第3章『天王寺』
目が醒めたのは、頬に当たる冷たい雨の感覚か、それとも手のひらが触れる固いコンクリートの感触のためだったか――。
ゆっくりと身を起こし、横たわっていた場所が屋外であることに、縦井香穂は戸惑いの表情を浮かべる。
周囲を見回すが、見覚えのない風景……。天気は小雨。どんよりとした雲が頭上にたちこめ、いつ本降りになってもおかしくなかった。
「ここは……?」
公園だった。
きれいに整備され、多少はお金がかかっているなと思わせる洋風庭園――だった、ということは想像がついた。
だが今は、少なくともここ数年は人の手が入れられていない様子で、荒れるに任せているといった佇まい。草はのび、敷き詰められたタイルブロックの上には蔓が這い、落ち葉が木の下を埋めつくしていた。
そして――誰もいない。
人影はまったくなかった。それは立ち入り禁止の場所だから?
その可能性はありそうだった。しかしなぜここに自分がいるのか……。
香穂は、とにかくどこか雨宿りができるところはないかと周囲を見回す。
階段を上がった先、小さな建物が目に入った。公衆トイレだ。
とりあえずそこへ移動した。
庇の下で、雨で濡れた衣服を気にしつつ、いったいいつから自分はあそこで倒れていたのだろうと思い、改めて周囲に目を転ずる。
公園の周囲には背の高いビルが立ち並び、どうやら都会の公園らしい。
木立と高速道路の高架とおぼしきものの向こうに鉄塔が建っていた。特徴的な建物だが、見覚えはなかった。高圧線の鉄塔かと思ったが、電線はかけられておらず、上のほうに見えるのは展望室らしき部分だ。テレビ塔にしては背が低いような気もした。展望室のすぐ下には時計があり、それが正確なら、時刻は午前九時だ。
誰かいれば訊ねることもできようが、人っ子一人いない。人がいないのは決して天気のせいではなく、なにかべつの理由だ。そう結論した。
とにかく雨の中、歩き回りたくはなかったので、しばらくじっとして公園内を観察する。
像の立つ噴水は水が止まって濁っており、その周囲には花壇とおぼしき跡が荒れ果てて雑草が盛大に伸びていた。
縦に長いプールのような池の向こうには長方形の石を組み合わせたモニュメントがある。さらにその先に三角屋根の建物が見えるが、骨組みだけで、もしかしたらもともとはガラス張りで、温室だったのかもしれない。その証拠に椰子の樹らしきものが顔を出している。
静寂。都会なら、少しは騒音が聞こえてきてもよさそうなのに、耳をすましても鳥のさえずりやトラックの走る音やどこかから漏れてくる音楽すら聞こえない。雨粒は細かく、音を出さなかった。
それにしても寒い。まるで冬のようだ。香穂は半袖の二の腕を抱くが、寒さに歯がなりだした。
いったい、自分はどうしてこんなところにいるのだろうか。記憶を探ってみるが、覚えがない。ここに来る前、どこにいたのかも思い出せなかった。
――記憶喪失?
小説や映画のなかではありふれたシチュエーションだったが、まさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。
だが、なにも思い出せないかというとそんなことはなく、名前や年齢や仕事はちゃんと覚えていた。縦井香穂、二十四歳、職業は商社の事務員。――ただ、ここへ至るまでの記憶が抜け落ちていて、いったいどれぐらい遡ったところまでなら覚えているのだろうかと記憶を探った。
着ている服を確かめるまでもなく、直前まで夏だったはずである。でもこの寒さときたら、冬だ。季節が移ってしまうほどの期間、自分はいったいどこでなにをしていたのだろうか。
香穂は混乱した。単なる一時的な記憶の欠落という単純な問題ではないだろうと、恐ろしくなった。なにかとんでもないことに巻き込まれたのではないだろうか――。
携帯電話や財布の入っているはずのハンドバッグもなく、身動きがとれなくて天を見上げた。空はいっこうに晴れる気配がなく、このまま日が暮れてしまったらどうなるのだろうかと心配した。まだ空腹は感じなかったが、それも気になるところである。
とにかくなにかを思い出そうと懸命になった。が、頭にはなにも浮かんでこなかった。
ふと、雨音とは違う、なにか聞き慣れない音が耳に届いた。
香穂はトイレの陰から首を突きだし、音のする方向をうかがった。
「!――」
ついさっきまではなにもいなかった公園のゲート前に、想像を絶する「物音の正体」を見て、肺いっぱいになるほど息を飲んだ。
それは、これまでの人生で目にしたなかで、もっとも異様で醜悪な部類に入るだろう。
節足動物といえば小さい生き物、陸上ではせいぜい昆虫か、水生動物ならズワイガニが大きい部類に入る。
だが目の前にいるのは、人間ほどの大きさなのだ。動いていなければ作り物だと思えるのだが、ムカデのように数多くの足が漣波のように動き、頭部のあごが開閉する様は、生きているようにしか見えない。ロボットという可能性もあったが、モーター音がまったくしないのは、それを否定する材料として大きかった。代わりに聞こえてくるのは、きぃきぃとなにかが鳴る音。
香穂は後退りした。
その生き物がなにをしようとしているのか、まったくわからなかった。ただ未知のものに対する恐怖だけを感じた。
もし、自分を襲うつもりだったら――。
すでにその生き物の前に姿をさらした以上、こちらが見えているだろうから、ここは走って逃げるべきなのだが、そのタイミングを逸してしまった。
それを悔やんだ直後、巨大節足動物は香穂に向かって猫のように素早い動作で接近してきた。
「きゃあ!」
公衆トイレの奥へ逃げ込んだ。並ぶ個室の一番奥のドアを開けて中へ入って鍵を下ろすが、密室ではなく、上はあいているからあまり意味がない。
あの生き物に知能があるとは思えなかったが、それでも隠れた獲物を探すことはできそうだった。
香穂は個室内を見回すが、武器になりそうなものがあるはずもなく、もはや巨大ムカデもどきが去っていくことを祈るしかなかったが、その願いは通じなかった。
照明のない、薄暗い公衆トイレの天井に、節足動物の影が映った。
膝ががくがくと震えた。逃げ場はどこにもなく、素手で戦って倒すなどという発想もなかった、というより、手で触れることさえおぞましく、肌が粟立った。
どんなことをされるのだろう。
毒針で刺されるのか、それともバリバリとむさぼり喰われるのか。いずれにせよ、死は免れえないだろうと覚悟して目を閉じたとき、連続した破裂音が耳に響いた。
それは時間にしてほんの数秒だった。
そして、静寂――。
すぐにでも訪れそうだった最期の瞬間がなかなかやってこなかったが、かといって目をあけて状況をたしかめる勇気がなかった。
「生きているか?」
すると、男の声がそう聞こえた。
それが、どうやら自分に向けられたものらしいと気づいて、香穂はやっと目をあけた。
閂をはずして、ゆっくりドアをあけた。
頭だけそっと出して、香穂は瞠目した。
節足動物がこなごなになっていたのだ。体液にまみれた殻と肉が飛び散って床や壁やドアを汚し、凄惨な現場となっていた。
救かったと思うと同時にそれをなし得た力に畏怖を感じた。
いったいなにが……。
公衆トイレの入り口に人影があった。逆光のため、顔まではよく見えなかったが、それがいまの声の主なのだろう。
「ここは危ない。早く脱出するんだ」
たしかにそうだった。
声に導かれ、香穂は公衆トイレの外へ出た。
三十歳ぐらいの、精悍な顔立ちの青年だった。鋭い眼光が殺気を発しているのは、今の生物との戦いのせいだろうか。
見たこともない奇妙な銃で武装していた。銃身は短く、銃弾がどこに収まっているのかと思うほど華奢な作りに見えたが、その破壊力の大きさはさきほど証明されたばかりだ。強力な銃だ。
「さぁ、行こう」
男が駆け出すので、香穂はついていく。小走りで公園の出口を目指しながら質問した。
「いったいあれは、なに?」
この世ならざるものに襲われ、混乱する頭をまず落ち着かせたかった。
男は即答した。
「アノマロカリス」
「アノマ……?」
聞き慣れない単語。
香穂は質問を変えた。
「ここは……どこですか?」
男は立ち止まった。探るような目で香穂を見ると、
「きみ、ダイバーじゃないな。どこから来た?」
男の名は細村。職業はダイバー。
なんのことかわからない香穂に、細村は最初から説明してくれた。
そして、自分がどうやら他の世界からここへ来てしまったということがわかった。
夏服姿を細村に指摘されて、「今は何月?」と問うと、三月だというこたえが帰ってきたことからも、それは間違いなさそうだった。
見通しのいい歩道橋(阿倍野橋歩道橋だという)で亜獣を警戒しつつ、細村は丁寧に教えてくれた。二人が出会ったのは天王寺公園といい、そこから歩道橋につながるJR天王寺の駅ビルと近鉄百貨店、その上にそびえる超高層ビルと向かいの高層マンションにはさまれた道路に、不釣合いな路面電車の駅、公園から見えていた鉄塔は「通天閣」というのだそうである。そして、エリア・オーサカと呼ばれる特別な地域……。
「で?」
と、今度は細村が訊いた。
「これからどうする?」
寒さを見かねて貸してくれたコートを羽織った香穂は、その質問に黙った。どうしていいかわからなかった。はっきりしているのは、いつまでもエリア・オーサカにはいられない、ということだ。しかしそのあとは?
なにも知らない街――オーサカ。オーパムなどという宇宙人に支配された、日本。身分を保証するものがなにもないそんな国で、これからどうやって生きていくのか。
「わたしは……」
と言ったきり、次の言葉が出てこなかった。
天王寺駅から路面電車沿いに移動した。
前を行く細村のあとに、香穂はぴたりとくっついて。ときどき出くわす亜獣と呼ばれる異形の生物を銃で追い払いつつすすんでいった。亜獣を撃つたびに、香穂は目をきつく閉じて見ないようにした。
もうすぐ脱出口だと、細村は言い、香穂はほっとした。こんな不気味な無人の街からは早く逃れたかった。
あちこちに鎮座する窓ガラスの割れたクルマや、道路をふさぐようにひっくり返ったラッピング広告の派手な路面電車の横を通過した。
あべのベルタ――背の高いビルの壁面に黒々とした直径五メートルほどの穴があいていた。
「なに、あれ?」
中からなにかが飛び出してきそうで、細村の背の陰で香穂は身構えた。
「ゲートだ。あそこから脱出する。なぁに、大丈夫だ」
不安な表情の香穂の手をとった。
「えっ?」
いきなり手を握られたが、戸惑う間もなく引っ張られて、ゲートに飛び込んだ。
一瞬後、二人は幅二百メートルほどの川岸に立っていた。
周囲の景色が一変して、香穂は目を白黒させる。
「ここは……?」
だが細村は香穂の当惑など無視して言った。
「大和川の向こう側さ。――迎えが来た」
指さす方を見上げると、小雨の降る空から四角い飛行物体が降下してきた。
「なに、あれ……」
次から次へと驚くことばかりだ。
目の前に音もなく静かに着陸した小型バスほどの大きさの物体。窓はひとつもなく、どこから乗り込むのかもわからない、その「タチャーム」と呼ばれる飛行機械の胴体に二メートルほどの穴が突然開いた。ドアが開いたというより、突然一部が消滅した。
細村が当たり前のようになかへと入り、香穂も入っていった。
窓がないが室内は明るく、壁に沿って作りつけられてあるベンチに細村がすわっていた。天井は低く、少し背が高い人だと頭をぶつけてしまいそうだった。内装はシンプルで、窓もないので殺風景な印象だったが、清潔感は漂っている。
運転席は見えない。壁の向こう側にあるのか、それとも無人運転されているのか――?
香穂が細村の隣へ腰掛けると、開いていた開口部がさっと音もなく閉じた。内側から見てもドアがあるようには見えなかった。
これから飛ぶのかと身構えた。外が見えないからどのような動き方をするのかもわからず不安があったが、不安を感じているうちにまたさっきの開口部が現れた。飛行前になにかトラブル?
「着いたぞ」
細村が立ち上がった。
「え……?」
動いたという感覚がまったくなかった。しかも一分も経っていない。
「着いたって、どこへ?」
細村の言葉が信じられないまま香穂は立ち上がる。
細村は含み笑いし、
「堺空港さ。――ここからおれのクルマに乗り換える。ただし、その前に宇宙人と会うことになる。ま、心の準備をしておいてくれ」
宇宙人……。軽く言った細村の台詞に、香穂は違和感を覚えた。この地球上に、普通に宇宙人が存在しているなんて、冗談としか思えなかった。
「驚いても気にはするな。テーマパークの人形だと思えばいい」
細村は言ったが、香穂は緊張した。宇宙人とはどんな容姿なのだろうか。
タチャームを降りると、だだっ広い駐機場だった。そこに、香穂と同じぐらいの身長の、人間とは違う人影が立っていた。
昆虫のような顔が印象的だった。服は着ていたが、見たことのないデザインで、どう縫製してあるのかわからない。
そして、なにやら香穂の聞いたことのない言語で話しはじめた。細村がそれにこたえる。どうやらこれがオーパム語というものらしい。
異星の言語で会話を交わしている細村を、香穂はハリウッド映画の一場面のような非現実さで眺め、意外と驚いていないことに内心ほっとした。それはオーパム人が醜悪な外見でなかったからなのかもしれないと、亜獣・アノマロカリスを思い浮かべて。
「じゃ、行こう」
なんの話をしていたのか説明することなく、細村は香穂を促した。
オーパム人と別れ、空港のターミナルビルに入ることなく横の駐車場へやって来た。
広い駐車場にほとんどクルマはなく、細村は一直線に自分のクルマへと向かう。
え……?
香穂は立ち止った。
キーを開けて細村が乗り込んだのは、黄色い、外国製のスポーツカーだった。背は低く、ドアは普通のクルマのような開き方ではなく、上へと跳ね上げられ、ひと目で、自分のライフスタイルではおそらく一生乗ることのなさそうな高級車だとわかった。
「乗りなよ」
その左側の運転席に乗り込み、そう言った細村のほうが本物の宇宙人のように香穂には見えた。
数十分後、香穂は細村のマンションのリビングにいた。
湯気をたつ紅茶の入ったカップを両手で包むように持ち、小さなリビングテーブルからふと窓の外の空を見たとき、ここへ来るまでにあったすべてのことが、まるで夢の中での出来事だったように思えた。
すべてが非現実的な体験だった。
ここが高層の高級分譲マンションであることも、細村の愛車がランボルギーニであることもかすんでしまうほど、香穂が体験した諸々のことは異様だった。
「今日は疲れたろう。空いてる部屋があるから、そこを使ってくれていい」
雨で濡れた服を着替えてきた細村がリビングに入っていて言った。
「ありがとうございます、なにからなにまで」
香穂は恐縮した。
「気にしなくていい。少し落ち着いたら、買い物に行こう。服がないだろう?」
「え? でも……」
「金なら心配ない。おれが持ってる」
「そんな……!」
香穂は立ち上がった。背中にかけていたバスタオルが落ちた。
「細村さんに出してもらういわれは――」
すると、諭すような落ち着いた口調で、細村は言った。
「現実的に考えよう。これからどうやって生きていくのかも決まってないのに、要るものは要るんだ。それらをどうする?」
「それは……」
香穂は言いよどんだ。所持金すらなく、途方に暮れるしかなかった。
「おれの生活水準はわかるだろ? 服ぐらい、たいした出費じゃない」
二十畳はありそうなリビングルームを有する高層マンションに高級スポーツカー。かなりの高収入だと想像できた。
エリア・オーサカという特殊な場所での仕事がそれほどまでに高収入だというのだろうか。亜獣と呼ばれる生物と戦う危険を考えれば納得できなくもないが、それにしてもこの暮らしぶりは……。
香穂は室内を何度も見回す。高そうな調度品はなく、すっきりとしていて、モデルルームのような生活感のなさを漂わせていた。
――これが現実なのだろうか?
細村が着替えている間、ふとマガジンラックに入った新聞に目がとまり、引き抜いて開いてみたが、記事は、見知らぬ地名、見知らぬ政治家、見知らぬ事件やその続報を伝えており、香穂は、これは夢ではないかと一瞬思って額を指で押さえたのだった。
「買い物がすんだら、そのあと食事にしよう。死線をくぐり抜けてきたダイブのあとはいつも豪華にしてるんだが、今夜は独りでのディナーにならずにすみそうだ。メニューはなににしよう? 寿司にするか、それともステーキ?」
なんて返答すべきかわからず、香穂は紅茶を口にふくむ。ダージリンの香りが湯気とともに広がった。庶民から大金持ちに――まるで、ちょっとした小公女の気分だった。
南海電鉄・堺ひがし駅前の高島屋の駐車場にランボルギーニ・ムルシエラゴを入れた。
香穂は、細村と婦人服売り場へやってきて、
「さあ、どれでも好きなものを選んでいい」
と言われたものの、値の張るものを無遠慮に手にとることもできず、無難なものを選んでいった。それでも当面この世界で生きていくことになるのだから下着や靴まで購入しなければならず、かなりの出費になってしまいそうだった。
試着しながら、これがデートだったらな、などと思った。そして、服だけじゃなくアクセサリーも好きなだけ買えるんなら、と香穂は思わずにはいられない。
「似合うかな?」
服を選ぶのに時間がかかっても辛抱強く待ってくれていた細村は、「きみがそれでいいというなら、それでいい」と素っ気ない。
ふっ、とため息をつき、「ま、しょうがないか」とつぶやいた。
親切にしてくれる細村だったが、それ以上の感情を香穂に対して抱いているようではなさそうだった。出遭ったばかりだし、そこは大人なのだろうと思ったが、そこが返って多少心配だった。――玉の輿? そうとばかりもいえまい。
そのあと、地下のレストランフロアで少し遅くなった昼食をとった。いきなり寿司だが、細村がどんどん注文するので、香穂は戸惑いながらも細村に合わせた。
「いいんですか?」と訊くと、
「エリア・オーサカから無事に帰ったときは、お祝いをすることにしているのさ」と細村、
「今日は、一人じゃないから、食事もおいしく感じるよ」
「お友達とか、いないんですか?」
香穂はそれとなく、恋人がいるのかどうかを訊ねた。
細村は、間をあけることなくこたえた。
「ダイバーなんて仕事をしているとね、つい孤独になってしまうもんなんだよ。常に命を張ってるだろ。付き合いにくくなるんじゃないのかな?」
「じゃあ、なぜそんな危険な仕事を? 他にも仕事はあるでしょうに」
「どうかな? オーパムが支配して、日本はずい分変わった。でも、住みやすくなったかどうかは疑問だと思う。その証拠におれのような者が存在している……」
香穂は黙った。細村の気持ちを量りかねた。この世界のことがリアルにわかっていない香穂にとって、理解できないのは仕方がないのかと思い、それ以上、つっこんだ質問はやめた。
沈黙を気まずく思ったのか、細村は言った。
「今夜も豪華にしよう。今はクルマなので、アルコールが飲めないしね。――さ、次、なにたのむ? アワビにするか」
そう言ってカウンターのガラスケースの中を物色する。
昼食後、一階でフランスワインのボトルを買い、薔薇の花の意匠が印刷された紙袋を両手に提げてスポーツカーに乗り込むと、細村のマンションへと戻った。
***
カウベルがなった。
「いらっしゃいませ」
私がコーヒーの豆を挽き終えてから振り向くと、客はカウンターにすわろうとしていた。
が、その客を見て私はたまげた。ありえないとは思っていなかったが、「まさか」という思いと、「ついに」という思いが交錯して、私は一瞬、凍りついた。
しかしどんな客であろうと、客は客だ。私は努めて平静を装い、お冷とおしぼりを客の前に置き、果たして言葉が通じるのだろうかと心配しつつ訊いた。
「ご注文はお決まりですか?」
すると、メニューを見ずに、やや聞き取りにくい声で、
「ホットコーヒーを。豆の種類はキリマンジャロで」
と、オーパム人は日本語で言った。
脱サラし、長年の夢だった喫茶店を鶴見区8号線沿いに開業してから十五年、いろんな客を迎えたが、宇宙人の客が来たのは今日が始めてだった。
コーヒーを淹れながら、宇宙人にコーヒーの味なんてわかるのだろうかと思いつつ、こちらを見ているだろう視線に緊張していた。
オーパム人は静かに待っていた。一言も口をきかず。
ソーサーに置いたカップにコーヒーを注ぎ、オーパム人の前に出した。オーパム人をこれほど間近で見るのは始めてだった。あまりじろじろと見ないようにして、すぐに目の前から離れようとすると、
「珍しいかい?」
オーパム人が言った。その声は人間と違って喉から発生されるものではなく、顎をこすりあわせて鳴らしていた。
私はぎくりとし、
「オーパム人のかたが来られるのは、始めてですよ」
正直にこたえた。
オーパムが地球――いや、大阪に降りたって五年。にもかかわらず、街なかでオーパム人を見かけることは稀だ。オーパム人の人口が少ないこともあるが(それでも何万人といるらしい)、彼らはほとんどタチャームで移動するし、彼らの施設以外の場所はあまり行こうとしない傾向にあった。
昆虫を思わせる顔の造形は、それだけだととても人間とは相容れないように見えたが、彼らの技術レベルは地球のそれをはるかに凌駕しており、日本はその恩恵に預かり、多大な利益を得ていた。
「私もここへ来るのは始めてだ」
と、オーパム人はこたえた。人間よりひとつ関節の多い腕を曲げて、四本指の手でしっかりとカップをもつと、口に運んだ。
私は、宇宙人がコーヒーを飲むという、奇異な絵に釘付けになってしまった。オーパム人は、地球人と同じようにコーヒーの香りを楽しみ苦みを味わった――ように見えた。
一口飲んで、カップをソーサーに戻すまで、固唾を飲んで見守った。
沈黙。
「どないですか?」
宇宙人の味覚に、コーヒーはどう感じられたのだろうか。
「いい気分だ……」
「そうですか……」
私はほっとした。始めて日本文化に接した外国人に対するような気持ちで、安堵した。
「コーヒーは何度か飲んでいる。ここには味の他に雰囲気にひたろうと思ってやってきた」
「雰囲気……ですか……」
私は目をしばたたいた。
今、店には他に客はいない。時刻は午前十一時。しばらくは忙しくならないだろうし、客と話し込んでいる時間はありそうだった。
「左様。喫茶店というのが、どんな文化なのか知ろうと思って。これも仕事だから」
「仕事……」
喫茶店でコーヒーをすするのが仕事……なんとも呑気な……。
私がその疑問を素直に口にすると、
「我がオーパムは、他の惑星にやってきた際には、その星の住人の文化に触れてきた。それは重要なことだ」
「まぁ、たしかに……」
私は同意した。それはこの地球上でもそうで、だからこそ多種多様な文化が育まれ、文明が生まれ発展してきた。宇宙規模でそれがあっても驚くべきことではない。
「でもオーパム人は、文化交流のために、地球に降りたわけとはちゃうんでしょ?」
私は水を向けた。
オーパムの目的がなにか、実はよくは知られていなかった。多くを語らぬオーパムは、地球に降りて五年をすぎてなお、謎の多い存在だった。オーパムと同時に出現したエリア・オーサカでなにかをしようとしているらしいのだが。
「文化交流は副次的な目的であり、真の目的ではない。特異点エリアが我々の目的だ」
「つまり、エリア・オーサカが、目的?」
エリア・オーサカ――。外界から遮断されたその区域は、通常の手段では入ることができない。ダイバーと呼ばれる地球人が、オーパムの命を受けてエリア・オーサカに潜入していた。高額の金を得られることから宝探しでもやっているのかと思われていたが、実はバケモノと戦っているという。二度と帰ってこない者は数知れず、高収入のため最初こそ人気があったが、そんな事情だから今やすすんでダイバーになろうなんて命知らずはほとんどいなくなった。命からがら生還してもエリア・オーサカ内での体験によって精神疾患を煩い、社会復帰できない者も多いと聞いていた。まともな人間のやる仕事ではない。
「そこになにがあるっちゅうんですか?」
「それは極秘だ」
あっさり拒絶されて、私は肩をすくめた。
オーパム人は冷めないうちにコーヒーを飲み干した。そして、おいてあるスポーツ新聞を手に取った。トップ記事はタイガースだ。今はオープン戦の最中だが、それでも紙面を賑わせている。パラパラと紙面をめくり、カウンターに戻した。
「今年のタイガースにドラフト一位で入団した平井投手、なかなかいい成績をあげているようだね」
私は仰天した。まさか宇宙人が日本のプロ野球の話をするなどと……。
しかし、大阪ではタイガースの話をすれば、相手がだれだろうと盛り上がってしまう。
私は食いついた。
「そうですなぁ、十五勝はするでしょう」
「しかしオープン戦からあれだけとばしては、オールスター前に故障する。いくら六大学リーグでいい成績でも、プロのシーズンは長い。タイガースが優勝するには、中七日の間隔で大事に使っていくのがよいだろう」
「新外国人がいるし、ピッチャーには不安はないですよ」
「問題は打線だ。あの交換トレードはホークスが得をしたと思う」
「そうですか? ベテランは頼りになるし」
「ホークスへトレードされた若手の二人、森下と大原はパ・リーグに向いているバッターだと思うが、タイガースに来た栗本は気負いすぎて失敗するだろう」
「ほう、そうですかね……」
豊富な知識に、私は舌を巻いた。
おもしろい、と思って会話をつづけようとしたとき、ドアが開いてベルが鳴った。
二人組の営業マンらしきスーツ姿の男が入ってきた。手に下げた黒いビジネスバッグが重そうだった。カウンターのオーパム人には気づかず、入り口に近いテーブル席についた。
「失礼」
私は会話を中断し、お冷とおしぼりをもって客の対応にいった。
注文を聞いてカウンターの中へ戻ると、
「ごちこうさま。また来るよ」
そう言ってカウンターにちょうどの小銭を置くと、スツールをおりた。
「あ、まいどおおきに。ぜひ来てくださいよ」
コーヒーをドリップしていた私は、風のように店を出ていくオーパム人の後ろ姿に声をかけた。
その日を境に、私のオーパムに対する考え方が変わった。