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第5章『心斎橋』

 マンションのベランダからは、霞んだ大阪の市街地がいつでも見えていた。

 五階という高さは、高層建築の立ち並ぶ大阪市内では決して高いとはいえず、ベランダからの眺めは建物に遮られて、ただ洗濯物さえ乾けばいいやと、日当たりの善し悪しだけ思うようになってきたのは、娘が生まれ、子育てに必死になっていたせいもある。

 幼稚園に通いだし、少しは楽になるかと思えば、今度は行事(参観や遠足の付き添いや運動会の準備やバザーやら)に駆り出され、日々の生活はやっぱり忙しかった。もともと仕事に熱心だった夫は娘が生まれてからさらに仕事に励むようになり、それはそれで悪くはないのだが、帰りはいつも遅く日曜日でさえ出勤することがあり、家にはほとんどいない。今思うのは、過労で倒れませんようにということだった。

「ママ、あれなあに?」

 幼稚園から帰ってきて、リビングのテーブルでおやつのプリンを食べていた娘が、開け放したベランダの外を見て言う。

 初夏の日差しが熱いほど差し込み、取り入れたばかりの洗濯物は十分に乾いて暖かかった。ぜんぶ畳んだそれをクローゼットへしまいこんで、リビングへ戻った。

「どうしたの?」

 このぐらいの年齢は、ようやく周りの世界が認識できはじめ、大人にとってはごく当たり前のことでも不思議がって質問してくる。どうせ瑣末なことだろうと、ゆいりは高をくくっていた。

「あれ、窓の外――」

 娘はベランダを指す。

 開け離れたサッシからベランダの向こうに視線を向けた。

 そして、眉をひそめた。

 ――なに?

 そこに、日常とは異なるものが見えていた。

 正体を見極めようとベランダに出てみた。サンダルをはいて、幅一メートルほどの狭いベランダの、大人の胸の高さほどある塀のような手すりから身を乗り出すようにして小手をかざした。

 上空になにかが浮いていた。黒く四角いなにかが多数。その数は次第に増えていく。空に次々と、どこかから飛行してくるのではなく、忽然と現れるのだ。

 気球や飛行船や、ゆいりのよく知る航空機の類でないことは明らかで、それはつまりUFOだった。未知の飛行物体。

 視界の先には大阪城があった。そこへ集結しているように見えた。

 物珍しさより、危険を感じた。

美紅みく、逃げるわよ」

 正体も危険の理由もわからなかったが、とにかく娘の手をとる。

 とるものもとりあえず、戸惑う娘の手を引いて玄関を出た。エレベーターがなかなかこなかった。表示を見ると、各階に停止しているようだった。ゆいりと同じように避難しようとしている人がいるのだ。

 ここは十五階建ての分譲高層マンション(重いローンの返済もあって、夫は夜遅くまでがんばっている)だ。最上階まであがったエレベーターが下りてくるまでにはまだ時間がかかるだろうし、下りてきても定員オーバーで乗れない可能性が高い。

 幸いここは五階で、幼いこどもを連れていても、階段で下りられないこともない。

「こっち」

 ゆいりは階段のほうへと移動する。

 引っ越して以来、一度も使ったことのない階段は、どこにあるのかさえわからなかったが、さして広くもない廊下をすすむと、それらしい鉄扉があった。あけて、踊り場へ踏み込んだ。

 鉄の檻に囲まれた鉄の階段は、新築のためか、まだペンキの匂いがした。

「ママ、こわい」

 階段をあまり登り降りしたことがない娘は、その高さにしり込みする。

「大丈夫よ、ママがいるから」

 ゆいりは娘の手を握り、一歩ずつ階段を降りる。同じことを考える人間はいて、鉄の階段を鳴らす音が上から近づいてくる。追い抜かされる際に娘と脇に退き、邪魔そうな視線を感じたりした。

 階段から表側の道路が見えた。西行きも東行きも渋滞していた。これではクルマを使うことはあきらめたほうがいいかもしれない。そう思いつつ、ようやく一階までたどり着いたとき、タワー型の機械式立体駐車場の前で出庫を待つ人の列に遭遇した。これではクルマに乗り込むだけで数十分はかかりそうだった。

 そのまま歩いて道路に出た。歩道を東――大阪城とは反対の方へとすすむ。

 上空にはUFOがさらに増えていた。空がUFOで埋まってしまうのではないかと思うほど、その数はおびただしく、不気味だった。

 歩道にも人があふれていた。不安にかられて逃げようとする者、好奇心をもって近づこうとする者、立ち止まって空を見上げる者たちがいて混雑し、天神祭りの人出のように普通に歩いていくのも困難だった。

 道路も同様だった。交差点で衝突事故が起きていた。UFOに気を取られて運転を誤ったのだろう。事故は方々で起きており、渋滞はそのせいだった。クルマを使わず正解だった。

 JR放出(はなてん)駅が近かった。そこから電車を使えばいいだろう、と思っていた。この様子だと電車も混雑しているかもしれないが、まだUFOの出現からそれほど時間も経過していないから、まさか運行停止などという事態にはなっていないだろう。

 今のところ明らかな危険はなかった。上空、やや低い空中に集まってきているだけで、それらが直接地上の人間に危害を与えているわけでもなく、建物やクルマを損壊しているのでもない。

 だが、未知のものに対する恐怖はあらがいがたく、パニックが起きるのも時間の問題と思えた。なにかひとつの小さなきっかけで暴動のようになる可能性を危惧した。

 いつもなら十分ほどの駅への道のりが、今日は混乱のため、なかなか着かなかった。

 駅前商店街に入ったとき、西の方角――ちょうど大阪城のある方向から、なにかの光が広がったのを感じた。虹のような光の帯が空をさっと横切っていった。

 次の瞬間、空を覆うほどのUFOの大群が次々と爆発していった。なにが起こったのかと思うほどの激しい爆発で、粉々に砕け散って、煙を引きながら破片が落下していく。UFOはたちまち空から一掃された。

 が、ほっとしている場合ではなかった。UFOを駆逐したのは何者なのかはわからなかったが、それは地球侵略をたくらむUFOがスーパー兵器によって排除された図のように人々の目には映っただろう。

 しかし、そのスーパー兵器が人間の作り出したものでないことは明らかだったから、次に予想もしなかったことが起きるのではと身構えた。

 娘をかばうようにして建物の影に入った。その様子から余計に不安を感じ、ゆいりに抱きつく娘。

 予感は的中した。UFOを撃退したのは人類に味方するためではなかったのだ――。

 激しい地震がきた。

 通常の地震ではない、うねるような揺れ。波の荒い海上に浮かぶ小舟に乗っているかのよう。立っていられなくて、しゃがみこむ人々。歩道に停めてある自転車や店舗の立て看板がいっせいに倒れた。人々の悲鳴。

 道路のクルマさえ動いてやたら追突し、エアバックの作動音とクラクションが交錯した。

 神の怒りのような地震が治まったかと思えば、今度は空が突然暗くなった。見上げると、空に黒い巨大なシミができていた。まるで「穴」のようだった。

 穴は、周囲のものを吸い込んでいた。空気や光を。

 その、非現実的な光景に目を奪われながらも、シミが吸い込む空気の流れに逆らい、必死に地面にへばりついていた。

 風が収まったら、いっきにこの場を離れるつもりだったが、どちらの方向が安全なのか判断がつきかねた。

 周囲の地図を頭に浮かべ、経路を逡巡していると、予想もしなかったことが起きた。

 シミが移動したのだ。

 地上へ降りてきたかと思えば、地面を移動し始めた。

 それは地面にあいた、穴だった。穴の移動につれて、その上の建物を飲み込んでいく。ブラックホールのように際限なく。

 ゆいりは顔色を変えた。

 穴がこちらに向かってくるのだ。そのスピードは、とても逃げられる速さではなかった。

 建物だけでなく、人もクルマも穴へ落ちていく。

 穴の正体はまったくの不明だ。あの穴に落ちたらどうなるかわからないが、ただですむとはとても思えない。

 ゆいりは娘を抱きしめた。せめてこの子だけでも、という思いさえかなわないだろう。

「美紅!」

 娘の名を叫ぶ、ママはここにいるよ、と。

 そして――。



「気がつくと、わたし一人が、道ばたに倒れていた。西に行こうとしたけど、見えない壁が立ちふさがっていて、そこから先へはどうしても行けなかった」

 エリア・オーサカの境界は、北は淀川、南は大和川、そして東側は内環状線に沿っていた。

「その穴がホールだというのか?」

 紀崎がやっと口をはさんだ。いわずもがな、だからこそ、そこへ飛び込んで娘を救出しようとしたのだ。

「だけど、その子も同じようにエリア・オーサカの外へ出ているかもしれないんだろ?」

 ゆいりは力なくかぶりを振った。

「それはない。オーパムに探してもらったから」

「…………」

 紀崎は黙って言葉を探した。

「わかっているわよ。生きている可能性がないだろうってことぐらい。あのとき、わたしが助かったのは偶然だってことも。それでもわたしには、もう探すしか生きている意味がないのよ」

「でも、もしエリア・オーサカ内で見つかったとしても、もう人間の姿は――」

「それは言わないで!」

 ゆいりはぴしゃりと言った。それ以上は聞きたくなかった。

 それも承知していた。

 エリア・オーサカ内でダイバーが戦っている相手――亜獣。オーパムの説明では別の世界から迷い込んできたということだったが、だれもそれが真実かどうか確かめたわけではなかった。エリア・オーサカが構築されたとき、大阪市内には何百万人もの人間がいたはずだった。それが今は一人もおらず、代わりにいたのが亜獣だ。そのことが意味するのはなにか――。

 口に出してこそ言う者はいなかったが、そのことも、だれもがダイバーになることに積極的になれない理由の一つだった。

 それがわかっていながら、ゆいりはダイバーになった。娘と再会するために、それ以外の選択肢があるとは思えなかった。

 紀崎は質問を変えた。

「旦那さんは……?」

 ゆいりは膝に顔をうずめ、こたえた。

「たまたま東京へ出張していた夫は悲しむわたしを慰めてくれたけど、いつまでも娘にこだわるわたしとはだんだん意見が合わなくなっていった。わたしだって未来に目を向けたかったわ。だけど、どうしてもあきらめられなかったのよ。それが父親と母親のちがいなのかもしれない。わたしがダイバーになると告げた日、夫は去っていったわ。今は音信不通。印の押された離婚届けが郵送されてきて、それで終わりよ」

 しばしの沈黙のあと、紀崎は口を開いた。

「今のこと、れみるにも話しておいたほうがいいんじゃないか? 今度は八坂さんが邪魔されるかもしれない。事情を知れば、止めたりしないんじゃないか?」

 ゆいりはハッと顔をあげた。れみるは、なぜ紀崎の邪魔をしたのだろう。ホールに侵入するのが危険だから? そんな当たり前の理由だろうか。

「真実を知れば、きっと同情してくれるだろうさ」

 紀崎はそう言ったが、ゆいりは、れみるの行動がそれで変わるかどうか疑問に思った。確信はなかったが、ホールに飛び込もうとした紀崎を追いかけていったれみるの表情には、突発的な出来事に反応したのではなく、予定されたミッションを実行したような落ち着きが見えたような気がするのだ。

 過去にホールに遭遇したことは、数えるほど。そうそう頻繁には現れない。れみるに止められていなかったとしても、そう簡単には飛び込めない。きのうのように突風によって行く手を阻まれたり、ホールが短時間で消滅したり。

 今回のダイブ中に、またホールに遭遇する可能性はゼロに近いだろう。

 それはともかく、れみるに話す?

 自分の辛い過去を、年端もいかない子供に語ることに、ゆいりは抵抗があった。

 ゆいりは再び顔を膝にうずめた。会話はそれきり途絶えた。

 夜はまだ明けず、湿気た空気が室内に入り込んで、さらに温度が下がってきたようだった。



 夜明け前。

 空が急速に明るくなるころ、見張りにたっていた紀崎が戻ってきた。

 紀崎のたてる軍用ブーツのがさつな足音に、ゆいりとれみるはもそもそと起きあがる。

「おはよう」

 外に出て、冷えた空気を吸い込む。雨はやんでいた。朝陽が生駒山から顔を出し、山頂のテレビ送信アンテナがくっきりとシルエットを浮かび上がらせていた。

「あと、半日ね。がんばりましょう」

 クルマによる公害がなくなったおかげでずい分ときれいになった空気を味わって、ゆいりはことさら明るく振る舞う。

 昨夜の告白を聞いて、自分と同じ――いや、それ以上の苦しみを目の当たりにして、紀崎は複雑な気分だった。

「ああ」

 とうなずいて、

「今日は、どこへ行くんだ?」

 とはいえ、ダイバーになった人間は多かれ少なかれ事情があるものなのだ。そうでなければこんな孤独で危険な仕事を選ぼうはずがない。亜獣に喰われ、だれにも看取られず、一本の骨も拾ってもらえない最期を好んで望むものか。

「心斎橋方面」

 れみるが紀崎のすぐ傍らに歩みより、なにげに北を指さした。どうやら亜獣の気配を早くも感じるらしい。

「――だそうだ」

 紀崎はゆいりを振り向く。

 ゆいりはうなずく。

「きのうはあまり訓練にならなかったけど、きょうはがんばりましょう」

 とにかくオーパムの期待にこたえないと。成績が悪くてクビになったら、すべての希望が絶たれてしまう。

 今できることをやる。それでこそ巡ってきたチャンスをつかめるのだ。

 あきらめるわけにはいかない。

 御堂筋にでた。高島屋前から、一直線に梅田までつづくかつての大阪のメインストリート。

 まだ建っているビルからビルへと、軽業師のようにジャンプしながらわたっていく。千日前通りの上を走る阪神高速環状線の高架道路を横切り、穴のあいた独特のデザインのナンバヒップスの脇を通過した。

「待って!」

 ふいにれみるが立ち止まった。

 ゆいりと紀崎はたたらを踏んだ。

「どうした?」

 と紀崎が振り向く。とっさに自動小銃をかまえている。どうしたと聞いておきながら亜獣が出現したという以外になにがある?

「来る!」

 れみるが叫ぶ。

 同時に、目の前にそれが出現した。

 鳥とは明らかにシルエットの異なる、しかし翼を持った動物が、地上から急上昇してビルの屋上にいた三人の眼前に現れたのである。亜獣――!

 亜獣はさらに上昇した。上空から見下ろされた。

 紀崎は飛行亜獣に銃口を向ける。クレー射撃よりも仰角で構えるが。

「だめよ、紀崎くん!」

 戦闘では上にいるほうが有利なのは常識だった。

 高くジャンプすれば高さのハンデは解消できるだろうが、飛行形態の亜獣相手に空中戦は不利だ。運動能力に差がありすぎる。

 未知の亜獣ならなおのこと。その能力が不明ゆえ、はやまった戦いは避けるべきだ。

 しかし紀崎はいきおい銃撃をはじめた。だが、普段取らない姿勢での射撃では命中しない。しかも相手は動いている。

「地上で迎え撃つの! こっちの土俵でないと勝てない!」

 ことごとくはずれる銃弾。ゆいりの注意に、紀崎はいったん銃撃をあきらめる。

「どこへ行く?」

「アーケードの中へ」

 れみるがこたえ、先に地上へと降りていった。

 上空から見えにくい位置での戦闘に引きずり込めば、こちらにも勝機がある。

 ゆいりに続いて紀崎も降りた。

 心斎橋筋商店街――特に難波から心斎橋にかけては人通りの絶えない賑やかな通りだった。

 二十メートルほどの高さにかけられたアーケードに覆われた両側には商店だった建物が隙間なく並んでいた。陽の差さない店舗跡は、残された商品が乱雑に散らばっていたり、内装が破壊されていたりで、見るも無惨だ。

 三人は商品街の幅十五メートルほどの通路中央に立つ。ここなら飛行亜獣の突撃から身を守れる。

「亜獣が空を飛ぶなんて、聞いてないぞ」

 紀崎が毒づく。

「わたしも初めて見たわ。新種ね」

 ゆいりが今の亜獣の姿を思い返した。動きが速く、細部は判然としなかったが、鳥でないのは確かだった。足が六本だったような気がする。

「しまった」

 珍しくれみるが顔色をかえた。その理由は尋ねるまでもなかった。

 アーケードの下に、大きな影がうずくまっていたのがわかったからだ。

 五十メートルほど先で、大型オートバイほどの大きさの影がゆらりと動いた。どうやら人間の存在を確認したらしい。

 三人はいっせいに武器を構えた。

 大型亜獣が走りだした。アーケードの破れ目から差し込む日差しで亜獣の体が照らされる。

「あれは……」

「スフィンクスよ」

 眉をひそめる紀崎に、ゆいりが叫んだ。

 スフィンクスという呼び名を冠したその亜獣は、エジプトの石像に似ていなくもない。ただし、頭は人間というよりカメのような造形だった。体は獅子といっても差し支えないので、キメラの一種、スフィンクスという名はそれほど的外れともいえない。体色も、全身が褐色で、それもスフィンクスと呼ぶのに違和感がなかった。

 大地を踏みしめる頑丈そうな足を振り上げ、走り出した。足音を響かせてこちらへ向かってくる。

 三人がそれぞれ銃撃するも、亜獣の突進はくい止められない。

 十五メートルほどにまで接近を許し、危険を感じてゆいりは左に、紀崎は右へかわした。れみるはジャンプ。

 突風を残してすぐそばを通り過ぎていくスフィンクス。まるでスペインの闘牛だ。

 そこへ、さっきの鳥型亜獣がアーケードに入ってきた。三十メートルほど北を道路が横切って、アーケードが途切れている。そこから飛び込んできたのだ。

 ちょうど空中にいたれみるの正面につっこんでくる。獲物をねらう猛禽の動きは一直線だ。

 れみるはとっさにホール発生銃と音波銃を同時に向けた。が、引き金を引く前に接触した。鋭い爪がれみるの上着を切り裂いた。分厚いデニム生地が紙のように切られた。薄着だったら肉まで切られていたこところだ。

 落下するれみる。しかしダメージは軽く、地面に激突する前に猫のように体をひねって足から着地。が、勢いを殺せず前へつんのめった。アスファルトに手をついた拍子に銃が落ちた。さっと拾い上げて、亜獣の位置をたしかめようと背後を振り返る。

 飛行亜獣はアーケードのような狭い場所では旋回できず、外へ出ていくところだった。商店街を横切る道路から出て行く後ろ姿が建物の向こうへと消えていった。

 一方スフィンクスは五十メートルぐらいの南へ下ったところで反転しつつあった。クルマのように横道へバックで入り、方向転換した。

「れみるちゃん、大丈夫?」

 声をかけるゆいりに、れみるは立ち上がってうなずいた。

「また来るわ!」

「やつめ、さっきの銃撃がこたえてねぇようだぜ。もっと銃弾をたたきこんでやる」

 紀崎は自動小銃を構え、連射する。

 遠距離でも有効な紀崎の銃に対して、ゆいりはまだ撃てない。

 スフィンクスは銃弾を浴びながらも接近しつづけた。イノシシのような猪突猛進ぶりだ。

 紀崎が空になった弾倉を素早く交換したとき、ゆいりは電撃銃を放った。最大出力で。

 銃撃に加えて電撃も受け、ようやくスフィンクスの突進がにぶった。二十メートルほど手前の横道から逃げ去った。

「二人とも、こっちも!」

 れみるの声に振り向くと、さっきの飛行亜獣がぐるりと一周まわって再びアーケードへ入ってきていた。それをれみるのホール発生銃が空間に固定していた。翼幅二メートルはあろうかという亜獣が空中で静止している。コウモリか翼竜を思わせる羽毛のない翼を広げて、糸で吊るされた模型のように動かない。

「よし!」

 ゆいりと紀崎はいっせいに銃撃を開始した。制止した目標なら狙うのも容易だ。

 二秒とたたず飛行亜獣の体は粉砕された。体液と肉の破片が周囲に飛び散り、壮絶なジェノサイトとなった。

 二匹の亜獣を蹴散らしてなお警戒を解くことなく、三人は周囲に注意を払う。つかの間の静寂が商店街に戻った。

 ふう、と息を吐いて、それぞれ武器を下ろした。

「残弾数、六十――」

 リュックの中の予備弾倉を見もせず、紀崎は言った。無造作に撃っているように見えて、実はちゃんと消費した弾丸数を把握しているのだ。

「あと一回、大きな戦闘があったら、もう弾切れだ。やっぱ二十四時間はきついぜ」

 ゆいりは手首をあげてリストウオッチに目をやった。頑丈な軍用時計だ。紀崎も似たようなものを携帯しているだろう。

 タイムアップまであと二時間半。まだ訓練を続行する時間は十分にあるといえた。

 だが紀崎が弾切れで戦力にならなくなったら訓練に支障がでる。

 訓練を放棄するわけにはいかないし、かといって積極的に亜獣との戦闘をつづけていたら紀崎が弾切れを起こし、そうなったらタイムアップになる前にこちらの命が危うくなる。

「でも、戦うしかない」

 れみるが覚悟を求めるかのように宣言した。

 その様子に、どこかいいようのない雰囲気が漂い、沈黙が下りた。

「囲まれてる」

 と早口で、れみる。

 ここは難波地区。亜獣の巣窟といわれている。どこの地区よりも亜獣の密度が高い。さっきの戦闘ですむわけがない。

 ゆいりと紀崎は亜獣の気配を察知しようと耳をすませ、周囲に視線を走らせる。

 まだ姿は見えないが、それがかえって不気味だった。

「こっちへ」

 れみるが駆け出す。

 北へ。

 反対の南――難波方向を見ると、商店街と交差する道から進入してくるいくつもの黒い影が揺れ動いていた。亜獣だ。

「たしかに囲まれてるらしいな。相手をするには数が多いか」

 紀崎とゆいりは駆け出したれみるの後を追う。二人も駆け足で。

「勝算はある?」

 ゆいりは前を行くれみるに訊く。

 れみるは周りの気配に注意しつつ、こたえる。

「全部の亜獣は倒すのは無理。時間も弾薬も制限があるから」

「たしかに数が多そうだな」

 紀崎がつぶやく。

 しかし敵のおおよその数が、その気配や匂いからわかるれみるなら、対処方法が他の二人よりも確実だろう。

 前方からも亜獣が現れた。店舗からひょっこり顔を出してきたのは、サラマンダーだ。二メートルをこえる長い胴体に、鋭い鈎爪を持つ四肢。大きく開いた口から放たれた鳴き声は甲高く遠くまで届きそうだった。

「突破するよ」

 れみるはためらわない。

 ホール発生銃から放たれた灰色球が、勢いよく飛び出してきたサラマンダーを捕らえた。つづいて音波銃。

 ゆいりも電撃銃を撃った。

 紀崎は弾薬温存のため、発砲しない。

 重傷をうけてその場で動けなくなったサラマンダーの脇を通り過ぎ、包囲の外へ出ようと先を急ぐ。

 が――。

 前方、長堀通りから、湧き出してくるかのように亜獣が現れた。たちまち行く手をふさがれた。

「ちっ、赤ゾンビか!」

 紀崎が吐き棄てるように言った。

 直立二足歩行の人型に近いシルエットで、全体に赤みがかっているのでそう呼ばれている。もとはちがう呼称が付けられていたが、だれかに赤ゾンビと呼ばれて以来、いまひとつしっくりこなかった最初の呼び名に代わってダイバーたちの間で広まった。

「御堂筋に出ましょう」

 足を止めたれみるに向かって、ゆいりは提案した。

「いえ、こっちから行きましょう」

 れみるはさっと身を翻し、大丸心斎橋店のなかへと駆け込んでいった。

「でも脱出ポイントは心斎橋交差点付近なのよ」

「歩いては行けない。亜獣が多すぎて、回収時間まで保たないし」

 と、ゆいりを振り返って、れみる。

 電気が止まっているためビルの中は奥へ行くほど暗い。しかし、百貨店営業時にはふさがれていた窓がところどころ崩れ、外からの光が館内を浮かび上がらせ、決して闇ではなかった。

 それでも暗視ゴーグルを急いで装着した。少しでも見えにくい状況で、亜獣との戦闘は避けたい。

「早く、屋上へ」

 れみるが先導する。

 動いていないエスカレーターを駆け上がった。

 一匹の亜獣とはち合わせた。

 グレムリンの一種だった。背中を向けていた。

 先頭のれみるは音波銃を放つ。

 不意の銃撃に驚いて、苦しみながらその場から逃れようとする亜獣を追いかけることもなく、階上へ進む。

 屋上までやってきた。

 暗視ゴーグルを外す。

 建て替えられて高くなった元はそごう本店が北側に隣接してそびえている。

 大丸の屋上から望む御堂筋に、息をのんだ。

 おびただしい数の亜獣だった。

 種類もまちまちで――あちらこちらで喰ったり喰われたり、壮絶な様相を呈していた。

 この中へ飛び込んでいくのは、亜獣との闘いに慣れた身とはいってもためらいを感じずにはいられない。しかも手持ちの武器は心細い。紀崎の銃の残弾数がたよりないからといって、ゆいりやれみるの銃とてバッテリーがいつまでも使えるわけではないのだ。

 タイムリミットまであと一時間半。それまで連続で闘いつづけるのは不可能だ。訓練だから、亜獣との戦闘が目的ではあるといってもゲームではないのだから、無闇に戦っていては命がいくつ要ることになるやら。

「これからどうする?」

 紀崎がれみるに訊く。

「ここにしばらくとどまって、時間が来たら回収ポイントへ行こうと思う」

「屋上だからって、のんびり構えていられるとは思えんがな」

 御堂筋をはさんで向かい側に立つ白亜の日航ホテルや、派手な色合いの心斎橋OPAの壁面にも、イグアナのような亜獣がしがみついていた。

「そうね」

 ゆいりはうなずいた。「空飛ぶ亜獣もいたことだし」

 周囲の状況から、いつ亜獣が襲いかかってきてもおかしくない。

「とかなんとか言ってたら――。来たぞ」

 紀崎が銃をかまえた先は、細い道路をはさんですぐ隣に建つ大丸南館の屋上へつながる渡り廊下だった。そこに、大きな影が動いていた。ゆっくりと、こちらの様子をうかがっているような。

「赤ゾンビじゃない」

 ゆいりも電撃銃をかまえる。

 フルーティな香りが風に乗って鼻に届いた。

「ラフレシア……」

 と、音波銃をかまえて、れみる。

 南米原産の世界最大の花、ラフレシア。その名を冠された亜獣は、亜獣のなかでも最も特異な形状をもつ一種だった。巨大な花のような頭部の中心には口があり、発する強烈な甘い香りに誘われて近づいてきた生き物を食らった。しかも植物とはちがい、移動もでき、しなやかに動く蔓は能動的に獲物を捕らえた。

「腐肉の匂いがする本物のラフレシアのほうが、人を喰わない分、ずい分マシだぜ」

 紀崎が銃をかまえる。

 れみるが音波銃を撃った。

「早く撃って。でないと……」

「わかってる」

 紀崎、自動小銃を連射する。

 ラフレシアの匂いに誘われて、周囲の亜獣が集まってきてしまう。ぐずぐずしてはいられない。

 ゆいりも電撃銃を放った。

 いっせい攻撃を受けて、ラフレシアは粉々に砕け散った。しかしその匂いは消えず、体内に収まっていた成分がぶちまけられて、いっそう強烈に鼻をついた。これでは余計に亜獣をよせつけてしまう。

「燃やせない?」

 ゆいりが紀崎に訊いた。紀崎ならそんな道具でも持っていそうだったから。

「ならば――」

 紀崎は肩からリュックを下ろし、手をつっこんでまさぐる。

 引き抜いた手がつかんでいるものを見て、ゆいりは目を丸くした。

 手榴弾だった。投げやすい柄のついたタイプ。

「よくこんなもの持っているわね。戦争でもするつもり?」

 ゆいりは呆れた。

「非常用さ。オーパムに言えば、たいがいの武器は支給してくれる。欲しいと申し出たらF‐15戦闘機でもくれるんじゃないか?」

 半分は本気なのではないかと思える冗談を言うと、紀崎は手榴弾のピンを抜き、ラフレシアの残骸に向けて放り投げた。

「伏せろ!」

 三人はいっせいに床にはいつくばった。頭をかばう。

 ゆいりは、オーパムなら戦闘機はおろか核ミサイルがほしいと言えばくれるような気がした。もちろん強力な武器を携帯する以上、その使用には責任が伴う。エリア・オーサカの外で使おうものなら、たちまちオーパムによって拘束され、それなりのペナルティがかせられる。

 手榴弾が炸裂し、ラフレシアが炎上する。

「最初からこいつを使えばよかったな」

 黒煙がたち登り、起きあがったゆいりたちの鼻に、焦げ臭い匂いが届いた。

「間に合わなかったわね……」

 れみるが悔しげに言った。

 屋上を囲うフェンスを越えて、一匹の亜獣が顔を出していた。

 体長五十センチほどの比較的小型の亜獣、小鬼ゴブリンだ。体は小さいが、鋭い牙が上下に数本口からはみ出て、噛み付かれたら腕の一本は食いちぎられそうだった。

 ゆいりとれみるはそれぞれ銃撃開始。たちまち小鬼は駆逐されるが、べつのもう一匹這い登ってきた。さらにもう一匹。

 残弾数が気になる紀崎は援護の用意。さきほどのラフレシアで十数発を撃ち、これ以上の消耗は避けたかった。

 が、背後に気配を感じて振り向くと、何匹もの赤ゾンビが屋上へ通じる階段からやって来ようとしていた。大丸前で遭遇したやつらだ。かなりの数になる。

「くそっ。こっちからも来たぞ」

 自動小銃を単発モードにした。動きが鈍いため、よく狙い、一撃必殺で確実に倒していく。

 だが数匹をしとめたとき、薬室に弾丸が移動しなくなった。

「げっ、ジャムりやがった!」

 紀崎はあわてた。

 ボルトレバーを引くが、弾丸は排出されない。

「ちっ!」

 いつまでもやってはいられない。いさぎよくあきらめて銃を放り出すと、

「手榴弾を使うぞ」

 ゆいりとれみるに注意を呼びかけた。

 ちょうど小鬼を倒したところの二人は紀崎の声に振り向き、赤ゾンビの接近を知る。

「伏せろ」

 投げつけてから、太く逞しい腕で二人の細い肩を抱え込み、物陰へと飛び込んだ。

 爆発。飛び散った無数の鉄玉が赤ゾンビの体を貫き、さらに屋上への出入口も破壊した。

 紀崎はすかさず物陰から出て戦果を確認。すべての赤ゾンビが床にのびていた。体のあちこちを欠損し、骨や内臓がどす黒い体液にまみれていた。直視に耐えない凄惨な現場だ。あちこちが燃えて炎がゆれていた。

「銃は?」

 ゆいりは、紀崎が銃を携帯していないことに気づいた。

「もう使えない」

 あとはリュックに残る手榴弾のみ。しかもあと一つ。もともと念のためにと三つしか持ってきていなかった。これではもはや戦えなかった。

「これ、使って」

 ゆいりは自分の電撃銃を差し出した。

 紀崎は当惑する。

「しかし、八坂さんは――」

「わたしにはこれがある」

 腰にはいた太刀の柄を握ってみせた。鞘に収まった長さニ尺のオーパム製の剣、斬妖丸がジーンズの手製ホルダーに刺さっている。

「銃は撃てても、紀崎くんにこれは使えないでしょ」

「うっ…………」

 ずばりと指摘されて返す言葉がない。

「まだバッテリーは残っているから、大丈夫よ」

「あと十五分でゲートが開くわ」

 励ますようにれみるが言った。

 紀崎は受け取った電撃銃を調べ、すぐに機能を理解した。

「上手く撃てるかどうかわからんが、あと十五分、飛び道具を持ってる以上、おれが亜獣を蹴散らしてやるぜ」

 と、おどけた調子で言う。

「頼もしいナイトってところね」

 実際、射撃なら紀崎のほうが確かだろうとゆいりは思っていた。

 匂いに引き寄せられて、亜獣は次々と現れる。倒しても倒してもやってきて、そのうち屋上は亜獣の死骸でうめつくされてしまうだろう。すでにラフレシアのほか、赤ゾンビや小鬼の体液の匂いが立ちこめ混ざり合って、呼吸したくないほどだ。

「ゲートが開くわ」

 れみるが指さす先――心斎橋交差点の中央、いつのまにか地面に黒いシミが出現していた。まだ小さく、交差点内にうごめく亜獣にまぎれて見分けにくかった。直径三メートルほどの大きさ。だが次第にそれが成長していき、二十メートルほどにまで大きくなるはずだった。

「よし、行こう」

 ゴールが近いとわかって、紀崎は元気を取り戻した。

 ゆいりとれみるもうなずいた。

 屋上へ這い上がってきた亜獣をジャンプしてかわし、御堂筋へと飛び降りる。八階から壁面の凹凸をステップにして一気に地上まで至る。

 飛び降りながら、紀崎は最後の手榴弾を道路の真ん中に向けて投げつけた。のそのそと動いていた体長二メートルほどの亜獣に直撃して、爆発。粉々に飛び散った亜獣を飛び越えて、三人は着地する。

 電撃銃を連射して、手あたり次第に亜獣を退けつつ、交差点のゲートへ突き進む。

 ゲートが出現したことで亜獣の行動に変化が生じた。ゲートから離れようとしだしたのだ。亜獣にとってはゲートもホールも、異界への通路という点では同じなのだろう。

 当然、ゲートへ向かおうとしているゆいりたちと衝突する。

 先頭に紀崎、次にれみる、最後に抜き身を握ったゆいりがつづいた。ゆいりは、今のところは紀崎が頑張っているが、いよいよとなったら参戦する気だった。

 脱出口まであとわずかだ。ここを突破すれば今回の訓練は完遂なのだ。

 紀崎は、初めて使うとは思えないほどの銃さばきで、立ちはだかる亜獣を一匹、また一匹としとめていく。

 射撃に関してゆいりの想像は当たっていた。電撃銃を紀崎に預けたのは正解だった。

「ゴーレム!」

 紀崎がその名を叫んでいた。

 見ると、牛ほどの大型亜獣が重そうに歩んでいた。写真でしか見たことはなかったが、たしかにあれはゴーレムだ。岩のような表皮が特徴の大型亜獣。こいつもゲートから逃れようとしているのだ。動きが遅く、ゲートの手前で道を塞ぐ格好になっていた。

「ラスボス登場ってやつね」

「こいつはゲームじゃないぜ」

 紀崎は電撃銃のバッテリーをとりかえる。戸惑うことなく、手探りで交換したのはさすがである。

「これで終わりだ」

 電撃銃を連続でたたき込んだ。轟音とともに雷光がゴーレムを撃つ。だが堅い鎧のような皮膚に弾かれて穴もあかない。

 紀崎は射撃を中止した。

「なんてやつだ。全然きかない」

 れみるが前へ出て音波銃を撃ったが、すぐに効果は見込めない。

 ゴーレムはもう目の前。だがまだ倒れない。

「任せて」

 斬妖丸の柄を両手でしっかり握りしめ、ゆいりが前へ出た。

「危ないぞ!」

 音波銃が効いて、ゴーレムは不快感に暴れ出した。やがて激痛が襲えば、激しく暴れ狂うだろう。そこへ太刀一振りのゆいりが飛び込もうとしているのだ。紀崎が叫ぶのも無理ないが、ゆいりはそれを黙殺し、ゴーレムの鎧のような堅い皮膚の継ぎ目に剣先を立てた。

 丸太のような脚がゆいりを払いのけようとする。それが体を直撃する寸前まで、ゴーレムの体に刀を深く突き入れると、柄に体重を預けてひらりとジャンプして一撃をかわした。

 剣先がゴーレム体内のどこまで到達して内部組織にダメージを与えたのかはよくわからなかったが、ゴーレムは大きく咆哮し横倒しになった。

 大量の体液が口から流れ出した。やっと音波銃が内臓を破壊したのだ。

 動かなくなったゴーレムの側に、ゆいりは着地する。

「無茶するぜ」

 紀崎は呆れた。

「でも、音波銃だけじゃ倒せなかった」

 ゆいりは刀身の半分以上が突き刺さった斬妖丸を、力をこめて引き抜いた。ぐじゅ、と肉を切る音とともに傷口から体液が吹き出した。

「わたしが行かなきゃ三人ともやられていた」

「かもな」

 紀崎は肩をすくめ、ゆいりに歩み寄ると電撃銃を返した。先端の電極部が若干焦げていた。

 ゆいりは刀を振って雫を払うとそのまま鞘に収め、受け取った電撃銃をブルゾン内側のホルスターにつっこんだ。

 横たわるゴーレムの向こうに、直径が二十メートルほどにまで成長したゲートが交差点のほぼ中央、アスファルト上に大きく口を広げていた。

「もうすぐ十時。時間どおりよ」

 れみるが時計を見て、告げた。

「今度は最後までいられたわね」

「ほんじゃ、帰るか」

 紀崎が促した。

 黒々とした闇色のゲートの縁をのぞむと、三人はそこへ飛び降りた。

 ミッション完了。エリア・オーサカを脱した。



   ***


 オーパム人にとっての話していい事と話してはならない事の違いは、地球人にはわかりづらかった。

 職業がら、比較的オーパム人と接触の多い人でもそうだった。オーパムが地球に与える影響の大きさを考えると、うかつに深入りするのも避けたいという心理がはたらいて、全人類が慎重に対していた。

 もちろん一部にはそうした態度に反発してオーパムに意見する者も多かったが、オーパムは黙殺した。

 人間相手ではないため、マスコミもどう対処していいか困り、結局、あまり首をつっこまない姿勢に落ち着いていた。

 日本政府としても、オーパムは特例法の定めるところで保護されており、というか、そういう態度にならざるをえず、強くは主張できなかった。

 ペリーの黒船来航のときではないが、上を下への大騒ぎの末、落ち着くところに落ち着いたというわけだった。その結果、国民は、オーパム人に対して抱く感情をより複雑にした。


 また来ると言い残して去ったが、本当にまた来るのだろうかと、半分疑っていた。オーパム人の言うことがアテにならないというのではなく、単に大阪にごまんとある喫茶店の中で、わざわざうちを選ぶ理由に見当がつかなかったのだ。

 あの日の異様な雰囲気を、ただの夢だったと思い込むには惜しかった。

 だから数日後、本当にやってきたときは諸手をあげて歓迎した。

「お待ちしてましたよ!」

 時刻は午後三時――。

 外回りのビジネスマンらが休憩に立ち寄って、店内は半分ほどの混み具合だった。

 突然の珍客に店内が静まり返った。有線放送の静かな音楽が急に大きく聞こえるようになった。

 オーパム人は、周囲からの視線を一身にあびながらカウンター席へと、当たり前のようにすわった。

「しばらく来られずに失礼した」

「いえいえ、そのときは貴重な経験をさせてもらいましたよ」

「ほう……、というと?」

「オーパム人はあまり街を歩きませんからね。ご注文は?」

「今日はエスプレッソにしよう」

「エスプレッソ。豆はどんなんにしましょう」

「そうだな……イタリアンロースト」

「はい……よろしですよ。しばらくお待ちください」

 私は、他の客が日常に戻ろうと無関心を装ったり、好奇な目でヒソヒソ話を始めるのを見て、少し自慢気だった。

 商売がらいろんな人と話す機会がある――なかには芸能人やスポーツ選手などの有名人もいた――が、宇宙人の客が来るなんてそうそうあるもんじゃない。

 いつもより気合いを入れてエスプレッソマシンを操作した。

 湯気のたつデミタスカップをソーサに置き、

「おまたせしました」

 オーパム人はカップを取ると、しばらく香りをたしかめ、濃くて苦い液体を一口ふくむ。

 オーパム人の表情に変化はない。

「エスプレッソは初めてですか?」

「ここで飲むのはね」

「オーパムには、嗜好品ってあるんですか?」

 このオーパム人が、文化交流の意味を理解しているらしいのはわかったが、それはあくまでオーパム側が吸収する一方通行なのだ。積極的に自らの文化を公開することはなかった。

「われわれにも高度な文化がある」

 とオーパム人は言った。

「地球のコーヒーのように、命を維持するために必要なくても、楽しみのためだけに摂取する飲物や食べ物は、地球より種類が多いだろう」

「地球人にも飲めますのん?」

「地球人にとって毒になるものもあるだろう。われわれがべつの星へ赴くとき、個人の所有物を持ち込む制限があって、あなたに見せることはできないが」

「そうですかぁ」

 貴重な証言だ。オーパムには「個」という概念が希薄で、全体としての思考しか見えてこなかったから、こういう個人的な意見を聞けるのは珍しい。

「私は、地球へ来る前はべつの星にいた。そしてその前はべつの星、という具合に星から星へと赴任してきた。私のホームはタチャームの船団そのものだ。だからいろんな星でいろんな文化に触れてきた。地球でも居酒屋や温泉にも行った。だからプロ野球の話もできる」

「ほう……」

 私はこのオーパム人に非常な興味を覚えた。集団としてのオーパム人ではなく、ここにすわる個人としてのオーパム人が、実にリアルな存在として感じられるのだった。

 にしても、温泉だって?

 湯につかりにきた全裸のオーパム人を目にした湯治客の驚きは相当なものだったに違いないと私は想像した。他の客はいっせいに湯から出て行ったかもしれないが、それをオーパム人が気にするとも思えなかった。

「コーヒーとよく似た飲物がオーパムにもある。ベレトーリといって、独特の香りに愛好者も多い。味も深みがあって、しかしコーヒーとは色も味も違う」

「それはぜひ味わってみたいものですね」

「残念だが地球人になにかの物品を提供することはできない。すまない」

「オーパムの高度な技術で日本――いや、世界は変わりました。嗜好品ぐらい、かまへんと思いますがね」

「オーパムが情報開示をすすんで行わない理由はそこにある。われわれは地球を征服したいわけではない。対等な交渉でさまざまなことをすすめるには、情報統制が欠かせないのだ」

「対等ね……」

 オーパムがもたらした技術は、工学、経済学、法学、医学と広い分野にわたり、たとえば経済に数学の論理を取り入れることは二十世紀から盛んに行われてきたが、オーパムがそれを大きく発展させた結果、金の流れが激変し、破綻寸前だった国家財政がまたたくまに改善した。そんな相手と対等なんて考えられない。オーパムのほうが圧倒的に有利だ。

 オーパムの理屈はよくわからない。

「地球の文明がすすめば、オーパムの母星へと行けるだろう。そうなれば驚くべき文化を知るだろう。ベレトーリもたらふく味わえる」

「それはいつごろになりそうですか?」

「それはわからない。地球人次第だ」

「私が生きている間には、無理かもしれまへんな」

「いや、そうでもないだろう。もしオーパム母星へ来ることがあったら、ぜひ家に来るといい。そのときには、私も遠征の任を解かれて、オーパム母星に家をもっているだろうから」

「そのときは、必ずうかがわさしてもらいますわ」

 愛想でそう言った。それが実現するとはぜんぜん思ってはいなかった。

「ご家族はいらっしゃるんで?」

「地球人のファミリーとは少し違うが、オーパムにも家族と呼ぶべき集団が存在している。そして私にも家族はある。私が持ち帰った異星の文化により、私の家族は他の家族よりよりすすんだ文化を享受していることだろう。ベレトーリよりも刺激的な飲物を出せるかもしれない」

「お手やわらかに願います。よければ、事前に今はどんな文化があるのか教えてもらえますか?」

「いいでしょう。少し、お話ししましょう」

 オーパム人は快く承知した。こうして半時間ほど私はオーパムの「文化」というものについて聞いた。わずかな時間だったので断片的にではあったが、興味深い、そして新鮮味のある話を聞けた。

 帰り際、また来るといって去っていったが、次に来る日が楽しみでしかたなかった。

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