第4章『難波』
ノックの音に「どうぞ」と反射的に返事をしたものの、誰が来たのか予想していなかった。というより、そもそも誰かが訪ねてくることなどないから、入室してきたのが誰か知って紀崎豪は目を丸くした。
「八坂さん……!」
「元気そうね」
と八坂ゆいりは微笑んだ。
真っ白で清潔そうな病室をぐるりと見回し、ゆいりは枕元へ歩みよる。
「どうしてここへ?」
紀崎はベッドから半身を起こした。驚きを隠そうともしなかった。
「来てはいけなかった?」
「無様な姿を見られるのは屈辱だ。いや、退屈していたところだ。話し相手がいるのはありがたい」
「ネットや本は?」
「あれはくたびれる。長時間やるもんじゃない」
「もうすぐ退院できるんでしょ?」
「ああ。昨日入院して、明日が退院予定だ。骨折が三日で完治だとよ」
亜獣に締め付けられて、肋骨が十二か所で折れていた。
エリア・オーサカを脱した直後にオーパムのタチャームに回収され、紀崎だけそのまま病院へ直行と相成った。怪我はもちろんだが、ついでに全身を調べられ、血液中の中性脂肪が多いからと、それも治療された。全治三日。
「見舞いのために、わざわざ来たわけじゃないだろう?」
ゆいりはパイプ椅子を引き寄せ腰をおろしてうなずく。
「たぶん、オーパムはまた近いうちに訓練ダイブを指示してくると思う。お互いの連携がちゃんとできてないと今度こそ命にかかわる」
「それで、方針を決めようと?」
「作戦というほど大げさなものじゃないけど、役割分担は、それぞれが扱える武器によって決めたほうがいいと思うの」
ふむ、と紀崎は決まりが悪そうにうなずいた。ゆいりとれみるの手は借りないと啖呵をきっただけに、耳が痛くもあった。
「それなら、れみる《あのこ》もいっしょに話をしたほうがいいんじゃないか」
ゆいりは肩をすくめた。
「居所がわからないのよ」
紀崎が搬送された病院ならわかったが、ダイバーの個人宅はオーパムからは聞き出せなかった。個人情報だという理由なのかどうかわからないが、とにかく秘匿されていた。
「それにあの子――れみるちゃんは、なんか普通の子とは違うと思う」
「そりゃそうだろう、普通の子供がダイバーになんかになれるものか」
「というより、わたしたちにはない特殊能力があると思うの。亜獣を探知したり、ゲートを出現させたり」
「ゲートを出現させる? あのゲートはたまたまあそこに開いたわけじゃないのか?」
「偶然にしては不自然だとは思わない? あのタイミングといいあの大きさといい」
ううむ、と紀崎はあごをさすりながらうなった。が、すぐに顔をあげ、
「しかしそれだけでは状況証拠ともいえまい。しかし仮に神田れみるが普通でないとして、それがなにか問題か?」
「いや……」
問題、というわけではない。ただ、なにか我々の知らないことがあるのではないか――。
「自由にゲートを開けることができたとしたら、むしろ大助かりじゃないか。どんなピンチに陥っても、いつでも脱出できる。ま、人間にそんなことができるなんて、おれは信じられねぇな」
常識ならあり得そうにない。人間なら。でも人間でなかったら?
ゆいりは自分で思いついたその考えに、軽い悪寒を覚えた。
紀崎がみずから語ったように、異世界の人間がいるのだから、人間でない者がいても不思議でない気がした。
しかし……。
「ま、とにかく、だ」
紀崎は話を元へ戻した。
「訓練の前に、打ち合わせをするのは必要だろう。役割分担を決めるだけでも有効だ」
真摯な態度だった。前回のダイブが教訓になっていた。
ゆいりはうなずいた。
難波地区――。
大阪を代表する大商業地域である。エリア・オーサカとなる前は、何本もの鉄道が乗り入れ、人出の絶えない賑やかさを誇って全国的にもよく知られ、今もその当時の面影を残す建物が数多く存在している。
エリア・オーサカにあって、しかしそこはダイバーが近づかない場所となっていた。危険度の高い亜獣が多く、過去に何人ものダイバーがそこで命を落としており、オーパムは有効な対策ができるまでそこへのダイバーの派遣をとりやめていた。
そんな地域で、ゆいりたちに訓練せよ、というのだ。
三人を前にオーパムの担当官が説明を始めた。
「新たな武器を支給した。これでもって訓練をせよ」
「ちょっと待った」
紀崎がさえぎった。
「難波は危険地域だと聞いている。大丈夫なのか?」
前回と違い慎重になっていた。紀崎にとって南港でのダイブはこれまでになくハードだった。
「訓練のためには、亜獣が強いほうが望ましい。それのため、強力な武器も用意した。使いこなせるよう、努力したまえ」
「はんっ」
いつもながらの突き放すような担当官の口調に、紀崎は呆れてそれ以上意見を言う気を失くした。
代わりにゆいりが訊いた。
「初めて触る武器になるわけだけど、それ以外にこれまで使っていた武器の携帯もいいわけ?」
「重量制限の範囲内なら問題ない。好きなだけ持っていくがよい」
「武器の諸性能の説明の前に、もうひとつ確認したいことがあるの」
「なにか?」
「ダイブまでに少し時間が欲しい。その間に、三人で訓練の打ち合わせをしたいから」
担当官は考えている様子で、しばし黙り、
「よろしい。どれだけの時間が必要か?」
「二週間ほど」
「了承した。改めてダイブの日時を知らせることにする」
担当官はテーブルの上に並べられた武器を手に取る。
「では、武器の説明を始める」
担当官はテーブルの上に置かれた一番大きな銃を手に取った。
「これは電磁ライフルである。火薬ではなく電磁的に弾体を発射するので、実砲による誤差なく命中する。衝撃も音もしない。銃身が熱くならないから、連続使用時間に制限はない。通常の自動小銃と扱い方は同じように設計されている。電池は実砲側に火薬の代わりに入れてあり、バッテリー切れの心配もない。これは紀崎豪が使うがよいだろう」
担当官が銃をおく。ゴトリ、とテーブルに傷がつきそうな重い音がした。
紀崎はそれを取り上げる。じっくりと、黒光りするフォルムを嘗めるように見て、ふうん、とうなずくとテーブルに戻した。
次に担当官が取り上げたのは、ゆいりにはお馴染みの品だった。
「この電撃銃は、従来のものの改良型だ。チャージ時間は〇・三秒で、連続発射が可能となっている。バッテリーも、従来のものより二〇パーセントアップしている。これは、八坂ゆいり用だ。そして――」
最後に手に取った小型の銃が、自動的にれみるのものとなる。
「神田れみるには、この銃を支給する。音波銃では多数の亜獣に包囲されても対応できない。これは殺傷能力はないが、マイクロホールを発生させて亜獣の動きを封じることができる。亜獣の体の一部分をホールに吸い込んで、動けなくするのだ。極小規模とはいえ、ホールの発生にはエネルギーを要するので、長時間は使えない。従来の音波銃と併用するのがいいだろう」
れみるは黙ってそれを受け取った。なにに使うものか判らないかのように、珍しそうに眺めている。
ゆいりは、ふと、病室での紀崎との会話を思い出した。
――神田れみるは、いったい何者なのだろうか。
れみるも、紀崎と同様、別の世界から来た人間なのだろうか。外見からではなにもわからない。亜獣の気配や匂いに敏感というだけでは、確かに特殊な能力ではあるだろうが、それがあるからといって、別の世界の人間だとは断定できない。
だがまぁ、とゆいりは考え直した。本人に聞くのが一番手っとり早いし、そのうちそんな話をする機会もあるだろう。
「試射は、オーパムの射的場を使うがよい。それから、シミュレーション・ソフトも提供しよう。携帯電話でも使えるから訓練に役立てよ。以上。解散」
ゆいりは、物思いにふけっていたせいで、あやうく担当官の言葉を聞き逃すところだった。
大阪市の中心部を南北に走るメインストリート、御堂筋。
その南の端に近い、道頓堀川にかかる橋の上に、三人はいた。
「ここへ出たか――」
周囲を見回し、紀崎はつぶやくように言った。
北に延びる御堂筋には、道路に面したビルが、どういう力がかかったか、真ん中辺りでぽっきり折れて、道路側に倒れて見通しを悪くしていた。大地震が起きてもこうはなるまい。
橋の上から道頓堀川を見る。ミナミ、といえば昔から思い出される、その場所だった。しかし人通りはなく寂しい限りだ。
グリコの巨大看板が、そのままストンと落下して川に膝まで沈んでいた。その他にも川にはいろんなものが落ちていた。ドン・キホーテの観覧車からはずれたゴンドラや、ビルの窓枠やら、汚いと言われ続けていた昔――エリア・オーサカ出現以前――よりもゴミが多かった。
紀崎は、ゴホンとわざとらしい咳払いをすると、
「さ、行くか」
歩き始める。
紀崎は前回と同様、コマンダースタイル。
装備も前回と同じ重装備だが、前回より気合いが入っていた。今度失敗したら亜獣の餌食にされる、そんな危機感があるせいだろう。
ゆいりはれみるに話しかける。
「亜獣は近くにいる?」
れみるはうなずいた。
「たくさんいる」
れみるの服装も前回と同じだった。デニムの上下。おしゃれをしたがる年頃だが、あまりそんな様子はなさそう。しかし多少は意識したのかブローチをつけていた。安っぽい、おもちゃのようなものだ。ダイバーなのだから、多額の報酬(そういえば、れみるはもらった大金をどうしているのだろう)に見合うアクセサリーも買えるだろうに、子供とはいえ色気がなさすぎる。
色気がないといえば、ゆいりも他人のことを言えたものではなかった。ブルゾンこそ前回と違うが、他は同じ。服装を選ぶ基準は気温と天気だけだったから。それに第一、ここでは動きやすい、スポーティな服装にならざるを得ない。
時刻は午前十時。訓練時間は前回と同じ二十四時間である。
「今度はへまをやらないようにしましょう」
不安を吹き飛ばそうと、ゆいりは努めて明るく言った。
直前まで予備訓練を行なっていた。それぞれ初めて使う武器ということもあり、射撃練習場で試射したり、コンピュータ上の仮想空間でのシミュレーションを繰り返したりした。
しかし実地訓練は思うようにはいかなかった。運動能力が飛躍的に向上するエリア・オーサカ内とそれ以外の通常の物理空間とでは同じようにもいかず、コンピュータでのシミュレーションの結果を検証することはできなかった。
準備と称して確保していた日数は、思うほどに成果を得られないまま消費されていった。
危険だときいていた難波を前に、十分とはいえない準備しかできず、こうなったら気を引き締めていかなければならない状況だった。
三人は高島屋の前まで来た。静かだった。
昭和初期に建てられたコリント式建築の七階建ては、ひび割れに覆われて今にも崩れてしまいそうだった。
向かい側のマルイには真ん中に大きな穴がぽっかりと口を開けていた。直径は十五メートルほど。おそらくホールの跡だろう。ゲートとは違う、別の世界との出入口。ホールから発生した衝撃波かなにかによって、高島屋の壁面が破損したのだろうか。
「いないぞ」
紀崎は周囲をキョロキョロと見回す。
たくさんいる、とれみるは言ったが、辺りは物音ひとつしない。
空は珍しく快晴で、春の日差しが暖かだ。ここがエリア・オーサカでなかったら昼寝のひとつでもしたいところだ。
「建物の内部にいるのか?」
「それとも地下に……」
「いきなり地下はやばいだろ」
ゆいりの言った一言に、紀崎はマジに反応した。
その様子がおかしくて、ゆいりは思わず口の端を歪めた。
「そうね」
最初から、動きにくく暗い地下での戦闘はゆいりも避けたかった。できれば見通しのいい、広い場所で。
「時間はたっぷりある。まずはどこかに陣を張ろうぜ。焦ることはない。たしか、そんな話もしてただろ」
「陣を張るなら戦場を見渡せる高台、よね。どこがいいかしら」
「なんばパークス」
れみるが提案した。
ゆいりはうなずいた。
「いい場所ね。一応、そこにしましょう。紀崎くんもいい?」
「おれはこの地域はよくわからん。まかせる」
紀崎はぶっきらぼうに言った。
高島屋の西側を回ってなんばパークスへ移動する。阪神高速の高架道路が南北に走って、行く道に影を落としていた。百メートルほど進んだ交差点の向こうに、カフェオレ色の巨大建築物が現れた。
九階建ての本館は階段状になっており、段々畑を思わせる植え込みがちょっとした公園のように休憩場所を提供していた。
そして、建物の中央が渓谷のように上から下まで切り取られて建物を東西に分割していた。グランドキャオンを連想させる地層のような縞模様が意匠されていた。
何度かジャンプして、最上階の屋上に辿りつく。途中の階に見えた植え込みの緑は、世話をする者もなく、悲しげに枯れていたり逞しい雑草が伸びていたり。
屋上には、何のためのものか、UFOを思わせる凸レンズ型のスクリーンが下を向いていた。
振り返ると、スイスホテル南海大阪が堂々とそびえ建っているが、途中の階から上が消失している。巨大な刃物で切られたかのように一直線の断面をさらして。
南海電鉄・難波駅の駅舎の上は駐車場になっていて、置き去りにされたクルマが何台もあった。
西側のパークスビルとタワーマンションも、スイスホテル同様、途中階で切断されていた。切断された上層部分はどこへ消えてしまったのか、周囲を見回してもそれらしき残骸はなかった。
「風が強いわね」
「屋外にキャンプを張る気じゃないだろう。とりあえず中へ入ろうぜ」
紀崎が八階の出入口を親指で示す。
「そこに亜獣はいないわ」
訊かれる前にれみるはこたえた。
「決まりだ」
紀崎はさっさと歩き出す。二人がそれにつづいた。
ガラスドアは壊れておらず、開けて中に入ると空気の質が違っていた。風が通らないだけでこうも違うのかと思うほど建材の匂いが強かった。
ドアだけでなく、庭園に面した壁面のほとんどはガラス張りだった。割れていてもおかしくなかったが、奇跡的に一枚も割れていなかった。冷たい風も入り込まず、明るかった。
電気がきていないから当然照明はない。外光のささない階下には、闇が待っているだろう。
紀崎は大きなリュックを床に下ろした。中身はほとんど実砲だった。かなり重さがある。
「よくそんな武器を使う気になるわね」
ゆいりは、自分のものと比べて大げさな装備に理解が及ばなかった。
「こいつは狙いがつけやすいんだ。射程距離も長い。百メートル先の的を撃ち抜くのは、そんな電撃銃では無理だろう」
たしかに武器の性能については紀崎の言うとおりなのだが、ゆいりは別に理由があるのだろうと想像した。思うに、単純にアサルトライフルが好きなのだ。コマンドーのファッションにこだわるミリタリーオタクだ。実砲の重さも、そのオタクアイテム一部というわけである。
ゆいりは、ダイバーとしての仕事を、効率化だけを考えずむしろ楽しんでいる風のある紀崎が、前回ダイブしたときにゆいりに語った「異世界への帰還」を、本当に願っているのだろうかと、少し疑った。
「亜獣がいるわ。すぐ近く」
キャンプを出て、見晴らしのいい屋上庭園で四方に目を配っていると、れみるが最初に亜獣を察知した。
「どこだ?」
紀崎が訊くと、あっちとれみるが指さす。
そこは、なんばパークスの南側に隣接するヤマダ電機の大きな駐車場だった。ゆいりと紀崎が移動して、屋上より見下ろせば、何台か放置されたクルマの間に亜獣が視認できた。が、大きさはそれほどでもない。
「小物だな。ケルベロスか」
「でも五匹ほどいるわ」
素早く数えて、ゆいり。
神話のケルベロスは頭が三つあるが、亜獣のケルベロスは一つだった。足は六本で、爬虫類のようにウロコで全身を覆われ、とても犬には見えなかったが、群れで行動する特徴故、その名がつけられていた。戦いでは必ず数頭を相手にすることになった。
「しかし訓練にはならんだろう。あんな雑魚、弾丸がもったいない」
二人が言い合っていると、れみるがすとんと飛び降りた。九階から。
あっと言う間もなかった。
高さに対する恐怖もなく、くるりと宙返りして、平然と着地した。
「あいつめ、勝手に動くじゃねえよ」
紀崎は毒づいた。
ケルベロスがれみるに攻撃してくる前に、ゆいりも飛び降りた。駐車場へ降り立つと、ヤマダ電機の建物壁面の巨大広告はエリア・オーサカ以前のままに残っているのが見えた。
新しく支給された武器を試すにはちょうどいい相手だ、とれみるは判断したのだろう。ホール発生銃と、以前から使っていた音波銃とを上手く使いこなせるかどうか――。
シェパード犬ぐらいの大きさの亜獣・ケルベロスが五匹、れみるに向かって牙をむいた。すかさずホール発生銃を向けた。
地上へ降り立ったゆいりは、三十メートルほど離れた位置からその様子を見守る。危なくなったらすぐに援護できるよう、ホルスターから電撃銃・改を抜く。れみると違ってゆいりに与えられた銃器は、改良されたとはいえ手に馴染んだものだったから、使用するのにあまり心配していなかった。
ホール発生銃から、バレーボール大の灰色の球体が発射された。その球体はガスのように表面が薄ぼけており、しかしガスのようにゆっくりではなく目にも止まらないほどの高速で、目標――ケルベロスに到達した。灰色の球体――マイクロホールは、今まさに飛びかかろうとしていたケルベロスを五匹とも包み込み、まるでその場に縫い付けられたかのように動けなくした。思いどおりに体が動かず咆哮する亜獣。その声は、脳ミソにへばりつくような不快さを伴っていた。
れみるは音波銃を取り出す。さすがにこちらは慣れていた。片手でさっとセーフティをはずすと、動けない標的に向けてためらいなく引き金を引いた。
問題なくやるじゃん。そう思ったゆいりは背後に気配を感じて、素早く振り返ると同時に電撃銃を突き出した。
こっちにもケルベロスがいた。距離はわずか十メートル足らず。
電撃銃・改が轟音を発した。
亜獣の頭部が吹き飛んだ。
――なにっ?
ゆいりは瞠目した。出力目盛りはいつも「中」にしていたから、以前の電撃銃ではこれほどの破壊力はなかった。
血だまりの中に沈んでぴくぴくと痙攣しているケルベロスを見つつ、なんと残酷な銃だろうと思った。間違って人間を撃ってしまったら即死だ。もっともそれは、どの武器に対してもいえることで、チームで戦うときには常に気をつけていなくてはならないことだった。ゆいりは今さらながら、それを痛感した。
れみるが戦闘を終了していた。戦い、というより、一方的な虐殺といったほうが正しいだろう。五匹のケルベロスは血を吐いてその場にくずおれ、絶命していた。
「どうだった?」
ゆいりは訊いた。
「銃を取り替えるときに少し手間取った。左手も使ってみるかな」
れみるの感想に、ゆいりは苦笑した。
「二刀流? 宮本武蔵ね」
「二刀流というより、銃だから二挺拳銃だね」
「あっちを見ろ!」
突然、叫び声が降ってきた。まだなんばパークスの九階にいた紀崎だ。ゆいりとれみるに呼びかけた声は、騒音のないビル街にこだまして何度も耳に届いた。
「亜獣だっ!」
紀崎の指さす方向(南)を向くが、そちらは住宅展示場になっており、亜獣らしき影は確認できない。
しかし上からでは近づきつつある巨大な亜獣が見えているのだ。
「紀崎くん、何匹いるの?!」
ゆいりは上空に向かって声を張り上げた。
「一匹だ。でかい。ゾウほどある。初めて見る種類だ。金属みたいに光ってる」
サイクロプスか――!
ゆいりは察した。梅田の地下で遭遇した亜獣。暗視ゴーグルごしでしか見ていなかったから、細部はもちろん全体のイメージすら定かではなかったが、やつに間違いない、そう確信した。
きっと、さっきの戦闘での音を聞きつけて、獲物がいると思ったのだろう。
「ゆいりさんの見た亜獣?」
れみるがゆいりを見上げて訊いた。
「たぶん」
と、短くこたえ、
「ホール発生銃で足止めして。その間、電撃銃でやっつけるわ」
「電撃銃だけで大丈夫?」
れみるに心配されて、ゆいりも少し不安になった。電撃銃・改の威力はさっき知ったばかりだったが、それでもあの亜獣に対しても有効かどうかはわからない。だからこそオーパムはチームを組んで当たるようにと指導した。独りでは倒せない、と。
「あいつは図体がでかいわりにすばしこいの。ホール発生銃で動きを封じようとしても捕捉できないかもしれない」
「シミュレーションを試す?」
れみるの提案にゆいりはうなずき、もう一度屋上を仰ぎ見て、
「紀崎くん! あの亜獣を狙撃して。怪我をさせて動けなくするのよ」
「オーケーだ」
すぐに返事があった。
紀崎はコンピュータによるシミュレーションを思い出し、ゆいりの意図を理解した。
いよいよ実戦で新型ライフルが試される。試射は行なっていたから、その感覚は知っていた。
火薬の爆発によるエネルギーではなく電磁作用で弾丸を発射するレールガン方式だから、銃声もせず発砲時の反動もない。最初はなんだか頼りなかった。今でもそう感じるのだが、命中精度は確かに高く、連続使用による過熱もなかったから、慣れれば使いやすい銃だと思った。
スコープを取り付け、ライフル用補助脚でしっかり固定して狙いをつけた。
レンズを通して亜獣の形状がはっきりと確認できた。ヨロイのような硬そうなウロコが光っていた。のろのろと動く脚部を照星に捉えた。
引き金にかけた指に力を入れた。
最速連射モード。音もなく、火薬式よりも早く弾丸が打ち出されていった。
わずか一、二秒で弾倉の半分を消費した。全弾命中。
「なにっ?」
しかし紀崎は目を疑った。ほぼ一点集中で当たったはずなのに、スコープに映る亜獣に傷ついた様子はまったくなかったのだ。
距離があるからか。
そう判断できた。
なんばパークスの屋上から住宅展示場まで直線距離で二百メートルはありそうだった。十分射程距離ではあるが、少し硬い目標物なら損傷には至らない。
もう少し接近してからでないと足止めになるほどのダメージを与えられない。屋上で、亜獣がやってくるまで待ってはいられない。
なんばパークスからヤマダ電機の二階につづく渡り廊下からの銃撃なら、それが可能だろうと判断した。
が、リュックを持って飛び降りようとしたとき――。
「あ、まずい」
亜獣がUターンして引き上げていく。おそらく銃撃を受けて警戒したのだろう。
「どうしたの?」
ゆいりの声がした。
いっこうに亜獣の姿が見えず、銃声もしないからなにが起きているのか、地上の二人にはわからない。
「だめだ、亜獣が逃げていく」
追いかけたところで、態勢が整わないでの戦闘に勝算は期待できなかった。紀崎はあきらめた。狙撃装備をとりはずすと、二人の待つ場所へ飛び降りた。
「失敗だ。命中はしたが、足止めどころかかすり傷ひとつつけられなかった。追うか?」
と確認した。
二人とも否だった。
あれが梅田地下で出会った亜獣なら、追いかけてでもその正体を見極めようとしただろう。だが、ゆいりはそう思えなかった。
「痛くもない銃弾で撃たれて逃げるなんて、サイクロプスだとは思えない」
「でも一応、似てはいたんだな?」
紀崎が問うと、ゆいりは軽く肩をすくめた。
「大きさだけはね。それ以上は直接見ていないし」
「そうか……」
亜獣がいたという住宅展示場の、百年も前に建てられたかと思うほど汚れの目立つモデルハウスをなんとなく眺めていたれみるが、ハッとして顔を背後のなんばパークスの上空に向けた。
「ちがう、銃撃で逃げたわけじゃない!」
「なに?」
れみるの視線を追って、紀崎も振り仰いだ。ちょうど太陽の光が窓ガラスに反射していた。目を射るような眩しさに顔をそむけた。
しかしれみるが凝視しているのはもっと上だ。たれこめた雲の間に見える青い空。エリア・オーサカにあって快晴は稀だ。そこに変化が現れた。
「あっ」
と、ゆいりは叫んだ。
最初、それは風に吹かれて形を変える雲の動きと大差なかった。目立った変化はなく、この段階で異常に気づけというのは無理な話だというほど。しかし雲の一部が灰色から黒へと徐々に変色していくのと同時に、あきらかに風の吹く向きと異なる方向へと流れていき、その範囲が見る間に拡大していくに至って、いつの間にかなにかが起きようとしていることを発見するのだ。
ホールが出現しようとしている。「空間をつなぐもの」という意味ではゲートと同じだが、エリア・オーサカとつながる先が未知か既知かの違いがあった。ゲートは、単純にエリア・オーサカとその外側のごく近い周辺を結ぶもの――門と称される。それに対してホールは、別の、未知の世界に開かれる穴だった。外見は似ているが、渦の中央に虹のような発色が見られ、区別できた。
「亜獣はあれを嫌ったんだ」
れみるが指摘した。
ホールの高度が徐々に下がっていく。その大きさは、普段目にするゲートよりも大きい。そして、呼吸をしているかのように収縮を始める。その動きはまるで巨大な生き物のようで、ゲートよりも一層不気味だった。
「よし!」
紀崎は気合いを入れるかのように叫ぶと、重い武装をときはじめた。命の次に大事に思っているだろう自動小銃を無造作に投げ棄てると、予備弾倉を入れた軍用パウチも腰からはずした。
身軽になったところでジャンプする。ヤマダ電機の屋上へ一気に上がり、次はなんばパークスの屋上、つづいて途中階から上が失われているパークスタワーへ駆け登っていく。
それを見て、れみるが後を追った。
「待って! そこへ入っちゃだめ!」
紀崎はホールを目指していた。目的はホールの向こうの世界。つながっているべつの世界。
紀崎がゆいりに語った過去――。自分は異世界人。いつか元の世界へ戻るために、エリア・オーサカに入ってチャンスを待っている……。
ジャンプで届くかどうかは微妙な高さだったが、紀崎は飛び込むつもりだ。
パークスタワーから跳躍した空中で、れみるが追いついた。そして、紀崎にホール発生銃を向けた。引き金を引く。
灰色の球体につかまり、紀崎の体が硬直する。その大きな背中に飛びついたれみるは、落下していく途中で体をひねると、パークスタワーの上――むきだしになったオフィスの床に着地した。事務机が散乱している青天井のフロアで二人してひっくり返った。
紀崎を捕らえていたマイクロホールが消滅した。
「なぜ邪魔をする!」
呪縛がとけて、紀崎はれみるを振り解く。顔色を変えてつめよるが、れみるは臆することなくまっすぐ見返して、首を横に振って強い口調で言った。
「そこへ行っちゃ危ない」
「危ないのは承知している。だがおれはあそこへ帰らなきゃいかんのだ。そのためにおれは――」
言い合う二人の脇を、一つの影が通り過ぎた。
目で追い、その正体を知って紀崎は驚く。
「八坂さん!」
ゆいりがホールへと向かっていたのだ。
れみるが阻止しようとジャンプするが間に合いそうにない。
そのとき、ホールの渦がだしぬけに大きくなり、すさまじい突風が吹き出た。ゆいりは小さな虫のように吹き飛ばされた。高速道路の上にたたきつけられる直前、体をひねって猫のように着地した。
クルマの絶えた高速道路から、ゆいりは唇を噛んでホールを見上げた。
再度跳躍する。スイスホテル南海の、現在の最上階へ着地。パークスタワーと同様に、途中階から上が消失したフロアは客室が雨ざらしになって高価なインテリアが台無しである。
「あっ」
ホールを睨みつけるゆいりの喉から声がもれた。
ホールが縮む――。それは現れたときと違い、唐突だった。
ほんの瞬きする間にホールは消滅し、後すら残らなかった。
ゆいりはしかしまだホールのあった場所を見つめていた。右の握り拳が震えていた。
陽が沈んだ。
晴天は長くは続かなかった。どんよりとした雲がいつしか低くたちこめ、小雨が降り出し、夕方には本格的な雨となった。
三人はキャンプへと引き込んでいた。なんばパークス八階。
夜は交代で見張りをたてることに決まった。亜獣には夜行性のものもいた。エリア・オーサカではいつでも油断はできないのだ。
深夜一時――。
見張りを終えたゆいりがのっそりとした足取りで戻ってきた。
膝を抱えて壁に背中を預けていたれみるがさっと立ち上がった。
「眠ってなかったの?」
「ううん。目が覚めたから。亜獣はいた?」
「いなかったわ」
「そう。雨は?」
「まだ少し降ってる。濡れないところで見張りをすればいいわ」
「そうする」
れみるは尻をぱんぱんとはたくと、音波銃とホール発生銃をもって歩き出す。
ゆいりは外へと出てゆくれみるを見届けると、横になっている紀崎が正面に見える壁際に座り込んだ。ぐっすりは眠れないだろう――仮眠をとるつもりだった。徹夜の一日ぐらいは平気だろうが、明日の戦いが激しくなるかもしれないから、少しでも睡眠をとっておくにこしたことはない。
「戻ったか?」
大胆にも熟睡していると思っていたら、紀崎は声をかけてきた。
「なんだ、起きていたの」
「ああ」
紀崎はむっくり上体を起こし、井戸の底から見上げるような目でゆいりを見る。居ずまいを正し、言葉を踏みしめるように、
「八坂さんは、いや八坂さんも、異世界から来たのか?」
と訊ねた。
ゆいりはふう、とあきらめたようにひとつ息を吐いた。
「いえ、ちがうわ」
「じゃあ、なぜあのときホールに飛び込もうとした? ホールの向こう側になにがあるのか、知ってるんだろ?」
「知らないわ」
きっぱりとゆいりは言いきった。それから、「ただ……」と言い継いで、言いよどんだ。
重い沈黙。改めて冷たい気温に気づいて身を縮める。この季節、日が沈むと急速に気温が下がる。屋内とはいえ暖房もなく、普通なら寒くて仕方がないはずなのだが、体内のナノマシンが寒さに耐えるよう働いてくれているので眠れないほどではない。
「おれはホールの向こう側から来たから、そこがどんな世界か知っている。しかし理想郷なんかじゃないぞ。エリア・オーサカの外で暮らすのと大差ない。もっとも、オーパムなんかいないがな。それだけだ。オーパムが来る前のこの世界と変わりないだろう。危険を冒してまで――」
「そんなんじゃない!」
ゆいりは声をあらげた。
紀崎は表情をかえず、黙ってゆいりの言葉を待った。
ゆいりは、紀崎の視線から逃れるように首をひねってガラス窓のほうを向く。明かりがない屋外は真っ暗闇だ。何度もエリア・オーサカにダイブしてきたが、夜間を経験するのは初めてだった。いつも豊中のマンションから見るエリア・オーサカは塗りつぶしたような闇に沈み、昼間よりも一層来る者を拒絶した。今、そこにいるのが奇妙に感じるゆいりだった。
やがて、ぽつりと言った。
「わたしには、一人娘がいるの……」
紀崎はなにも言わず聞き続けている。信じ難いほどの静寂が、ゆいりの発するすべての声を逃すまいと待っているかのようだった。
両手で膝をかかえ、一度顔をうずめてから、ゆいりは語り始めた。