだろう。銃弾の跡も生々しく、内戦で荒廃した外国の都市を思わせた。戦車がビルの陰からひょっこり現れたとしても、ぜんぜん不自然ではない。
そんな街のどこからロボットが飛び出してくるのか。絶対に来るとわかっているから、かえって腰がひけてしまう。天王寺公園で襲ってきたアノマロカリスの醜悪な姿を思い出した。
パルスレーザーガンを突き出しながら、周囲をきょろきょろと見回していると気がついた。
街の遠景は、舞台セットのようなカキワリだ。だから見た目ほど広くはない。といっても、やはりそこそこの広さはありそうだ。陸上競技場ぐらいはありそうだった。
二十メートルほど先の建物の陰から犬が現れ、前方を横切っていった。――犬ではない、亜獣ロボットだ。
ロボットは道路からべつの建物の陰へと入っていった。香穂はそこを注視する。ロボットが入っていった建物の陰の路地が見えるよう回り込みつつ、おそるおそる近づいていった。
路地を見通す場所まで移動した。――が、いない。どこへ消えた?
少し駆けて、路地の入り口で立ち止まる。張り詰めていた気が抜けた。
が、気を抜いている場合ではなかった。
後ろを振り返ると、すぐ近く――十メートルほどの距離に亜獣ロボットがやってきていた。ワニのように地面を這う、六本足の亜獣だ。
香穂は悲鳴を上げながら、パルスレーザーガンをめったやたらと撃ちまくった。
ロボットが破壊されて、動かなくなってもなお銃撃をやめなかった。レーザーの熱でロボットの残骸が燃え上がってから、やっと銃口を下ろしたときにはバッテリーゲージが電力の半分を消費したことを示していたが、香穂は気がつかない。
次のターゲットを探した。肩で息をしていた。
「どこに隠れてるの。でてこい」
と叫んで自らを奮い立たせた。緊張がすぎて興奮状態になっていた。
大股で通りを歩く。
路地から、また一匹、ひょっこり現れた。距離は五十メートルほども離れていた。パルスレーザーガンの射程は長距離だったが、銃の構造が長距離には向いていなかった。
それでもかまわず香穂は雄叫びのような奇声を発しながら乱射するが、アスファルトに大量の焦げ跡を作っただけで移動する亜獣ロボットを破壊することはできなかった。
バッテリーが切れた。
「そこまでだ」
細村が宣言した。九分の制限時間の半分もたっていなかった。
香穂は激しく落ち込んでいた。訓練アリーナ外のベンチにすわり、肩を落として無言だった。
――こんなことで、恐怖に乱れてしまうなんて。
そう反省していた。
「ほらよ」
細村の声に頭を上げると、目の前にココアの缶があった。
飲みなよ、と細村。
受け取ったココア缶は暖かかった。
「わたし、自信がない。こんなんでダイバーになれる?」
「最初はそんなもんさ。そのうち慣れるだろう」
「わたし、きっと細村さんの足を引っ張ってしまうわ。迷惑をかけてしまう」
「きみを救けたときから、こうなると思っていたさ。救けた以上、放り出すわけにはいかない。独り立ちできるまでは面倒みてやる」
「どうして……」
香穂は、ここまで親切な細村に、今さらながら戸惑いを覚えた。
細村は口の端をほんの少し曲げて微笑む。
「それは、おれが正義の味方だからさ」
香穂は冗談めかした台詞に笑ってしまう。そのときはただの冗談だと思っていたが、あながちそうでもなかったと、その本当の意味を知るのは少し後になってからだった。
一週間後、ダイブの日がやってきた。
午前八時に堺空港を飛び立った小型のタチャームは、細村と香穂の二人だけの乗客を乗せて、エリア・オーサカへと低空を飛行していた。
機内はエンジン音などの騒音はまったくなく、過剰に静かだった。
八人分の座席しかない客室は狭く殺風景だったが、わずか数秒で目的地に着くので気にならない。
香穂は、エリア・オーサカでの活動がしやすいようにとスポーティな服装をしていた。訓練時のようなジャージではなく、トレーナーの上から動きやすいショートジャケットを着ていた。パルスレーザーガンを入れたポシェットはジャケットの下にかけて。
一方細村は、フード付きカジュアルコート。ポケットには武器や飲料水、救急用のエイドキット等を入れてある。
突然、壁の一部分が大きく消え、外が見えた。慣性も感じられず、移動したとは思えなかったが、外の景色は乗り込んだときとは異なっていた。到着である。
大きな河が眼下にあった。これが大和川――エリア・オーサカの境界。しかしそれらしい境目はわからない。河の両岸に目を転じても、どちらも同じようにしか見えず、どちらがエリア・オーサカなのか判別できない。
「あっちがエリア・オーサカだ」
と細村が指さした。
香穂はそのほうを見る。
「よく見ろ。だれもいないだろう、走っているクルマもない」
平日の午前中。街は活動している時間だ。たしかに人間どころか空を行く鳥の姿さえなかった。もう一方の岸を見ると、道路を走る宅配便のトラックがいた。
視線を戻す。エリア・オーサカ、か──。
香穂は唾を飲み込んだ。天王寺公園で遭遇した亜獣の醜悪な姿が脳裏に浮かんだ。あんなのと戦わなければならない。武器を持っているとはいえ、できれば出会いたくないものだ。
「ゲートが現れたぞ」
細村は、今度は川面を指さした。
見ると、大和川の、ほとんど流れのない川面に黒々とした渦ができようとしていた。エリア・オーサカへつながるゲートだった。
オーパムはゲート出現の瞬間をどうやってか正確に予測していた。ダイブの日時を伝えてきたのは四日前だった。ということは、少なくとも四日前にはわかっていたということになる。それだけの予測精度を持っていながらオーパム人はエリア・オーサカには入れなかった――入ろうとしなかった。なぜかはわからない。オーパムは情報開示をほとんどやらないから。
「あそこへ入るの?」
香穂は地上から数メートルの高さと、ブラックホールを連想させる黒い渦に後込みしてしまう。
「大丈夫さ」
「だれでもかれでもダイバーになろうとしない理由がわかったわ……」
通常なら、初めてだろうとだれの助けもなくエリア・オーサカへダイブする。ダイバーになった人のうち、五人に一人は最初のダイブから戻ってこず、戻ってきても二度と行かないダイバーも同じだけいた。過酷な仕事だ。多額の報酬もうなずけた。
「さ、飛び込もう」
細村は不安そうな香穂の手をとり、ためらうことなく床を蹴った。
香穂は空中で目を白黒させた。心の準備なぞできてない、強制バンジージャンプだ。
そして二人は、エリア・オーサカへと突入した。
細村とともに広い道路の真ん中に出た。
走っているクルマは一台もなく、そこにとどまっても轢かれることはないが、香穂は落ち着かない。
歩道へ移動した。
そして、その建物に気づいた。
「あれが大阪ドーム?」
香穂は目の前に圧倒的な存在感を示しつつそびえ建つ巨大建築を注視する。
しかしなにか妙だった。
銀色に輝く屋根の上に、もう一層、なにかが積み重なっている、ように見えるのだ。
あれは……?
「でかいだろう」
香穂の傍らで細村があごをしゃくった。
「あそこへ行くの?」
「そうさ」
「しかし、あれ……」
「最初からああじゃなかったさ」
香穂が訊く前に、細村は説明した。
「ドームの上にはなにもなかった。エリア・オーサカができたとき、突然、上の部分ができあがった。見ての通り、新たに増築したんじゃなくて、まったくべつの建物がワープしてきている。あれは難波の湊町リバープレイスといって、ここから数キロ東にあったんだ」
「でもどうして……」
「わからん。ただ、この現象はエリア・オーサカの中のあちこちで起きている。エリア・オーサカが形成されたとき、かなりの空間がひん曲げられたんだと思う。たぶん、元には戻らない」
香穂は、周囲を威圧するような大きさの巨大建築を凝視した。これからそこへ行くのである。不安がよぎった。
「あの内部はどうなってるの?」
外側が異様なら、内側もその影響を受けているだろう。
細村は肩をすくめた。
「まるっきりわからん。鍵の破壊にはいつも危険がつきものさ。どんな亜獣がいるのか、事前に情報が与えられても、いざ行ってみると全然話が違っていたということも珍しくないからな」
香穂は押し黙った。これからのミッションに、緊張が高まった。
エリア・オーサカは二度目だが、わけがわからなかった前回とはまったく置かれた状況が違う。知らぬが仏で、情報が得られたことによって余計に不安が増してしまう。タチャームと呼ばれる飛行機械に乗せられて異星人を初めて見たときも闇のように黒いゲートへ飛び込んだときも激しく緊張したが、そのときとは違う、緊張。これから命をかけた戦いに臨むという、これまでの人生でついぞ経験したことのない張りつめた気分。
ポシェットから取り出し手にしたパルスレーザーガンに視線を落とす。汗ばんだ手で滑らないよう、手袋をはめていた。さらに落とさないよう紐をつけ、手首に巻いてある。
「さあ、行くぞ」
細村は香穂の肩を軽くたたいた。
大阪ドームの北口。横手の地下鉄への階段の脇を抜け、ドームの二階へとつながっている白い階段を昇る。
ドームの二階はショッピングモールだ。
球場のスタンドに入るには、三階の入り口を使う。
ドームの外側のテラス階段から三階へ移動した。
ドーム正面のガラスドアがはずれていた。
十分に警戒しながら中へ踏み込む。
ドームの形状に沿ってゆるやかなカーブを描く外周回廊は幅五、六メートルほど。屋外に面する壁はすべてガラスで外光が入り、照明がなくとも明るい。
ドームの内部のスタンドへつづく短い通路が外周回廊のところどころに口をあけているのだが、その奥は真っ暗だ。
「これをつけろ」
細村がゴーグルを差し出す。闇の中でも見通せる暗視ゴーグルだ。
細村が装着するのを見ながら、香穂もセットする。
細村は香穂の暗視ゴーグルの具合を確認すると、突入を前に銃を今一度たしかめる。
衝撃針銃。針のように細い弾丸が目標接触と同時に破裂する。亜獣につける傷は浅いが、衝撃によって戦意を奪い逃走せしめるのだ。
香穂を救けたときのように亜獣を殺してしまうことは少なかったが、身を守るという目標が達せられればいいと、細村はこの銃を選んだのだった。
弾丸が小さいので銃もコンパクトだ。大量の予備弾を携帯できた。
「いいか? 入るぞ」
香穂はうなずく。
――大丈夫。きっと平気。あれだけ訓練したんだから。
ダイブの日まで連日、細村の指導のもと訓練を重ねた。射撃はもとより、亜獣との戦闘における行動の基礎。命がかかっているから真剣にとりくんだ。たった数日では大して身についているとは思えなかったが、その分覚悟はできていた。
細村は通路の壁に背中をつけつつ、じりじりと闇の中へと進んでゆく。香穂もつづく。
さっと身を翻して、細村はスタンドの通路に立った。すばやく周囲に視線を走らせる。
香穂もスタンドへ飛び込んだ。
その途端、細村の衝撃針銃の連射音。暗視ゴーグルの視界に細村の背中があったが銃撃の標的がわからない。細村はなにに向けて撃っているのか。
どんな亜獣がいるのかは、経験のない香穂には予測できない。事前に情報を聞いていても、時間的にも能力的にも、とても吸収しきれなかった。
天王寺公園で出会ったアノマロカリスの強烈なイメージだけがまぶたにこびりつき、それ以外の亜獣の姿が思い浮かばない。
銃撃がやむ。
「亜獣?」
「たくさんいそうだ」
細村は銃口を上げ、再び周囲を油断なく探った。
「さぁ、行くぞ。鍵はあそこだ」
指さす先は、高いフェンスに囲まれたグラウンド内だ。
客席の間の階段を降りていく。
「いいか。おれがグラウンドで鍵を破壊している間、援護しててくれ」
言うと、高くジャンプした。通常ならとても越えるのは不可能なほど高いフェンスの向こう側へ着地した。
香穂は、撃たれた亜獣が逃げていくのを一瞥し、それがどんな形態なのかがわかったが、その正体をじっくり検分している暇はなく、他にも亜獣がいないか周囲を警戒しながら細村を援護すべく階段を降りていく。
重力が異常になっていて高くジャンプできると聞いていても、どうにも信じられなかったが、細村が目の前で実践したことで、できるような気がした。
が、踏み込もうとした足が止まった。助走が欲しい。階段からはずれて水平方向へ移動できる通路を走ろうと思いついた。
と、ゴーグルの視界の端になにかが動いた。
とっさに銃をかまえた。訓練の甲斐あって反応が早かった。
「うっ」
亜獣がいた。アノマロカリスとは全然ちがう、細かなウロコに覆われた六本足のトカゲ――のような外見だった。トカゲというイメージが香穂のなかで一番近かったが、強いていえばという程度で実はずい分ちがう。頭部にある目らしきものが五つ光っているだけでもトカゲからかなり遠い。
ほとんど反射的に引き金を引いていた。
もう少し細かい特徴が見える前に、パルスレーザーに灼き貫かれて、亜獣は身を翻して逃げ去った。
もたもたしてはいられない。援護しないと、細村は鍵の破壊に集中できない。
香穂は助走し、思い切って跳び上がった。
香穂の体はフェンスよりずっと高く、細村が達したはるか上空にまで上昇し、二階席に届くほどだった。
予想もしなかった高さに香穂はあわてた。着地の体勢をとりそこない、落下して人工芝に転がった。
「いつっ……!」
着地時に右の足首を痛めた。だが気にしている場合ではない。
細村は、セカンドベース後方で鍵を破壊するための準備を始めていた。鍵を破壊している最中は無防備になる。その間に亜獣に襲われることも多かった。だから本来なら周囲の亜獣をすべて抹殺して鍵の破壊を行なうべきなのだが、細村は香穂の援護を期待して鍵の破壊にとりかかっていた。
ドーム内にどれだけの亜獣がいるかわからないが、屋外に比べてその密度は高そうだった。すべての亜獣を駆逐するなぞ現実的ではないのかもしれないが、それにしても細村の行動は早すぎる。
香穂は痛む足を引きずりながら細村のもとへ歩みつつ、ドーム内を注意深く見回した。
ドームは、タマネギを輪切りにしたような同心円形の天板構造で、天井までの高さが変えられるように造られていたが、そのあちこちに、垂直に突き破った鉄骨が見えていた。おそらく、外から見えていた積み重なった難波リバーサイドプレイスの基礎構造体だろう。いまにもドームを押しつぶしてしまうのではと恐怖を感じた。
たぶん天井の一部だろうと思われる破片の散らばるグラウンドに、動く影を求めていると――。
――いた!
レフトの方向から、イノシシほどの大きさの亜獣が三匹、トコトコと近づいてくる。形状は遠くてまだよくわからない。闇でも見える暗視ゴーグルとはいえ、視力までよくなるわけではないのだ。
先制攻撃しようとしてもパルスレーザーガンの射程外だ。レーザーなので目標には届くのだが命中率が悪い。確実にヒットさせるには接近する必要がある。
足の痛みをこらえ、香穂はジャンプする。
空中にいるわずかな時間、亜獣を観察する。クルマを連想させるフォルム。角が何本も生えて、威嚇的だ。
レーザーバックという名前がつけられていたが、香穂はそこまでは知らない。
今度は上手く着地できた。足首の痛みは治まったわけではないが、着地と同時に膝を曲げて床との衝撃を吸収し、あまった勢いは前転して逃がした。
すぐに起き上がり、レーザーバックを見据える。パルスレーザーガンの出力を最大にして構える。
先頭を行く亜獣を狙い、引き金を引いた。
目に見えぬ光条が命中したのがわかったのは、高熱に灼かれて煙が巻き上がり、向かってくる亜獣の速度が落ちたからだった。煙で見えなくなったため、亜獣がどんなダメージを負っているのかはわからない。
それより残り二匹を食い止めなければ――。
香穂はもう一匹に向けてパルスレーザーを発射する。一匹目と同様に煙に包まれた。
最後の一匹に照準を定める。しかし二匹を退治している間に彼我の距離は大きく縮まっており、レーザーバックの鼻先がもう手の届きそうなほどに近づいていた。
身の危険を感じた香穂はその場でジャンプする。高さ五メートルほどの空中で、真下を通過するレーザーバックが見えたが、銃を撃とうにも体勢が悪く、狙いが定まらない。
着地して、背中に向けて銃をかまえたが、射線の先に細村がいた。
細村の周囲に力場のフィールドが膨らんでいた。光学的に見ることのできないものを暗視ゴーグルが視覚化して見せてくれているのだ。
わずかな色彩の違いで鍵も見えた。
香穂は慎重に狙いをつけた。
――猛訓練をしたんだ。大丈夫、いける。
そう自分に言いきかせ、引き金を絞った。
レーザーバックの体から煙が立ち昇る。
よし、と思ったとき、背中に衝撃。まるでクルマをぶつけられたかのよう。
跳ねとばされて、香穂は人工芝に転がる。
衝突のショックが大きく、すぐには起き上がれない。なにかの気配を察し、首だけ起こして振り返った途端、腰を踏まれる圧力を感じた。
レーザーバックだった。
足で香穂を押さえつけていた。イノシシのように胴体と頭部の境目がなく、信じ難いほど大きく縦に裂けた口から、サメのような鋭い歯の列がのぞいていた。
先に倒したと思っていた二匹のうち、一匹はまだ生きていたのだ。
香穂に噛みつこうとしている口の奥へパルスレーザーガンを向けると引き金を握りしめた。
高熱がレーザーバックの上顎を灼き、貫通する。吹き出した体液が瞬時に蒸発して盛大に煙が発生した。トリガーを握ったまま、銃の角度を変え、喉の奥へとパルスレーザーを送り込む。
ギャオウ! という悲鳴をあげて、レーザーバックがのたうちまわった。
が、すぐに動かなくなった。
きわどいところだった。
香穂は大きく息をつき、亜獣が死んだようだ思うと、その場にすわり込んだまま細村のほうを見た。
細村の近くで空間が歪んでいた。それは鍵のあった場所だった。空間が、見えない巨人の手で握りつぶされたようになって、数秒後に目の錯覚だったのかと思うほど痕跡を残さず元へ戻った。
すると細村は香穂へと駆け寄る。
「長居は無用だ。すぐに脱出するぞ。立てるか?」
細村が差し出した右手をとって、香穂は立ち上がる。
「鍵は?」
と訊く。
「破壊した。きみのおかげで、早く仕事を終えれた」
自分が細村の役に立てて、香穂は嬉しくて足の痛みすら忘れてしまいそうだった。
「早くここから出ないといけない」
「亜獣がいるから?」
「鍵の破壊によって、空間のバランスが崩れた」
見ろ、と細村は天井を指さす。
香穂が見上げると、天井の構造体が歪んでいた。つららのような鉄骨が落ちてきそうだった。
香穂と細村は走り出す。三塁側ダッグアウトの手前で、香穂はジャンプ。
「きゃっ」
足の痛みで踏み込みが不十分だった。フェンスに衝突し、ダッグアウトの屋根に背中から落ちた。
「うっ!」
一瞬、息が止まった。
「大丈夫か?」
細村が香穂の傍らにしゃがみこんだ。
「もう一度跳ぶわ」
痛みに顔をしかめながら、香穂は言った。
「足を痛めたな。内野スタンドへ行けるドアが近くにあるはずだ。そこから出るか」
細村はフェンスのドアを探すが、目に入ったのは一匹の亜獣だった。
鎧のような殻に覆われた多足動物。
「大サソリか……」
衝撃針銃では駆逐するのに時間がかかりそうだった。
細村は香穂に肩を貸して立ち上がると、腰を抱いた。
「ジャンプするぞ」
跳び上がった。
フェンスにぎりぎり届いた。フェンスの上端を蹴って、跳ぶ。
グラウンドとちがって軟らかい人工芝の敷かれた広い場所ではなく、コンクリートが階段状になった、しかも客席のベンチに挟まれた狭い場所しか着地できるところがない。
細村がフェンスを蹴ったのは、そこへ安全に至るためだった。
ちょうど外周回廊へ出る通路のあるやや広いところに着地できた。
香穂を下ろす。
「よし、行こう。ドームの天井が崩れる前に」
「崩れるの?」
香穂はドームの天井を見上げる。
なんとなくそんな気がしていたが、まさか本当に崩落してしまうなんて。
「もともとリバーサイドプレイスを支えられるほど強固な屋根じゃない。かろうじてもっていたが、いつ押しつぶされても不思議じゃなかった」
細村は香穂の手を引いて外周回廊へ出ると暗視ゴーグルをはずした。
さらにドームの外のテラスへ出た。
地響きのような不気味な音が聞こえてきた。
正面階段を降り、ドームから百メートルほど離れた阪神電車の地下駅出入口まで逃げてきたとき、やっと振り返った。
二人が目にしたのは、ドームの屋根の上にあった難波リバーサイドプレイスが、轟音をたてながら沈みゆく光景だった。
***
「本当に大丈夫やの?」
と妻が心配する。
オーパム人の客と親しくなることに、漠然とした不安を感じるのも無理はない。オーパムのことを深く知ろうと嗅ぎ回っていたり、オーパムを地球から追い出そうと破壊活動を起こそうとしたりする者を、彼らは秘密裡に拉致し宇宙へと葬っているという噂が流れていた。
日本政府は、オーパムが反オーパム思想者を拉致した事実はないと否定していたが、オーパム自身がなんのコメントも出さないので、それを信じない者は多かった。事実、行方不明になっている人間はいるのだから。むろん、オーパムとはなんの関係もない失踪がほとんどなのだろうが、ぜったいにないといいきれない。
「けどヒケさんと雑談する分には、なんの危険もないで」
と私は主張した。ヒケ、というのは、そのオーパム人客の名前だ。本当はもっと発音しにくく長い名前なのだが、言いやすいように「ヒケ」と省略させてもらっている。それで呼んでもいいとヒケも言った。
そう? と妻はまだ納得いかないようだった。
「大丈夫やて。話してみたら誠実な人やで」
私は請け合った。とにかくヒケとの会話はエキサイティングだ。いろんな常連客と話すが、ヒケほどの興奮は得られない。喫茶店をやっていてよかったと、私は強く思うのだった。
「コンサートって、だれのですか?」
と、私は訊ねた。
オーパム人ヒケは、つい先日、コンサートに行ってきたと言うのだった。
「氷川きよし」
表情の読めないヒケの顔を見返して、私はカウンターにすわる宇宙人が会場でどんなふうに見られていたのか想像し、また音楽というものをどう感じているのだろうか、その他、さまざまな疑問と想像を巡らした。
「ほう……。で、どないでした?」
とりあえず感想を訊いた。
「唄あり寸劇ありで、楽しめましたよ」
「それにしても氷川きよしねぇ……。前から好きやったんですか?」
「いや。ぜんぜん知らなかった。彼が人気歌手であると知って、三ヶ月前にチケットを買ってから唄を聞き出した。オーパムの唄を思い出した」
「オーパムの音楽って聞いたことないんですが、どんなんです?」
「よろしければここで歌ってもいいが、しかし……」
ヒケはスツールを回して店内を見回す。数人の客がいた。常連客はヒケがいることに慣れて平然とくつろいでいる。
「迷惑がかかりそうだ……」
どんな唄なのだろう。
「マスター、お勘定」
「まいどー」
入り口近くのレジに立つ客に応対するため、私はその場を離れる。携帯電話を読み取り機の上にかざしてもらい、電子マネーで決済完了。
「まいどおおきに」
出ていく客と入れ替わりに、猛烈な勢いで一人の男が店に飛び込んできた。鬼のような形相で汗を浮かべ、異様な殺気を発していた。のびた無精髭とぎらつく双眸が不気味だった。
男はいきなり私の襟首をつかむと、自動式のピストルをつきつけた。
「全員動くな!」
男が野獣のような声で叫んだ。
女性客の悲鳴。
すると、パトカーのサイレン音が近づいてきて、店の前でブレーキの音けたたましく停止した。
「おまえら全員人質だ。逃げようとしたら撃ち殺すぞ」
声を震わせて男は言い、私の襟首を引きずってドアに近づくと外へ向かって怒鳴った。
「とっとと帰れや、お巡わり!」
どうやら警察に追われていた男に立てこもられてしまったようだ。私を含めて数人の客が人質にとられ、厄介なことになってしまった。
いったいこの男はここへやってくる前になにをやらかしたのだ? 強盗? 殺人?
「あの……これからどうするんですか?」
私はおずおずと訊ねた。
「やかまし! 黙っとれ」
相当イライラしている。外には警察官が大勢いて店を取り囲み、もはや犯人は逃げられない。逃げ回っているうちに逃げきれないと知って、とっさに立てこもったのだろうが、これからどうすればいいのか、本人、少しも考えていないし思いつきもしないのだろう。この手の立てこもり事件が解決するのは時間の問題だ。いつまでもこのままというわけにはいかないのだから。だが――。
自棄を起こして人質を殺してしまわないかと心配になった。
警察が拡声器で呼びかける声がした。
「これ以上の罪を重ねるな。拳銃を棄てて出てきなさい」
素直に言うことをきく顔ではない。眼は泳いでおり、息づかいも荒い。
そのとき、ゆらり、と動く影を認めた。
ヒケだった! スツールをおりて、こちらにゆっくりと向かってくる。
反射的にピストルをつきつけた男の顔がひきゆがんだ。
「おまえは……どうしてここにオーパム人が……」
絶句した。たった今、この瞬間までオーパム人が客の中にいるなんて気がつかなかったのだ。
ヒケは言った。
「銃をおろせ。私を撃てば、どうなるかわかっているか?」
「ひっ! 来るな!」
ヒケは平然と近づいてくる。ピストルなんかまったく意に介さない。怖くないのだろうか? あんな至近距離から撃たれたら……それともオーパムの科学力はピストルの弾なぞ無力化できるのか? そんな装備をもっているのか?
私は固唾を飲んで見守った。ヒケはどんな魔法を見せてくれるのか。
近づいてくるオーパム人に銃口を向けながらも、未知による恐怖のためパニックに陥る犯人。手が震え、銃口が固定しない。おそらく生涯これほどの恐怖を味わったことなどなかったに違いない。オーパム人は得体の知れない宇宙人なのだ。
ヒケは立ち止まった。
「銃をおろせ。今なら地球の警察にひきわたす。さもないと、オーパムがあなたを裁く」
「来るな! こいつの命を……」
言ってピストルを私に向けようとしたが、オーパムにいかなる脅しも通用しそうにないと悟ったらしく、とうとう観念した。ピストルを放り出して、
「頼む。このまま出ていくから見逃してくれ」
言い棄てると、ドアを開けて飛び出していった。
「ご協力、感謝します」
ようやく場が収まって、警察は引き上げていった。最初ヒケを見て驚いた様子だったが、それ以外はてきぱきと業務をこなし、最後に敬礼して警官は立ち去った。
「助かりました、ヒケさん」
私は改めて礼を述べた。
「ところで、オーパム人はピストルなんて平気なんですか?」
「いや。あのまま撃たれたら、無事ではすまなかったろう」
私は意外だった。犯人へのあの態度は、弾をも跳ね返すスーパーマンだからだと思っていたのだが。
「怖なかったんですか?」
「オーパム人は、恐怖その他、地球人ほど感情が激しくないのでね」
「でも、もし死んだら……」
「そのときは、我が同胞が犯人を逮捕するだろう」
「逮捕されたら、犯人はどうなるんですか?」
私は勢い込んで訊いた。世にもおぞましいやり方で殺されるのだろうか?
「それは私にもわからない」
ヒケは私の期待を知ってか知らずか、明言を避けた。本当に知らないのかもしれない。
「今日はとんだ日になった。また来るよ」
ヒケは帰っていった。いつものように。
しかし、それが、ヒケを見た最後だった。